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「ミツキ、ミツキ起きて。それともソードの方が良い?」
聞き覚えのある少女の声が白く眩んだ視界の中に響き渡る。明順応する景色は見覚えのあるコンクリートの屋上で、天をも塞ぐ錆びた安全柵は取り払われていた。
「ようこそ。地獄の門の一つ手前へ」
ヒナタだった。あの頃あの時の格好のまま、変わらぬ女神のような笑みを浮かべ、ソードに手を差しだした。
自分が寝ていた事に気づいて、ソードは彼女の手を取った。少し冷たく白い手は、優しくそしてしなやかで、マメや厚い皮に覆われたソードの手とは真反対だった。勢いを付ける彼女に合わせ、しなやかな手を強く引く。ヒナタはうっかりバランスを崩し、逆にソードに引かれて転がり込んだ。
二人は小さな悲鳴を上げて笑い合う。コンクリートの屋上に仰向けになり、二人並んで空を見上げる。
東の空には太陽が、西の空には満月が、青から黒へのグラデーションが天蓋のキャンパスを染めあげている。二つの大きな天体の間を天の川が線を引き、まるでこぼしたミルクのように、澄んだ空へ白い霞を描いていた。
「ずっと近くで見ていたよ。あの世界はどうだった?」
「最悪だった」
「本当に?」
見上げた空に流星が光の筋を描き出す。ヒナタが空に手をかざすと、一つ、また一つと輝き出した。
「そんなに、悪くなかった。かも」
やや間を置いてソードが言った。
「遥か昔から沢山の人が考えた。死後の世界はどうなってるのか。輪廻転生。天国地獄。どちらも合ってて間違っている。あの世とこの世を行ったり来たり。永遠なんて無いけれど、延々と続いてきた世界はあるよ」
「ヒナタは転生を、あの世界に居たことがあるの?」
「あるよ。でも、またすぐに死んじゃった。せっかく生を受けたのに、産まれた場所が悪かった。すごく高い空の中でさ。すぐに地面にぶつかって、第二の人生もそれでおしまい。覚えてないと思うけど、浄化のプロセスへ向かう私と、あの世界へ向かうミツキとすれ違っていたんだよ。覚えてる?」
ソードは小さく、ごめん、と言った。
「気にしないで。どちらの世界に転生するにも軽い浄化を受けているから。記憶が無いのも当たり前。あの世界に向かう時は魂だけの頃の記憶を浄化しただけで、残りはそのまま残される。でも反対に私たちの出会った世界に行くときは、完全な形で浄化される。人によっては覚えているけど、普通は全て、何もかもが消されて漂白される。だから私はミツキを見たとき、閻魔様に頼み込んでここからミツキをずっと見ていた」
「閻魔様が、存在するの?」
やっと出て来たソードの言葉がそれだった。ヒナタは小さく声を押して笑うと、ソードに目を向けた。
「ただの例え話だよ。閻魔様でも、女神様でも、もっと違う神様でもいい。世界のルールの擬人化に、古今東西、神様を使って来た。万有引力を見つけた人は、結局それで神様を証明したことになった。物が地面に落ちるのは神様がそう決めたから、ってね」
「じゃあ、ヒナタは」
「そう。ルール違反を犯しているだけ。例外なく魂は浄化されて次の世界に送られる。見てるだけなら許されたよ。たぶん転生したのにすぐ死んじゃって、可哀想だとでも思ってくれたのかも。だからこうして今私たちは話せている」
ヒナタはいつもの笑みを浮かべる。つられて彼女に笑いかけると、ソードは空に目を向ける。
片手で数えるほどだった流星は、いつしか群れとなっていた。太陽と、月とが向かい合う中で、流星群は絶え間なく二人の頭上で輝いていた。