第七番
はじめに言葉ありき、と神は言った。
聖書の話だ。具体的には、ヨハネ福音書の一節である。すべての始まりは「言葉」にあって、この世に「知性」と呼ばれる大いなる力があるとするなら、それは「言葉」をおいてほかにない。そういう意味なのだと思う。
言葉は万物を創り出し、空を、大地を、花々を、樹木を、霧を、風を、ミミズを、ゾウを、トカゲを、そして人間を生み出した。すべての生命体は、遺伝子という名のミクロな設計図を基に、タンパク質などの栄養素で構成されているが、それによって生み出されるのは「創造」ではなく「存在」でしかない。
この世に産み落とされたありとあらゆる「存在」は「言葉」によってはじめて「意味」を与えられ、その時に「創造」される。言葉があるからこそ、人間は眼前の事象に意味を与え、それを初めて認知することができるのだ。
名人は我々テレビ取材班に、そんな話をしてくれた。名人戦前日の夜のことだった。
――なぜ、突然そんなお話を?
『言葉は力であり、私の操る“将棋言語”がまさにそれだからです。他の多くの棋人が繰り出す言語もたしかに“将棋言語”と呼んで差し支えないものですが、私のそれは、彼らと明らかに違います。その“違い”がどのような結果を私自身にもたらしてくれるかを、あなたには知っておいていただきたいのです。私を取材するとは、つまりそういうことなんですから』
己の力を必要以上に誇示するような、傲慢な物の言い方ではなかった。ECHOESを通じて放たれる名人の声は真剣さそのものであるように、我々には思えた。自ら意図せず“棋人”へと成ったからこそ得た知啓の一部を、彼はどうにかして我々に伝えようとしていたのだろう。
はじめに言葉ありき。
すべての「存在」は言葉によって、はじめて「価値」を与えられる。それがどんな形状を成し、どんな生態的特徴を持ち、どんな地理的関与を有するか、それもまた「言葉」が決定づける。
「ミミズ」は「ミミズ」という名前を与えられたからこそ「ミミズらしき存在」は「ミミズ」として存在することを約束され、「ゾウ」は「ゾウ」という名前を与えられたからこそ「ゾウらしき存在」は「ゾウ」として存在することを約束されてきた。他ならぬ、我々人間たちがそう決めてきた。
だが、我々が決定づけるのは生物や植物の創造だけではないと、名人は口にする。「時間」もその対象なのだという。中学英語の基礎教養を持ち出すまでもない。我々は「現在」という時間軸で起こる出来事のほとんどを「現在形」の文法で表現する。「未来」や「過去」といった時間軸も、また同じだ。
我々は、これから起こること、これまでに起こったこと、そのすべてを「言葉」によって説明できる。そういう表現を可能とする手段を、肉体のいち機能として宿している。
言葉の力で時間の在り方を定め、表現する。ならば、いまいちど考える必要がある。有史において人間社会に波及することなく、ただの一度も表現の普遍性を認められなかった言葉が仮に存在するとして、それが「言葉」としての機能を持つようになったら、どうなるだろうか。
何億年――眩暈を覚えるほどの寂寥感に襲われ、気が遠くなるような荒野を彷徨い続け、ただの一度も「言葉」として認められなかった迷いし音の連なりたちを、だが「それは言葉である」と認識できた人間が操るとき、果たして彼の目に世界はどのように映るのか。
名人が言いたいのは、つまりこういうことなのだ。
『私は“将棋言語”を駆使することで、盤面の未来が視えているのです。予測であるとか、推論であるとか、そういった不確実性のある話ではなく、まさにそれは現実に起こっている出来事のように、私の目には視えているのです』
言葉があるからこそ、人は世界に存在する事柄を認識し、理解できる。そして言葉があるからこそ、人は現在だけでなく、未来や過去も言葉によって表現することができる。
ただし、その力が与えられているのは、いまこの地球上に言語として学術的に体系化された言葉のみに限られる――そんな、誰もが当然のものとして受け入れている常識が、実際にはただの“思い違い”なのだとしたら、どうなるだろうか。言葉は人類文化が生み出したひとつの到達点とされているが、まだその先があったのだとしたら、どうだろうか。
そんな、禅問答じみた問いかけに対する完璧な答えを、我々は会場で目撃したのだった。全く相手を寄せ付けず、あらゆる手筋を読み切り、一人孤独に真理への系統図を創造しようとしている、男の背中を。
久能名人。彼は、盤面を読み解く言葉として将棋言語を会得した結果、将棋という限定的なフィールドにおいてのみ、我々凡人が絶対に届くことの叶わない力を手にしたのだった。
すなわち、対局を支配する「時間」を――「“未来の流れ”」を完璧に視るという力を。
▲▲▲
名人戦第一局の終了後、久能名人に密着している取材班からその話を耳にした私たちは、どんな表情をしてよいかわからなかった。
未来を読む力。それも、将棋限定の。
いくらなんでも眉唾すぎる――だけれども、もしかしたらあり得るかもしれない――対極の思考に揺さぶられたが、最終的に、私たちは後者の考えに落ち着いた。
