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第八番

「今日は何も聞かんでくれ。そっとしといてくれると、ありがたいわ」


 名人戦第三局の感想戦終了直後。会場出口で待っていた私たちを見るなり、五歩堂竜王は素っ気ない態度であしらってきた。訪れた結果に対する不機嫌さを露骨に顔に出すことはなく、ただ、いつ終わるともしれない長時間の拷問からようやく解放されたばかりの捕虜のような、体力の著しい消耗による疲労感だけが、くっきりと顔相に沁み込んでいた。


 それでも、眼だけは死んでいなかった。そのことに心底驚いた。まさしく「竜の瞳」と言って良かった。自ら飢餓の境地に飛び込み続けた者だけが見せる、先鋭化した覚悟の現れだった。この状況でもそんな眼をしていることに、言い知れぬ恐ろしさを覚えた。


 かけるべき声が見つからないでいる私たちにそそくさと背を向けると、竜王は寄ってきた記者たちを適当に相手してから早々にタクシーを拾い、夜の福岡へ溶け込むように消えていった。タクシーのリアウインドウ越しに見える竜王の赤髪が小さく、遠くなっていくのを、私たちはただ黙って見送るしかなかった。


 そのままホテルに帰着して床に就くつもりか。それとも、どこかの居酒屋に一人で入り浸り、命運決する第四局への戦略を一から練るつもりなのか。この時の私たちには、竜王がどのような一晩を過ごすつもりでいるのか、まるで見当がつかなかった。


 敗北から学ぶこともある――あらゆる勝負事にまつわる常套句のそれは、だが、この場合当てはまるのだろうか。第一局、第二局、そして第三局と続けて竜王の三連敗という現実を、私たちはどう受け止めていいか分からなかった。内容が、あまりにも完璧だったせいで。どの対局も、終わってみれば名人の圧勝。まるで水のようにあらゆる攻め手を受け止めたかと思えば、千変万化の勢いで嵐のような怒涛の攻め手へと転じる名人の指し筋を前に、()()()()()()()()()()()()()()()


 差がありすぎる――当時、素人目の私たちには、竜王と名人の間には、絶対的な隔たりがあるように思えた。ともに棋界の最高位に位置しながら、こうまで一方的なものかと、ただただ圧倒されるしかなかった。観測に徹している私たちでさえ、そう感じたのだ。当事者である竜王の心境がいかほどのものであったか、簡単に慮るのは畏れ多いことだった。


 だが、弟子の三連敗という事実に対し、師匠である二葉進七段は、別の見方をしていたようだった。


「自分の人生はマイナスからのスタートだと、彼はよく口にしていましたからね。彼にとっては、将棋を指しているときだけが、人生がプラスに好転しているように感じるみたいなんですよね」


 大阪府大阪市北区。そこで五歩堂竜王は生まれた。彼の実の父親は、医療機器の代理店に勤める営業マンで、息子が小学校へ入学したその日に、性犯罪の現行犯で逮捕された。塾から帰宅途中の女子中学生、当時14歳の女の子を言葉巧みに誘い出して社用車に連れ込み、みだらな行為を働いたと、当時の地方新聞の片隅に掲載されていた。


 これがきっかけで両親は離婚。母親はシングルマザーになり、昼は地元のスーパーでレジ打ちのバイトをし、夜は水商売で養育費を稼ぐようになったが、そこで出会った不動産関係の男と内縁の関係になったという。竜王が8才の頃の話だ。


 正直なところ、竜王の過去についてはそれぐらいのことしか分かっていない。その内縁の男性と竜王の関係が、良好であった試しなど一度もなかったのだろう。それぐらいは普段の竜王の様子から察せられたが、具体的にどんな関係だったのか、何がきっかけで将棋に目覚めたのかまでは、判然としていない。竜王は自らの過去を詳細に私たちに語って聞かせるようなことは頑なにしなかったし、私たちにとっても、竜王が自らの過去を反芻することで、対局にマイナスな影響が表れる可能性を危惧していたため、根掘り葉掘り聞きだすことはしなかった。二葉七段から間接的に聞き出す手もあったが、彼は大事な教え子のプライベートな情報を進んでメディアの餌にするような、そんな軽薄な人物ではなかった。


