第一章 1『嫌な気分』
この世界には不思議な力を持つ人間がいるらしい。
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顔が熱い。これは、朝日だ。ゾクっと気持ちが悪いほど目が覚めた。まるでこの瞬間に起きることが遥か昔から決まっていたかのような感じがする。いつも通り妹が料理をする音が聞こえる。レンジでチンをする音だ。
のんびりと朝の支度を終え、我が家の最後の砦が家を出発する。俺はなんとなくコンビニに立ち寄った。気になった雑誌とおにぎりを持ってレジに向かう。そこで背中に衝撃が走った。
「コウー!おっはよー!」
「鈴森、お前はあれか、猪木の隠し子かなんかか」
「なんで隠されないといけないのっ」
なぜか片方痛みを伴う挨拶の後、会計を終えて二人並んでコンビニを出る。コンビニの前で小学生たちが野良猫と遊んでいるのを見かけてつい声をかけてしまった。
「汚いからやめておいた方がいいぞ」
「おにいちゃんだれ……?」
小学生たちは見るからに怯えた表情で俺を見つめている。そんなに怖がらないでくれよ。すると俺と小学生の間に鈴森が割って入った。
「ごめんね。こんな目つき悪い男の人に話しかけられたら怖いよねっ。ほらっ、小学校遅れちゃうよ。手を繋いでいってらっしゃい」
優しさに満ち溢れた笑顔を小学生たちに向けて手を振る彼女。すごいなこいつ。
「仲良しだなー。あたしたちもあんな感じだったのかなー?」
「どうだろうな……」
朝から小学生に怯えられて少し悲しい気持ちになった…。
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「みんな、おはようさーん!」
名前を覚える意味がないくらい縁のない中年教師の挨拶も、痛くないのなら心地の良いものだな。校門を抜けて、季節感に溢れた紅葉道を歩きながら自分の教室へと向かう。隣のクラスの鈴森に別れを告げて、物理的に軽く、精神的に重い教室の扉を引いた。
「よー光弥!今日も相変わらず眠そうだな。ちゃんと寝てんのか?」
「おはよー鋭時。ちゃんと寝てるわ。その証拠にお前よりも身長高いしな。おかげでモテモテだしなー」
「俺と式ちゃん以外とまともに会話しようともしないやつが、なーに言ってやがる」
席替えで偶然席が前後になった数少ない友人と朝の挨拶をして席に着く。こいつも朝から元気すぎる。
俺の席はいわゆる青春席。後列一番左の窓側の席。
「今日は1限から数学かよー。めんどっちーなー」
「そうだなー。数学なんて所詮言葉での伝達を諦めた人間のやることだろ」
「おい光弥、お前めちゃくちゃな人数を敵にまわしてんぞー」
何気ない会話を皮切りに教室での1日が始まり、ぼーっとしているうちに昼休みになる。鋭時はいつの間にかどこかへいってしまい、ソロ昼食を始めた。ぼっちなんて言い方は無粋。ソロって言った方がかっこいいし、かっこいい方がその事実から目を背けやすい。
美味しい美味しい愛妹弁当を食べ終わった頃に鋭時がバツが悪い表情で教室に帰ってきた。
「なんかあったのか?」
「いやさー、颯太がさ、咲ちゃんに告白したんだよ」
「知らない人が知らない人に告白した話をされてもなんもわからん」
「俺と同じサッカー部でなかなかのナイスガイでもある三嶋颯太が、俺らと同じ1-Cで俺の中ではかなりの美人ともっぱらの噂の藍野咲ちゃんに告白したんだよ 。ってか颯太はともかく咲ちゃんのことくらい知っとけよなー」
「藍野さん」って聞いたら一発で分かったと心の中で思いつつ、女子の下の名前まではしっかり把握している鋭時に同じ男として感心した。
「へー。じゃあビッグカップル誕生ってことか」
「いやそれが誕生してないんだよ。それどころか、あの普段は静かな咲ちゃんが今まで聞いたことのないような声で颯太を振ったんだよ」
「ふーん。今まで聞いたことのないような声?まぁ、なんか地雷踏んだんだろ、その颯太ってやつが」
「わっかんねー。遠くから見てはいたんだけど、颯太が何て言ったのかは聞こえなかったんだよなー。でもよ、そもそも地雷を踏む告白ってなんだよ」
「そうだな……」
そんな、男としては颯太とやらに同情してしまう話を聞いたところで昼休みは終わった。
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午後の授業中、鋭時から聞いた話について頬杖をつきながら考えていた。どうして藍野咲は取り乱したのだろうか?そんなことを考えながら教室を見渡すと、教室の右前の方に一際美人オーラを放つ女の子を見つけた。鋭時が騒ぐくらいだし間違いなく彼女が藍野咲だろう。肩にかかるかどうかくらい長さの黒髪、スッと通った鼻筋、横から見ても綺麗な子だってわかる。いいや、これはとんでもない美人だ。でもどこか目元からアンニュイな雰囲気が漂よっている。彼女は夕暮れの寂れた喫茶店が似合いそうだ。もちろん良い意味で。
ちょっと見ただけでもいろんな妄想が捗りそうなアンニュイ美少女がナイスガイ(鋭時談)をこっ酷く振る姿なんて全く想像がつかない。せいぜい「ごめんなさい……。私はあなたと付き合えない」と冷静な一言で振る程度だろう。
そういえば鋭時は「咲ちゃん」って呼んでたな。でもどう考えてもあの子は「藍野さん」としか呼べない雰囲気がある。いや「咲ちゃん」も意外といいな……。
「はい、それでは藍野さん。次読んでくれるかな?」
古文のおじいちゃん先生が生徒を指名する。
「物思ふに 立ち舞ふべくも あらぬ身の 袖うちふりし 心知りきや」
「ありがとう」
綺麗な声。透き通りすぎて見えなくなってしまいそうな声。でもどこか彼女の不安定な心境を覗かせる声に聞こえる。ただの先入観からくるものかもしれないけど。
肝心の和歌の意味は……なんだったっけ?
