二章:墨香
一
姜氏について、他人よりも沈清が知っていることと言えば、姜氏の家族についてだろうか。
沈清は姜氏の下男の中でも一際聡明である。それは姜氏の邸では周知の事実である。それ故に沈清は姜氏にいる四人の息子のうち、一番上の姜月の下男として仕えていた。姜月は温厚で、漢詩を詠むことや象棋をすることを好んだ。酒や争いを好まず、武官を多く輩出し、父親と病弱な次男を除いた二人の弟が武官である姜月は姜氏の中でも異質な存在だった。
「昨日は遅くまで帰ってこなかったらしいね。尹婆が君を探していた。怪我はしなかった?」
やはり、姜月の反応は姜氏には珍しいものだ。
昨夜、沈清が邸に戻り姜永曹に迷惑をかけたことを詫びると、彼は笑って賭け事に沈清を一晩中付き合わせた。彼は沈清の疲労などお構いなしに自分の都合に付き合わせたが、本来であればそれが普通なのだ。姜月の性格は姜氏において無駄なものであった。
「旦那様にもお知らせしましたが、若様にもお伝えします。昨夜、川に姜氏以外の者が立ち入っておりました」
沈清がそう言うと、姜月はぱっと目を輝かせた。
「侵入者だ」
沈清は頷いた。
「どのような出で立ちだった?」
姜月は沈清に墨をすらせ、その間に自分はまっさらな紙を用意した。部屋いっぱいに墨の香りが満ちた。
「背は俺よりも四寸(12㎝)ほど高く、女のような顔立ちで、美しい白い髪を持った男でした」
姜月はしばらく紙に沈清が述べたことを書き連ねた。
「白髪の男とは珍しいな。年齢はどのくらい?」
「二十代前半と言ったところかと」
「ますます不可思議だ。金髪や茶髪、銀髪は聞いたことがあっても、若くして白髪というのは耳にしたことがない」
姜月は感慨深そうに筆を置いた。
「他の大陸の者でしょうか」
「君とは尹鈴の言葉で会話したんだろう?他の大陸の者が饒舌に話せるものではないはずだ」
二人は一様に黙ってしまった。
「そうだ、阿清。君がその者に会った場所へ連れていってはくれないか?」
姜月は良い案だと言わんばかりに沈清を見つめた。いくら仲が良いとは言え、尹鈴第一功臣の長男と彼に仕える下男では身分が違いすぎる。沈清は頷いた。
二
四半刻(30分)後
姜氏の邸の門を叩く男がいた。門前に控えていた下男二人が門を開け、男を邸内に入れた。邸の中で象棋をしていた姜永曹は、その男の存在を認めると、男が普通の者ではないことを本能的に悟った。姜永曹は立ち上がり、男を自分の執務室に通すように命じた。
「天帝侍郞、敏恩だ。そちらの下男である沈清を引き取らせていただく」
男は有無を言わせぬ口振りで開口早々にそう言った。姜永曹は予想だにしていなかった用件に思わず唖然としてしまった。
「なにゆえでしょう。沈清はご存じの通り下男でして、天界とは全く程遠い者でございます。それに、我が家でも彼は重宝しておりまして、突然そうおっしゃられましても、簡単には···」
姜永曹はさすがの対応で天帝侍郞だと言った敏恩に帰ってもらおうとした。しかし、敏恩はその意図が伝わらなかったのか、無表情で懐から小さな巾着を取り出した。
「こちらは···」
姜永曹が戸惑ったように巾着と敏恩を交互に見た。
「そなたの次男に食わせてやると良い」
敏恩の言葉に、姜永曹は思い当たる節があったようで、驚いたように敏恩を見た。
「阿然をお助けくださるのですか」
「沈清をこちらに引き渡してくれるのなら」
「はい。はい···っ。沈清はそちらにお引き渡し致します。ありがとうございます。ありがとうございます」
姜永曹は何度も叩頭(跪いて額を床につける礼)をした。
「では、沈清が戻ってき次第、準備を進めます」
姜永曹はそう言うや否や部屋を辞し、姜氏の次男、姜然の元へ向かった。
三
「ここです」
沈清は、姜月を昨夜男を見た川へ連れてきた。
「ふむ···特に変わった様子はないね」
昼間の明るい時間になってきてみれば、あのように月明かりに照らされて美しかった川など最初から存在しなかったかのようにただそこかしこを流れるような川があるだけだった。
「はい。まるであの男も最初から存在しなかったかのようですね」
「ああ。不可思議だ···」