 それで良い。この現代において、マスメディアの権威はすでに地に落ちているかもしれないが、だとしても、私たちには「由緒正しいテレビマン」としての矜持がある。私たちがやるべきことは、竜王のゴシップ探しではない。彼が名人戦に懸ける想いの熱量であったり、背水の陣に立って、なお挑み続けるその精神力の高さがどこからやってくるのかを、テレビの向こうの視聴者に届けることだ。


「これで負けたら人生終わっちゃうとか、もう取り返しがつかないとか、そういうのは極力考えないのが、棋士という生き物の“習性”なんですよ」


 だが、意気込む私たちとは反対に、二葉七段の口調はどこまでも凪のような穏やかさがあった。場所は、秋田県天童市。運命の第四局が執り行われるその前日。ビジネスホテルの一室を借りてのインタビュー形式による取材中に聞いた話だ


「彼に限らずね、棋士ってのはそんなもんですよ。そんなもんというか、まぁ、一流の棋士に限る話ですけどね。まぁ、これはあくまで私の意見ですので。他の方は違う見方をしているかもしれないけれどね。それでもね、やっぱり、“負けたらどうしよう”とか“良い手が浮かばなかったら大変だ”とか、そういうことを対局前にわずかでも考える棋士はね、もう底が見えちゃってますよね」


――たしかに、そういうことを考えているような眼はしていませんでした。それが不思議なんです。


「一流の棋士なら誰でもそうですよ。ところで……ひとつ、こちらから質問してもよろしいですかね」


――ああ、はい。なんでしょうか。


「あなた、将棋のルーツって知ってます?」


――いちおう調べてはきました。たしか、古代インドの「チャトランガ」と呼ばれるボードゲームが起源だという説が、今のところ有力だとか。


「そうそう。昔々、古代のインドに戦争の大好きな王様がいて、毎日たくさんの兵士たちの血が流れていたとかで、それを辞めさせるために僧侶が考案したゲームがそれなんだってね」


――見事、王様はそのゲームの面白さにハマってしまい、現実の戦争より夢中になってしまった。結果的に国は平和になり、国民は大いに喜んだ……そんな話だったかと記憶してます。


「どうしてハマったんだと思います?」


――どうして……それは、コストパフォーマンスが良かったからですかね? 多額の軍事費を掛けずに戦争ごっこが出来るというのは、戦争好きな人からしてみれば魅力的に映るでしょうし。


「なるほど。他には?」


――うーん……面白かったから……?


「ほう。どんなところが?」


――駒を自由に動かして、戦術や戦略を組み立てるのが……ですかね?


 言葉にすればするほど、口にした答えがありきたりなものに思えた。さすがに少し恥ずかしくなったが、二葉七段は得心したように、何度も小さく細い顎を縦に揺らしてみせた。


「戦術に戦略。まさにそれですよ。人も駒も同じ。指揮下において自由自在に“コントロールする”という点では、将棋と戦争に、そう大きな違いはない。“持ち駒制度”がその代表格でしょう。敵軍の兵士を殺すのではなく、捕虜して扱うというルール。これには国際戦争法に近いものがある。真っ直ぐにしか移動できない香車が一気果敢に攻め入る様は、さながら神風特攻だ。最初は一兵卒に過ぎない“歩”であっても、敵陣地への破壊工作を機に“金”に“成る”というのは、実際の軍事情でもままあること。そして兵や将がいくら血を流しても、大本営すなわち“王将”が無事な限り、戦争は継続する。時代が平和になり、空襲のサイレンが遠い過去のものになろうとも、現代将棋には戦争に通ずるものが今もなお息づいている……私の母方の叔父は、よくそんなことを口にしてましたよ」