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帰りのHRも終わり、同時に放課後が始まった。帰宅部の俺はいつも通り最速で下校する。そんな模範的な帰宅部員に対して心無い担任教師の一言と学級日誌が降りかかる。
「おい明里。今日はお前が日直だぞ」
「はい。わかっております」
「よし、それじゃあ頼んだぞー」
腕を捲ったジャージというザ・女体育教師という風貌がどうも威圧的だ。やっぱり佐野先生は俺の学校生活での一番の敵だな。
やるべきことは一応ちゃんとやる。ただし、全力で手を抜く。それが俺のモットー。ある程度机を綺麗に並べて、ある程度黒板を綺麗にして、チョークを整理する。その時、黒板右下の文字が目に入った。
〈藍野・明里〉
おやおや。彼女は日直の仕事をサボったようだ。余程告白が嫌なものだったんだな。ここは寛大な心で許してあげようではないか。最後は日誌に今日1日の学校生活の感想を書かなければならないが……。とりあえず今日の天気と一番難しかった授業の感想という名の文句を書いてやろう。
あとは職員室の佐野先生に日誌を届けるだけだ。職員室は二階にあって、一年生の教室のある一階からはそこそこの距離がある。それはそれは面倒だ。教室を出て職員棟に向かう途中、誰もいないはずの教室から女子の声が聞こえてくる。
「あんた何様なわけ!あんなひどいこと言う必要があったの?」
「私があの人に何を言ったとしても、あなたには関係ない」
敵意丸出しの声と透明な声が聞こえてくる。
「その態度がウザイんだけど。ウチと颯太はーーーー」
間違いなく藍野咲が絡まれている。人間の嫌なところを垣間見てしまった。いや勝手に聞こえてきただけだけど。無視してさっさと日誌を届けてしまうか。
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職員室に入るとその慌ただしい雰囲気につい飲み込まれてしまいそうになった。こんなにざわざわした職員室も珍しい。
「佐野先生はいらっしゃいますか?」
「いるぞー。おー明里、終わったのか。お疲れさん」
「なんだか忙しそうですね。これを渡しに来ました」
「そりゃもうすぐ体育祭だからなー。生徒主導とはいえ教師も色々あるんだよ。……ん?藍野はサボったのか?」
案の定、佐野先生は日誌を見ながら指摘してくる。「藍野さんは女子に絡まれてました」って言えばいいのか?
「これは連帯責任でペナルティを与えないとなー」
「冗談は顔だけにしてください。俺の」
なんか勝手にペナルティに巻き込まれそうになっている。心の底からやめてほしい。
「そういえば文化祭のクラス委員、まだ決まってなかったなー」
「それでは失礼します」
強制的に締めのセリフを言って素早く職員室を出ようとしても、佐野先生は俺を止めることはなかった。今は1人の生徒に構っている暇などないんだろう。幸運にも俺は職員室から出ることができた。
帰る前に体育館近くの自販機に向かうことにしよう。なんとなくコーラを飲みたくなった。
「ガタン!」
何度利用しても、丁寧な音声案内と勢い満載の商品提供のギャップにツッコミを入れたくなるな。まあ飲めればなんだっていいんだけど。
「カシャ!プシューッ!」
開けた瞬間、制服の袖にベトベトの炭酸がかかる。頬杖つくたびにコーラの香りを堪能できる制服が完成した……。
少し遠くで女の子がこちらを見ている。どうせなら笑ってくれよ。
にしても可愛いな。あの子。
「さっさと帰ろ」
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そんなことがあった次の日の朝、俺はいつも通り鋭時の世間話を聞いていた。
「マジで颯太が元気なくてよー、部の雰囲気もなんか悪いんだよなー」
鋭時はこっちを向きながら両手を頭の後ろに組んで、三嶋颯太の近況を話してくる。三嶋は一年にして部のムードメーカーなのか。良くも悪くも自分の気持ちに正直なやつなんだろうな。
おそらくそれと原因を同じくして、朝から藍野咲の悪口が聞こえてくる。いいや、これはわざと聞こえるように言っているんだな。気分が悪いな……。あの時の女子の仕業なのか?
まさかいじめが始まったりは……してないよな?昨日の放課後の様子から考えたら絶対にないとは言い切れない。
昨日、俺は何かできたのだろうか。そんなこと、今更考えても仕方ない。
第一、俺にはなんの関係もない出来事だ。俺が気に病む必要はないはず。そのはず。
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「ビービービー」
「ん……うっさ」
携帯のアラームを止め、重い瞼をこじ開ける。随分と長い時間寝ていた気がする……。なんなら夢の中で寝ていた気もする……。
「夢か」
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どうやらこの世界には不思議な力を持つ人間がいるらしい。
ここにも1人いる。
ある日、三嶋 颯太は藍野 咲に告白する。それが原因で嫌なことになってしまう。
それは必ず起きるはずだった。
それが嫌だった。
9月29日の朝、俺は決心した。