7 昇り魚を獲ろう①
私は吸血鬼ではあるが、夜更かしはしない。人の社会で生きるにあたり、その方が都合が良いからだ。二十四時間営業なんて概念は当地にはまだないのである。吸血鬼の身体であっても、夜に目が冴えることなどなく、昼が来れば必ず眠くなるなんて事もなく、睡眠が足りなくなったら眠くなるというだけだ。さて、一般的に、代謝の少ない大型動物ほど睡眠時間が短いと言われる。無論、食性や生態にも依るが……吸血鬼は長命種ゆえに代謝が低いのだろうか、五時間ほど寝たら目が覚めてしまう。ショートスリーパーってやつなのだ。便利だね。
眠らない動物はいるのだろうか。私の記憶によると、脳を持つ動物は睡眠を必要とする。脳を持たないヒトデ、クラゲといった刺胞動物も、休養を必要とするという記事を見た憶えがある。神経節で動く昆虫も、睡眠と思しき休息を与えなければパフォーマンスが低下すると言った実験結果もあると、高校の生物の先生が言っていた。睡眠という言葉が人間本位の語彙であるため、彼らの休息が睡眠に当たるかどうかは私には分かりかねるが。単細胞生物については、彼らは眠らないと聞いたものの、結局の所はいまいちよく分からない。もしかしたら、ファンタジーな世の中なら、眠らなくていい人間なんかもどこかにいるのかもしれない。
泳ぎ続けなければ死んでしまう魚がいる。彼らは、寝ながらにして泳ぐ術を持っているらしい。渡りを行う鳥類なんかは、左脳と右脳を交代で眠らせる術を持っているという。器用なことだ。私にその器用さが少しでもあれば、今この状況でも気持ちよく昼寝出来たかもしれない。さっき夜寝ると言っておいて恐縮だけど。
馬車はよく揺れた。それは街道のでこぼこのせいでもあるし、雨を含んで地面がぬかるんでいるせいでもあるし、サスペンションがついてない馬車のせいでもある。馬車の梁の中には、私含めて六人が乗っていて手狭だ。寝転んだりは出来ない。ちょっとでも楽な姿勢をとろうと梁に背中を預けると、今度は身体に伝わる揺れが大きくなる。こうなれば、胡座をかいてまんじりともせず堪え忍ぶより他にない。
本でも持ってくれば良かったなあ、と後悔したのが昨日のこと。長旅、というほど王都から離れちゃあいないが、暇は暇だ。だから、同行者の会話に耳をそばだてて、慰めとしてしまうのはしようのないことだと思う。
「なんか、だんだん景色が懐かしくなってきたと思わない?」
「おっ、本当だ。久しぶりだな、帰るの……もう三年くらいか」
「帰る暇もお金もなかったしねえ。お母さん元気してるかな」
馬車に乗る六人のうち、若い男女の三人組は、この先の村に帰郷する集まりらしい。遠慮のない距離感が彼らの内にはある。ただ単に乗り合わせた間柄というわけではなさそうだった。
残りの二人は、剣と鎧の男と、杖と帷子の女。武具を身に纏い、交代を挟みつつ間断なく外の様子を窺っているその様は、彼らが御者に依頼された護衛であることを如実に示している。この周域は王都からそう遠くないこともあって、脅威度の高い魔獣なんかはまず見かけないが、彼らに弛緩した気配はない。職務に真面目なのはいいことだ。さて、その中にあって私はというと、隅っこの方で一人暇を持て余しているのである。
「ねえ、あなた」
ぼんやりしていると、誰かが誰かを呼びかける声がした。
「ねえってば。……起きてる?」
「え、あっ、はい」
呼ばれているのは私だったようだ。慌てて返事をした。話しかけてきたのは、帰郷組のうち、勝ち気そうな印象の女だった。
「間違ってたらごめんね? あなた、もしかして護衛の人じゃないの?」
「護衛? いえ、違いますけど……」
「やっぱりそうだったの。ごめんね、気付かなくって」
よく分からないところで納得されたと思ったら、流れるように謝られる。急な流れに目を白黒させていると、彼女は説明してくれた。