――母方の叔父……と仰ると、あの“竜殺し”で知られる升岡幸吉さんですか。


 升岡幸吉。戦中・戦後に活躍した“将棋界の偉人”の一人にして、名人位が世襲制ではなく実力制に移行してから数えて四代目の名人。通算成績は598戦389勝。中盤から終盤にかけて、相手の攻め駒である「竜」を翻弄するような指し筋が特に知られており、“竜殺しの升岡”の異名を持つ。日に400本のタバコを吸い、対局後にはワインボトルを3本は空けるという豪胆さでも有名であり、その大胆な戦略性に気風の良さ、数々の言動に見られる離人感から、今日における将棋研究において、彼こそが人類史上最初の「棋人」だったのではないかと疑われている、半ば伝説上の人物である。


「升岡幸吉は奨励会を卒業してすぐプロ棋士になるはずが、徴兵されましてね。1938年の秋頃だったと聞いています。最初は海軍省の軍需局に入局して機械工学の仕事に就いていたそうですが、上官に反発して海軍省を辞めさせられて、その後は陸軍の独立工兵隊第36連隊に編入させられて、パプアニューギニアに送られたんですよ。そこで終戦を迎えて、のちに棋界に復帰したんです。まぁ、これは有名な話ですからご存じでしょうが」


――ええ。それにパプアニューギニアでいうと、北部にあるウェワクという州都が特に激戦区だったと聞いています。オーストラリア軍やアメリカ軍が、島の航空基地を狙って何度も何度も、昼夜関係なく爆撃してきたと。


「おお、よくご存じですね」


――四年前の夏に戦争関連の特番を組みましたから。その時の調査で私も初めて知ったんです。恥ずかしい話ですが。


「さすがメディアの人だ。升岡が配属された36連隊が残留戦闘を命じられたのが、まさにそのウェワク地区だったんですよ」


――それは初耳です……あの激戦を、よく生き抜きましたね。


「升岡曰く、銃剣を担いでいる時も、死にゆく仲間の傷を手当ていている時も、塹壕に潜んでいる時も、飢えの苦しさにのたうち回っている時も、ずっと将棋のことを考えていたそうです。ただ、それは将棋を指したいという欲求を生きる糧にしていたのではなくて、戦場を盤面に見立てて、ひたすら自分は“駒”であると、そういう自己催眠をかけていたようですね」


――精神を、落ち着かせるためにですか?


「ええ。自分は駒だ。ただのしがない駒なんだ。俺の人生の手綱は俺が握っているんじゃない。真っ赤な血で濁った大洋の果ての果て。遠い遠い祖国におわす“尊きお方”の手に握られているのだ。ここにいる俺は人間じゃなくて駒だ。将棋の駒なんだ。だから、何も考えなくていいんだ……そう深く深く意識すると、恐怖や絶望が次第に遠のいて、すーっと胸のつかえが取れたそうなんです。ただ、これは後に本人から聞いた話ですが、升岡はその時の自分の選択が誤りだったんではないかと悔いているんですよ」


――それは、いわゆるサバイバーズギルトというものですか? 自分だけが生き残ってしまったことに対する罪悪感に苛まれていたと?


「うーん、それもあるんでしょうけど、正確には違くてね……升岡はこうも言ってました。“制御された現実”に対して、もっと正しい向き合い方があったんじゃないかと」


――制御された現実?


「升岡は、戦場のことをそう例えていました。“制御された現実”……補給物資、弾薬数、戦艦の位置、部隊の展開、戦闘継続可能な兵士の数、医薬品の在庫、そして死者数……何もかもが数値で還元出来てしまう世界。動物としての人間が本来生まれて生きる“自然界”とは異なり、正義も悪も関係なく事態が進み、“戦況予測”という言葉にも表れているように、何もかもが予測可能で収束可能な世界。“制御された現実”としての戦場は、圧倒的な数値理論とアルゴリズムに支えられている。そして戦場が我々の近場から遠ざかっていったいま、今度は、私たちが生きているこの現実の世界が、デジタルの発展に伴い、“制御された現実”と化しているんじゃないかと、私はそう思うんですよ」