あの人知を超えた棋力を説明するには、それくらい突拍子もない理屈が必要なのだと無理矢理にでも納得させるしかなかった。そうして理屈をどうにか飲み込んだことで、しかし更なる疑問が湧き水のように溢れてきた。
対局限定で、未来の“流れ”を完璧に視る。なるほど分かった……しかし、どんな風に“視る”というのだろうか。
何か「未来地図」とでも言うべき具体的な図像がくっきりと名人の脳裏に浮かんでくるのだろうか。それとも、俗に第六感とされる超常的な感覚を鋭敏化させているのか。あるいは自動書記のように、対局中は名人本人の表層意識は深層に沈み込んで、無意識のうちに手を動かしているのだろうか。
だがしかし、そんなことは疑問という括りの中でも「どうでもよい」たぐいのものだ。そんなものより、ずっと考えるべきことがあった。すなわち、起こった事実を、どう伝達するべきかについてである。
五歩堂竜王……彼に、この事を知らせるべきだろうか。そのことについて、しばらく班内で意見を交換した。その結果、名人に備わったその特殊な力のことを伝えることは、止めにしたのだった。
理由は単純だ。フェアではない。それだけのことだ。私たちは五歩堂竜王に密着取材していくなかで、少なくとも好感のひとつやふたつは覚えていた。それは事実だ。
けれども、それとこれとは分けて考えるべきだという理性的な判断も、当たり前だが持ち合わせている。人生を賭けた勝負事に、ただのテレビクルーが水を差すような真似をしてはならない。真理を追い求める修行僧たちの苦闘を知らない者は、いかなるお節介も、いかなる親切心も働かせてはならない。
私たちは、ただの傍観者。決して血まみれの決闘場に足を踏み入れることを許されない、観測者として徹するべきだ……そういう意見で初日の夜はまとまったのだが、同じことを考えている人物は、もうひとり存在していたのだ。
△△△
前代未聞の終局を迎えた名人戦第一局から三日後のこと。
第二局が行われる京都市のホテルに移動した我々取材班を待っていたのは、トラックで大掛かりな荷物を運び出す浦桐氏と、彼の研究室のスタッフと思しき人たちだった。
―一体なにをされているんです?
「なにって、準備だよ。色々とね」
口調はそっけなかったが、荷解きをする浦桐氏の顔色が興奮で紅潮しているのを、我々は見逃さなかった。2トントラック一杯に積まれていたのは、どれもこれも高価そうな馬鹿でかい電気精密機器と、人間の腕ほどの大きさもあるアダプターやらケーブルやらだった。
――それ、まさか会場に持っていくんですか?
「連盟の許可は貰っているから、邪魔はせんでくれよ。君たちの取材に同行していたのも、本当はこいつが狙いだったのさ」
浦桐氏が手配したと思しき作業服姿の男たちが対局室に運んできたのは、錚々たる室内環境測定機器の数々だった。対局室の温度、湿度、気流、粒子数、一酸化炭素、二酸化炭素、その他もろもろの大気環境物質を測定するためのサンプリング機器をはじめ、ありとあらゆるセンサーや計器類の数々が、物々しい様相で畳の上に鎮座されていくのは、なんとも異様な感じであった。
それらすべての精密機械類には無線通信機能が備わっており、大盤解説の会場で待機する浦桐氏とその取り巻きの研究員たちは、連盟職員がどこからか持ち込んできた簡素な作業台の上にパソコンとモニターを置いて、観測の準備に取り掛かり始めた。
――これだけの機材、どうやって揃えたんです?
「ウチの大学の機材備品室から持ってこれるだけ持ってきたんだよ。第一局の終了後に、特急で送ってくれってね。ボクは普段から“信用の貯金”ってやつを大事にしてるからねぇ。無害な感じを大学では装っているから、貸し出しに伴う煩雑な手続きもある程度カットしてもらってるんだ。世の中ってのは、意外といい加減な調整で仕上がってるもんなのさ」
――何が狙いでこんなことを? お二人の対極の邪魔になるとは、お考えにならないんですか? だいたい、これ全国ネットで流す予定なんですよ? こんなこと、放送されでもしたら、大目玉食らうんじゃないですか?
「カットしてもらえれば問題ない。編集室の奴らにそう伝えてくれよ」
――しかし……
「まだなにかあると? まぁ、別に放送してもらってもいいよ。仮にそれで炎上したとして、だから何だというんだ。炎上なんてのは学問の世界じゃあしょっちゅうだし、批判されることにはさんざん慣れてきた。そんなことより知りたいことがボクにはある。君だってそうじゃないか?」
――どういう意味です?
「輝かしい知性と知性のぶつかり合い、衝突、奔流、その結末。ボクたちは、きっととてつもない現象を目撃することになるかもしれない。あの第一局をこの目で見届けて、そう直感したんだ。確信していると言ってもいい。だからこうして、貴重なデータの数々を取ろうというわけだ。棋人研究の、更なる発展のためにもね」
――現象って、いったい何を期待されているんですか。
呆れ気味に問いかけると、パソコンのセッティングを行っていた彼は、そのタイヤを積み重ねたような体を厳かに揺らすと、しばらく考えたのち、真面目くさった顔で呟いた。
「宇宙の誕生……かな」