パパはボクサー
スポーツとは無縁だった私が、40歳を目前にボクシングジムに通い始めたのは、ダイエット目的でも、ストレス発散でも運動不足の解消でもない。
ましてや世界チャンピオンを目指して、という訳でもない。そもそも、日本ではボクシングのライセンスは29歳までに取得しなければならない。
私が、ボクシングジムに通い始めたのは、息子に「生きる」ことを言葉ではなく伝えたかったからだ。
今日で10歳の誕生日を迎えた息子は、生まれながらに脳に障害を抱え、10歳まで生きられる確立は50%だと医師に告げられた。
その瞬間、私と妻は絶望の淵に立たされ、生きる希望を失いかけた。
しかし、そんな時、私たちに生きる希望・勇気。そして、生きることの素晴らしさを教えてくれたのは、他ならぬ息子であった。
生まれて間もない息子が、新生児室で懸命に生きようと、
心臓を動かす姿に、私たちは、一生涯を掛けて我が子を守り抜くことを誓った。
何を犠牲にしてでも・・・
そして、そんな息子に私たち夫婦は、「生きる」と書いて「しょう」と名づけた。
私は、会社で営業部に所属し、直属の部下を4人抱える営業1課長であったが、事情を説明し、出張や残業の少ない総務部に異動させてもらった。
仕事が終わるとまっすぐ帰宅し、会社の忘年会を除いて、外で夕飯を食べて帰ることは一度も無かった。
そんな甲斐もあってか、生は障害を抱えながらもすくすくと育ち、10歳どころか何年だって生きられる!と希望が沸いてきた。
言葉や運動機能こそ劣るのの、身体は平均的に育だった。
そんな生が、特に興味を示し、夢中になったのがボクシングだった。
ボクシングが放映されるとテレビに噛り付き、興奮していつも観戦していた。
ある日、帰宅した私はスーツを脱ぐなり、ボクシングの世界タイトルマッチを観るためにテレビを着けた。
争いごとが苦手で、ケンカのひとつもしたことがない私ですが、無い物ねだりの憧れで、子どもの頃からプロレスや格闘技観戦が唯一の趣味であった。
何を隠そう、妻との初デートはプロレス観戦だったのだ。
ネクタイを緩めつつ、生が座るソファーに腰を落とした。
試合は既に始まっていたが、まだ3Rの開始ゴングが打ち鳴らされたばかりだった。
この試合は、デビュー直後から応援する日本人選手の初防衛戦であると同時に、連続KO勝利記録の掛かった大事な一戦でもあった。
ボクシングに夢中になっている私の横で、生も試合が進むにつれ、いつになく感情を露にし、明らかに興奮し、ボクシングを見ていた。
こんな生の姿を見るのは初めてだったので、私は台所で家事をしていた妻を呼んだ。
四六時中、生と一緒にいる妻でさえも、この時の生の反応に驚き、そして喜んだ。
次の日、妻は生の主治医にそのことを話すと、「生君が興味を示すものは、どんどん見せてあげてください」と言われた。
以来、私たちは、ボクシング中継があると家族揃ってテレビを見るようになった。
また、試合を観戦するために試合会場にも足を運んだ。
生は、ボクシングを見るようになって以来、元気になり、回復にむかった。いや、それはもしかしたら願望だったのかもしれない。
しかし、生がうまれて以来、私と妻は心から笑ったことがなく、決して明るい家庭ではなかったのだが、生のお陰で我が家に「笑い」が芽生え始めたのは事実だった。
ある晩、私は子供用のボクシンググローブを買って帰り、生にプレゼントした。
私は生の両手にグローブを嵌めてやり、ボクシングゴッコをした。
父と子らしいことをしたのは、この時が初めてだった。
普通の親子であればキャッチボールが相場と決まっているが、球技が格闘技に変わっただけの事であり、私にはどちらでも良かった。
そして、何より嬉しかった。
この日は、生よりも私の方が興奮し、寝付くまで時間が掛かってしまった。