「だって、いかにも魔術師って装いをしているでしょ? 護衛の人だと思って話しかけるの躊躇っちゃった」
「あはは……紛らわしくてすみません」
「そうだよお。同じ場所に向かう人同士なら、お話ししたかったのに。あのね、私たち、村の出身なんだよ」
帰郷組の、ほんわかした柔らかい雰囲気の女が会話に加わる。それは知ってるよ。知ってるけど、聞き耳立ててたと思われるのはよろしくないので流しておく。最後に優男っぽい見た目の男が尋ねる。
「差し支えなければ聞きたいんだけど、君はどうしてあそこに? 言っちゃあ何だけど、あまり人も来ない村だし」
「それは、ノボリウオを食べてみたくって」
ぽかんとした表情を浮かべる三人を見て、思わず愛想笑いでなく笑みが浮かんでしまう。馬車の覗き窓から垣間見える空には、ぱらぱらと降る雨の中、細長い黒い影が東洋の龍のように蠢いていた。
魔獣除けの木柵を通り抜け、馬車は目的地に到着する。森に囲まれた、小さな村だ。王都のように家々が密集していることもなく、飼育されているものと思われる鶏がその辺を歩いていたりする。長閑な風景だ。しかしながら、村には何とはなしに活気が漂っていた。おそらく、時節に起因するものと思われる。この時期は皆、祭りの準備で慌ただしくなるそう。
道中御者を務めていた男は、今度は商人として馬車を連れて村長の下へ向かっていった。護衛の男女も一緒だ。ちなみに料金は前払い。お礼を述べつつ見送った。彼らと再び会うのは三日後になる。帰りの道も乗せて貰うお願いをしてあるので。
村の中央には、家も畑もない開けた場所がある。広場とでも言うべきその場所は、小雨が降る中でも人々が行き交っていて騒々しい。力持ちっぽい男の人が木材を運んだり縄をくくりつけたり、腰の曲がった媼たちが寄り集まって麦の粉か何かを練っている様子が見える。男たちはなにやら木を組んで三角の土台みたいなものを作っているようだ。
「へえ。結構、大規模なんですね。あれは何を作っているんですか?」
「ああ、あれかい? 土台を組み上げているんだよ。あの上に柱を立てて、旗を飾るんだ」
「なつかしいねえ。私たち、帰ってきたんだねえ。あっほら、懐かしい顔がいるよ」
「あ、本当。変わってないわねあいつ」
時々、顔見知りなのか、村の人がこちらに向かって手を振ったり声かけてきたりする。その度に、私はさりげなく彼らの後ろに隠れて気配を薄めつつやり過ごした。こう、ちょっとやりづらいよね。
帰郷組の三人は郷愁に浸るのも程々に、各々の生家へ帰宅の運びとなった。私もその流れに追従する。勝ち気そうな彼女の後ろを付いて歩く。これは、私が別行動に移る機を逸してズルズル付き合っているわけでもなく、ストーキング的な何かに目覚めたわけでもなく。土地勘のない私が彼女の案内を受けているためだ。さらに、彼女は滞在中、私を泊めてくれるという。
予想していなかったことに、この村には宿屋がないらしい。馬車でそれを聞いて弱っていた私に助け船を出してくれたのが、何を隠そう彼女である。こう、話してみるとサバサバしているのだが、その実、情に厚い姉御肌ってやつかもしれない。たぶん女子に慕われそうなタイプ。まあ生粋の女子じゃない私が言っても説得力に欠けるが。彼女の名はリーユィといった。
リーユィの家族に簡単な挨拶を済ませると(信用の問題なのか、私はたまたま馬車で乗り合わせたのではなく、王都でできたリーユィの友達ということになった)、早速私たちは行動を開始した。というのも、リーユィたちが祭りの時期に帰郷を決めたのは、偶然ではない。この時期には一人でも人手の多い方が好ましいのだ。その法則は、例え物見遊山でやってきた旅人であっても適用される。此度は私もお相伴に預かり、一人の人足になろうというのである。ちゃっちゃと着替えたリーユィは上下ともに麻の服となり、見た目王都民から農民へと早変わりした。私にも汚れてもいい服を貸してくれると言っていたが、なんとか辞退した。ローブがないと日焼けしてしまうので。今のところ、太陽は雲に遮られている。ぱらぱらと僅かばかり降る雨は、恵みの雨だ。
