第一番
"棋人"と"人間"の見た目における違いは、まったくといって良いほどない……というのが通説である。
彼ら棋人は――一日当たりのカロリー摂取量が、合宿中のプロアスリートの倍以上とは言っても――私たち現代人が口に運ぶものとそう変わらない食事を摂っているし、酸素を吸っては二酸化炭素を吐き出して生活している。朝に目覚め、日中に活動し、夜に眠るという生活サイクルも同様だ。間違っても、目が三つあったり、腕の数が一本多かったり、そんな奇怪な事例はいまのところひとつ報じられていない。
すなわち、外見的な特徴と、おおよその生活様式だけで言えば、彼ら棋人は将棋に縁のない私たち一般人や、将棋世界の片隅で普通に生きている”棋士”と呼ばれる人たちと比較しても、特段これといった違いはないのである。
しかしながら、一般人はおろか棋士と比較しても、棋人が異様な行動様式や文化様式を醸成し、歴代の強者達が舌を巻くほどの並々ならぬ戦績を作り上げているのは明らかだ。
連続勝利数、年毎の最高勝率、通算勝利数、タイトル防衛回数にその獲得回数……将棋の強さを測るこれらの物差しの上位を"棋士"ではなく"棋人"たちが占めてから、もう随分と経っている。
「棋人は、"将棋"という"スポーツ"に特化した新人類なんだって、それいま一番言われてるからね?」
そう口にするのは、自身もアマ三段の実力を持つ東栄大学特殊文化人類学科の准教授にして、今回の棋人密着取材に動向していただいた、浦桐三郎(57)氏だ。国際物理学応用研究センターの主任も兼任している浦桐氏は、ゴムタイヤを何段にも積み上げたような立派なお腹をぷるぷると揺らし、鼻の下にごまのように散らばる吹き出物をみっともなく弄りながら、棋人にまつわるさまざまなお話を、私たちテレビの取材班に聞かせてくださった。
以下に流すのは、そのごく一部を抜粋したものである。
「江戸時代から長きにわたり連綿と続く将棋界において、彼ら"棋人"の登場は"事件"以外のなにものでもなかったって、それいま一番言われてるからね? だって考えてみなさいよ。ごくごくフツーの食卓を囲んで飯を食っていた自分の息子が、ある日ふと興味本意で将棋盤に触れたら、その面白さに気付き、のめり込み、彼女も作らず、みんなが受験勉強する中で一人だけ将棋の勉強に打ち込んで、やっとの思いで奨励会へ進んで、ライバルたちと切磋琢磨して、プロ棋士としてデビューして活躍する姿を、親の自惚れと逞しい妄想力でポワポワと思い描いてみせたとしてもだ、まさか"棋人"になるなんて、想像だにしなかったもんさ。少なくともボクが子供の頃、すなわち1980年代の終わり頃はね」
――やはり、それだけすごい出来事だったんですね?
「すごいという点で言えば、かつて隆盛を極めた"チャイルドブランド"や"東の五将"なんぞ話にならないね。なにせ"棋人"たちは、そんじょそこらの”天才棋士”たちとは次元が違うんだって、それいま一番言われてるからね?」
――現在、将棋界に君臨する"最強の十人"、すなわち"A級"に籍を置いている棋士のうち、半数以上が"棋人"によって占められていると言われています。しかしながら、棋士と棋人の区別は曖昧としたもので、世間では”A級の中でもとりわけ強い棋士”のことを”棋人”と称する向きもあるようです。
「ボクとしては、科学的な知見もなしに"ただ強い"ってだけで棋人設定するのはおかしいんじゃないかって意見だけど、世間じゃそういう評価らしいね。棋士らしい棋士は……五歩堂竜王だけか。ま、よく頑張ってる方だと思うよ。性格がちと小生意気だけど」
――ひとつ質問があるのですが、将棋という環境が"棋人"を産み出したんであれば、将棋と似ているチェスにおいて、なぜ"棋人"に匹敵する"チェス人"は現れないのでしょうか。
「そのいかにもテレビ屋が考えました的なクソッタレネーミングセンスには辟易とするばかりだが、それはともかくとして、君の問いに対するボクの回答は極めてシンプルだよ」
――と仰りますと?
