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勇者であり、蛮族の長だったとは思えない柔和な手つきで水の入ったグラスを置く。清く透き通った水は近くの渓流から採水したものだろう。帝都に雨は滅多に降らないが、代わりに周囲の山々には多量の雪が積もっている。それが自然の水瓶となり、季節を問わず純麗な雪解け水をもたらしていた。
ソードはグラスを傾ける。水の割には甘く、丸みを帯びだ舌触りだ。初めてここに来たときはレインさんと一緒だった。その日も今日と同じように良く晴れた日で、生前に近い街並みには大層驚かされたものだった。
木彫り細工に満たされた依頼ボードはからっきしで、一件足りとて依頼は無い。他の勇者ギルドと比較して、あからさまに少ないが特別珍しい事でもない。ギルドがギルドであるために舞い込む依頼も、高難度かつ高報酬ばかりで頻発するような物でも無いからだ。
「ん、戻ってきたな」
重低音のドラムの音が漏れる中、時空の勇者の言う通り、静かな会話と足音が共に聞こえてくる。静かで落ち着きのある、心安らぐ声だった。
やがて扉が開かれる。茜色の逆光の中に機械仕掛けの少女が姿を現す。右手に一つ、左手に一つ。抱えるほどの大きさがある水樽を、涼しい顔をして持っているのは記憶の中と何も変わらぬ姿をしたレインさんだった。
「無理しなくてもいい。手伝おうか?」
レインは樽を持ったまま振り返る。彼女の向けた視線の先から二人目の影が光を閉ざす。
たった一言、大丈夫、と影は呟く。よく聞きなれた声で話すその影は、レインに慣れた調子で笑いかける。見覚えのある髪型に、服装そして体形だった。逆光に浮かぶ影が両手に下げ持つ樽を置くと、扉が閉まり西の光が収まった。
手にした剣を固く握る。真っ先に感じたのは驚き。そして一瞬の空白を越え、怒りの感情が沸き上がる。いくつもの色が混ざり合い黒くなった感情は、寄せては返す波のように一定のリズムをもって強くなり、理性のダムを超えようとする。
暗さに慣れた視界の中で笑みを浮かべる少女が気づく。メイスとクロスと変わらない。二人とそしてソードと全く同じ顔立ちの少女がレインの傍に立っていた。