 二葉七段の話す内容は、人によっては飛躍しすぎた世迷言のように聞こえるかもしれない。だが、実際にインタビューを敢行した私たちの受け取り方は違った。メディアの世界に身を置いているからだろうか。二葉七段の口を借りて出てくる升岡名人の話には、どこか共感できる部分が多かった。


 例えば、自然災害。一昨年の春先に、私たちは4.19中部震災から7年経った長野県飯田市へ取材に向かった。仮設住宅の冷たい佇まいと、変わり果てた故郷を寂しげに見つめる被災者たちの眼差しが、今でも忘れられない。当時の日本のメディアは連日連夜、あの戦後史上最大規模の震災にさんざん踊らされた。無論のこと、私も含めて。混乱する感情と錯綜する情報を必死に整理して、どうにか被災地の現状を正確に視聴者へ届けることに苦心していた。


 ところがその一方では、毎日のように起こっている交通事故であったり、火の不始末による火事であったり、その手の日常茶飯事に繰り返される事件や事故について割かれる時間は限りなく少ない。お昼のニュースで1分そこそこ。そこで流れたっきり姿を消す。


 升岡の主張によれば、これこそ私たちの世界が“制御された現実”であることの、何よりの証拠となるのだろう。“自然”という予測不可能な事象を前にした時と、“事故”という予測可能な事象は、この社会において等価な存在として扱われていない。どちらも誰かが傷つき、誰かが亡くなっているにも関わらず、私たちは無意識のうちに“死者数”という“数値”を代入することで“贔屓”している。交通事故や火事といった、事象の原因の発生に因果関係という名の理屈を持ち込めるかどうか。それをベースにして考えている。それに因果関係が認められ“制御可能である”と社会の規範や世論が定めたなら、それに私たちは簡単に対処できる。だが、それらよりもっとスケールが大きく、さらには因果関係の介入など出来やしない事象に対しては、時として見当違いな憶測やデマを読んでしまう。


 軍靴の音は去った。平和はやってきた。それでも私たちは“制御された現実”に慣れ過ぎてしまった。そのことを、升岡名人は憂いていたのだろうか。将棋という、すべてがコントロール可能なゲームを通じて、在りし日の惨劇に自分がどう向き合うべきだったか、懊悩としていたのだろうか。


「将棋もそのことから無関係ではありません。むしろAIが導入されて以降、盤上における“制御された現実化”は加速していると言って良いですね。手筋の良し悪しを“評価値”という数字に還元するようになってからは、将棋に元から存在していた戦略や戦術といったアルゴリズムが、より強く規定され、様々な“システム”が考案されていった。現代将棋には“システム”という名のついた手筋が多数ありますが、あれなんかはその最たるものです。そして、優れた棋士、優れた棋人であればあるほど、その“制御された現実”から生まれた“制御された手”を、間違うことなく指そうとする。そうすることで、確かに強くはなるのでしょう。しかしながら、多くの棋士、棋人たちが追い求める盤上真理、すなわち“神の一手”には遠く及ばないんじゃないでしょうか」


――なぜ、そのようにお考えになるんですか?


「神は、現実という名の(くびき)から解き放たれているからこそ、神であるからです」


――五歩堂竜王はAIソフトを使用していますが、私たちが取材した限り、それに頼りっきりという感じはしませんでした。むしろAIソフトの欠点を、先ほど二葉七段がおっしゃったようなことを口にしていましたよ。AIソフトは手筋を数値化することができるが、それが限界点だと。


「そうでしょう」


――大事なのは思考の流れ……正しい手を指すのではなく、なぜその手を指すか。それが重要なんだと。


「そうでしょそうでしょう」


――あの、五歩堂竜王は……


「おっしゃりたいことはわかりますよ」


 二葉七段は目を細めると、懐かしい思い出にでも浸っているかのような、どこか感慨深い声を漏らした。


「まだ、彼に勝ち目はあります。升岡とはまた違ったやり方で将棋に向き合い、そしてきっと、名人も目を見張るような一手を、次の第四局で差してくれる。私はそう信じていますよ」

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