「戦略的深みがチェスには備わっていない。これに尽きるね」
――もう少し具体的にお願いします。
「知的思考という名の歴史ある大きな器の中心へ、矮小なサイコロ一粒だけを放り投げて鳴り響く音の程度なんて、たかがしれてるってことさ」
――あの、具体的にと言ったんですが。
「だぁ、かぁ、らぁ……考えてもごらんよ。将棋は相手の駒を奪ったら、そいつを守りに回すか、攻めに回すかして、戦術の道を切り開く。つまり戦場に例えるなら、性格も適正もばらばらな各兵士の特質を探しながら、事態の突破口を開く"開拓的な知的スポーツ"と言えるよね」
――そうですね。
「それに比べて、チェスはなんだい、ありゃ。敵兵は皆殺し、女王も王も皆殺し。いかにも野蛮な征服者の思想が生み出したゲームだ。あんなもの、この国に根付かないのも当然さ」
なにかを褒めり認めたりするのに、いちいち比較対象を持ち出してきては、それを貶めずにいられない浦桐氏の傲慢過ぎる性格に嫌気を覚えながらも、インタビューを続けた。これから私たちが密着する予定の人物が備える超人性と奇跡的な偏屈具合を加味すれば、浦桐氏程度の変人の言葉にいちいち感情を乱されては仕事にならないというのが、私たちテレビ取材班共通の認識であった。
――では"棋人"を"棋士"と比較した場合、特に優れている点は、どういった部分でしょうか。
「自分の周囲にある複雑な状況を、シンプルなスタンスで完全に把握する力を、いつでも備えている点。いわゆる"大局観"をいつでも発揮できる点だね。だがこれは、一般の棋士が備え得るそれとは大きく異なるって、ボクは考えてるんだけどね」
浦桐氏は自信たっぷりに太鼓腹を揺らして、そう告げた。
大局観――それは一般的に言って、将棋盤の上で駒と駒とがぶつかり合っている場所だけに視線を向けるのではなく、まったく戦況が動いていない部分も含めた盤面の全局面を丹念に粘り強く観察することで得られる直感だったり、閃きを獲得する力のことを指すと言われている。
これまでの、数多の棋士の経験に裏打ちされた"決まりごとに近い指し筋"……いわゆる"定跡"を学ぶだけでは、大局観は会得できない。そして、深い読み筋、時に数千手先を読めるほどの将棋的体力であるところの"棋力"を十分に有していたとしても、それが大局観を得る前提には必ずしもならない。むしろ大局観の本質とは、直感や閃きといった言葉に古くから潜む"魔術的な閃光"であり、コンピュータでも再現しきれない"未来的な呪術"であるとされている。
だがしかし、"棋人"の持つ"大局観"は、従来のそれとは似て非なるものであると、浦桐氏は分析しているのだという。
「彼らは脳の構造が通常の人間とは大きく異なる。記憶や類推を司る大脳モジュールの接合形状、シナプスの連なりが非常に高密度で、神経伝達物質の種類にも、特に興味深い発見が報告されている。"棋人"に関する研究は"特殊技能人保護法"のせいで遅々として進まないが、しかし彼らの脳がなんらかのきっかけで異様な進化を遂げているのは明らかだって、いま一番言われてるからね」
――それが対局以外で、最も良く現れているのは?
私たちの質問を受けて、浦桐氏が小馬鹿にするような調子で口にした。
「言語だよ。それ以外になにがあるってんだって、いま一番言われているからね」
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Tips
○将棋……古代インドで栄えた盤上ゲーム【チャトランガ】をルーツに持つといわれている、アナログなゲームにして知的スポーツ。日本に伝来した時期は定かではないが、現在のところ、1993年に奈良県の興福寺境内から発掘された1058年のものと見られる駒が最古と言われている。すなわち、平安時代の後期には、すでに将棋文化は日本に根付いていたとされている。
○棋士……プロ・アマチュア問わず、将棋世界で活躍する将棋指しの俗称。2020年の時点で、日本国内には150人~160人程度のプロ棋士が存在すると言われている。プロ棋士になるには、まず【奨励会】と呼ばれる養成機関に在籍し、そこでの星の取り合いや厳しい年齢規定をクリアし、四段への昇段試験に合格した者だけが"プロ棋士"を名乗ることが許される。なお、2020年の奨励会の在籍者数は170人程度とされており、規定によって、毎年たったの4人しかプロ棋士になれない、超々厳しい世界なのである。
○段位……将棋の世界では、規定の勝利数を重ねたりタイトルを獲るなどすると、段位と呼ばれる一種の肩書きが上がっていく。分かりやすく言えば、RPGで言うところのレベルである。知らない方のために補足すると、まず全てのプロ棋士は四段から経歴をスタートしていく。史上最強と名高い羽生善治も、破竹の勢いで進む藤井聡太も、みな四段から出発しているのである。そう考えると、プロ入り後4年9カ月、わずか19歳で段位最高峰の【九段】まで到達した藤井聡太の人知を越えた異常な強さが、感覚的にお分かりになられると思う。
○A級……棋士の強さは段位だけでは測れず、その他の強さの目安に【クラス】というものがある。これは【順位戦】と呼ばれるリーグ分けによって分類され、上から順番にA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5クラスに分かれている。文字通りのトップクラスであるA級にはたったの10人しか在籍を許されず、ここに在籍する棋士を俗に【A級棋士】と呼ぶ。順位戦は毎年行われるため入れ替わりも激しく、逆に言えばずっとA級に在籍し続けている棋士は天才以外の何者でもない。加えて、たとえ段位が高くとも、それがA級在籍を保証することは決してない。言わずもがな、A級とは魔窟なのである。ヤバい。ちなみに上記の5クラス以外に、順位戦を指さないフリークラスと呼ばれる平和なクラスもある。
○チャイルドブランド……2021年現在、将棋の世界(棋界)のトップに君臨する、羽生善治、佐藤康光、森内俊之、郷田真隆、そして全盛期の羽生と唯一互角の勝負を繰り広げた故・村山聖などを含めた、1990年以降に活躍し出したプロ棋士世代の総称。俗に【羽生世代】とも呼ばれる。ちなみにチャイルドブランドの名付け親は、羽生善治らと共に将棋の研究をしていた島朗。その後、田中寅彦の記した書籍「将棋界の超新人類 これがチャイルドブランドだ!」で、一般的に広く知れ渡ったとされている。
○棋力……読み方:きりょく。将棋における専門用語のひとつ。棋士の総合的な強さを表現した言葉。ドラゴ○ボールで言うところの【戦闘力】をイメージしていただければ分かりやすいかと思う。ただし、この世界にスカウターは存在しないため、棋力を数値表現することはできない。