産卵期を迎えたノボリウオは、空を飛ぶ。海から空を渡って、生まれ育った川まで帰ってくるのだ。雨の日を狙って。
徒歩で村から出て、緩い山道を進む。普段から村人がよく通るのか、道は踏みしめられていて、雨が降っていても歩きやすい。途中、リーユィとともに村に帰ってきた男女二人の後ろ姿が見えた。彼らも目的を同じくする者だ。向こうは私たちには気付いていなかった。そして、リーユィは彼らに話しかけることをしなかった。なんというか、仲睦まじい雰囲気だったので。
「リーユィさんは、あのお二人と付き合い長いんですか?」
「ん、そうね。何しろ狭い村だから。年が近かったらみんな兄姉みたいなものよ」
二人の背中へ視線を向け語る彼女の目は、どこか遠くを見ている気がした。
山道の道中はしばしば空を見上げつつ進む。空に大きな目印があるからだ。ノボリウオは外敵の多い水中を避けて遡行するのだが、空に外敵がいないわけでもない。なので、なるべく大きな群れを作って故郷に帰るのだ。その様を遠目に見れば、龍に見えないこともない。龍を捕食しようなんて命知らずな動物はそうそういないので、この習性は擬態の一種と言ってもいいのだろう。ノボリウオは上空で求愛のプロセスを経て、産卵のために地上へ降りてくる。幻の龍の真下へ行けば、そこに彼らの繁殖に適した渓流があるというわけだ。つまり、そこが狩り場だ。
渓流は人でごった返していた。村の規模を考えるとちょっと考えづらいくらいの人集りだ。もしかしたら、近隣の別の村からも人がやってきているのかもしれない。この世界では通じるまいが、夏場の市民プールみたいになってるぞ。とくに子供たちは大はしゃぎだ。一部の子は裸一貫で狂乱している。さもありなん。彼らにとっては、水遊びと虫取りが同時にやってきたようなものだ。しかも自分たちのご飯になる。楽しいかと思う。
空からしきりに魚が下りてきてはまた昇っていく。辺り一面がきらきらと光って見えるのは撥ねた水なのか、雨の粒なのか。幻想的な光景だが、不思議に思って目を懲らすと、それは鱗のかけらだった。おおう。確かめるように鼻に意識を集中させたが、生臭くはない。よかった。
「みんな手掴みなんですね」
私が不思議に思って聞くと、リーユィが答えてくれた。漁具の一つもないなんて。ちょっと不自然ですらある。
「龍神様がね、怒ってしまうんだって」
「え?」
「昔の人はね、龍が空からノボリウオをお恵みしてくれていると考えていたの。一時期は網とかを使ってそれはもうたくさん捕ったらしいけど……それから龍が姿を見せなくなっちゃって。単純に数を減らしちゃっただけだとは思うんだけど、昔の人はそれを龍神様の怒りに触れたと思ってしまった訳ね」
「それで、捕りすぎないようにしているんですか」
「そゆこと。それだけじゃないけどね」
リーユィが手で指し示すので、それを目で追う。川岸からちょっと離れたところにいくつか焚き火があって、その側で大人たちが集まって何かやっている。その手にはノボリウオが握られているのが見えるので、捌いたり加工したりしてるのかと思ったが……ちょっと違った。男が手慣れた様子で腹を捌いて卵を取り出し、桶に張った水に浸けている。横合いから別の男が別のノボリウオの胴を握って、白い何かを搾った。白い液体は、桶の中に注がれる。あれって……。
「養殖?」
「そうよ。孵化した稚魚がある程度大きくなるまで、人の手で育てるの。稚魚だし、飛んで逃げることもないわ」
「すごいですね」
私が素直に感嘆すると、リーユィはちょっぴり誇らしげに鼻を鳴らした。……魚の精子って、あんなチューブみたいに絞り出すんだなあ。元男のよしみでちょっとばかり可哀想に思うが、子孫を残せるんだから彼にとってみれば幸せなのか? その彼は今、また別の男の手によって捌かれている。開きになった彼は、遠目に見てもちょっと美味しそう。んん。話すのもこのくらいにして。