その日を堺に、帰宅後は生とボクシングゴッコをするのが定番になった。
また、妻がレフリーを買って出たため、私の勝利は永遠になくなってしまった。
ボクシングゴッコが日課と化したある日、私も自分専用のグローブを購入した。
実際にグローブを嵌めただけではあったが、不思議とそれだけで強くなった感覚を覚えた。
こんな感覚は、ロッキーを観た10代の頃、以来だろう。
そして私は、通勤途中の駅近くにあるボクシングジムの会員になった。
それは、少しでも生にカッコいいと思われたいのと、一生懸命に生きることを実感したかったからだ。
とは言っても、週に1・2回ジムに足を運んで、サンドバッグを見よう見まねで叩くだけだった。
もちろん、そんな日でも帰ったら生との試合が控えている。
会員になって1ヶ月が過ぎた頃、ジムの更衣室の壁に貼られたポスターを見て、生まれて初めて闘争心に火が付いた。
こんな感情を多分「男の心に火が付いた!」と表現するのだろう。
ポスターは、いわゆるオヤジ世代がリングに上がるアマチュア大会を告知する内容だった。
私は、生のために戦いたい、生と共に戦いたい、そして、生に父が戦う勇姿を見せると決心した。
妻にその事を伝えると、予想に反し意外にも応援してくれた。
試合まではおよそ3ヶ月。
運命の悪戯か?それとも神様からの贈り物なのか?試合の日は、生存確率50%と言われた生の10歳の誕生日だった。
私は試合の日まで、殆ど毎日ジムに足を運んだ。
ボロボロになって帰宅した日でも生との試合だけは欠かすことは無かった。
試合が近づくにつれ、恐怖が私を襲った。
それは、試合に対するものだけではなく、生の10歳の誕生日でもあるからだった。そのたびに、私は生に勇気を貰い、自分を奮い立たせてきた。
そして、遂に試合の日が来た。しかし、殆ど記憶がない。打たれすぎたからではなく、緊張と不安と恐怖のせいだ。
気が付くと試合が始まっていた。
テクニックなどを争う気は毛頭なかった。ボクシングを初めて間もない私ができる事などたかが知れている。
私は、生に「生きる」ことを、「生きている」ことを伝えるために戦うのだ。
試合はお互いに決め手が無いまま最終ラウンドに持ち越された。
ここで前に出なければ、リングに上がった意味がない。
私は、肩で息をしながら無我夢中で休むことなくパンチを出し続けた。
「生!」生きろ!生きてくれ!1日でも永く、1分でも1秒でも永く生きてくれ!
ガムシャラに腕を前に出した。生、何かを感じてくれ!明日も、明後日も、その次の日も、そのまた次の日も、パパとボクシングをしてくれ。
神様、どうかお願いです「生」を生かしてください。私と妻から生を奪わないでください。
生から人生を、命を奪わないでください。
生が視界の隅に入った。立ち上がり生も腕を前に出していた。
生も一緒に戦っていた。懸命に、懸命に、その小さな身体で戦っていた、「生」は生まれてからこれまでずっと戦っていた。
これからは私が戦う番だ。生の命が続く限り。
手は鉛の様に、足は棒の様になっていたが、懸命に前に出続けた。
生!今だけはパパにほんの少しの勇気と力を分けてくれ!
私も相手もフラフラだったが、私の出したパンチが相手に当たり、一瞬よろめいた。
生の「パパー!」と言う叫び声とゴングが重なった。
試合は判定に委ねられた。
リング中央に呼ばれ、レフリーに手を取られ、判定結果を待った。
レフリーが私の手を挙げた!
勝った!
生を見た。生、誕生日おめでと、パパ勝ったよ。生、これからも一緒に戦おう!生、共に戦えば怖いものなんて何もないんだ。
妻が、生の腕を取りリングに上がった。
生は泣いていた、笑っていた、興奮していた、生きている。
私は、生をリング上で肩車した。
生!ありがとう!私は今、生きていることを身体で実感している。
生、生まれてきてくれてありがとう。