「そろっと行ってみる?」
「はい!」
私の心の内を悟ったか、見計らったようなタイミングでリーユィが提案したので、一も二もなく飛びついた。
漁は、けっこうコツがいる。まず一つに、なるべく沢の深い所には入らないようにする。これは雨で増水しつつある渓流に足を取られ、溺れてしまわないようにするためだという。また、せっかく彼らが産んだ川底の卵をみだりに踏み潰さない配慮もあるのかもしれない。二つに、起き上がりを狙うこと。人間の動体視力は上下の移動を捉えるのを苦手とする。上空から落ちてくるように降下するノボリウオは結構な速度で、それを捉えるのは中々難しい。反面、空へ舞い上がろうとするノボリウオは、尾びれで水を蹴る助走を必要とするので直線的な軌道は読みやすく、ある程度対応しやすい。私がひっくり返ってずぶ濡れになっていると、見かねた子供たちが教えてくれたのだ。小さくてもプロだ。
ローブが水を吸って重たい。ゆったりひらひらした生地が、身体にぺっとり張り付いて動きづらい。ふと空を見上げれば、雲は分厚い。ちょっとくらいなら、いいか。私はローブを脱ぎ捨てた。全身濡れ鼠でひんやりしているせいか、ちりちり肌が焼ける感触も微弱なものだ。いつものスーツ姿になって、さらにジャケットも脱ぐ。白シャツにスラックスという出で立ちになった私は、先程までとは違い優しくないぞ。
元々、視力はいい。この眼鏡は、視力矯正という意味では飾りだ。レンズについた水滴混じりの視界でも、水底から上がってくる魚影を捉えることだって造作もない。身体能力だって悪くない。重さがないため力は出にくいが、その分はしっこい。
水面から魚の頭が顔を出す。そのまま、撥ねるように中空に躍り出る。吸血鬼の動体視力はその一挙手一投足を細かに捉える。著しく発達した胸びれを左右に広げ、風を受けるノボリウオ。これまた発達した尾びれを水面に残し尾を揺らせば、水を掻き推力を得る。推力は揚力となり、ついでに魔力を帯びた身体はグライダーのように前へと飛んでゆく。彼らは風を操る魔術を持っている。たぶんそれは彼らが生まれながらにして持っている技能で、それこそ泳ぐという行為のように当たり前のもの。上昇も下降も思いのままだ。そこに私がいなければ。
ぐわし、と何かを掴んだ感触があった。水面へと前のめりに倒れ込みつつ己が手先へ目を向ければ、そこにはたしかに銀色に輝く肢体が。ばしゃ、と辺り一面に水飛沫が舞う。目を瞑る。手は放さない。ごぽごぽと耳に伝わる水音に紛れ、私の名を叫ぶリーユィの声が聞こえた。
ぷはっと息をつく。ダイブするとき咄嗟に目と口を閉じたが、鼻に入った。軽く鼻息をして水を追い出す。手の中に、ちょっぴりぬめっとした感触がある。だが、水が滴り目が開けられない。首を縮め、片方の二の腕で拭う。両手に収まるそいつはきちんと握ったまま。ゆっくり目を開ける。手の中には、ノボリウオ。細長いフォルムをした銀色で、なんと言っても特異な胸びれが目を引く。あっちの世界のトビウオの様相を呈している。これも収斂進化というやつなのだろうか。20センチくらいかな。思い出すようにびちびちっ、と跳ねたので慌てて取り落とさないよう力を込めた。……とった。
「カンロ!」
「あ、リーユィ。ほら、取れた」
「あら、おめでとう……じゃなくて、服!」
言われて見下ろす。白シャツはずぶ濡れだ。身体に張り付いている。そして、透けている。肌と下着が透けて見えていた。周囲を見渡すと、視線。近くでリーユィの声を聞いた者は何事かとこちらに視線を向けている。向けられている。私に。
「えと、どうもお騒がせしました」
ノボリウオを抱え込みつつそそくさと立ち去る。リーユィがなにやらぷりぷりしつつ、私を隠すようにして人の渦から連れ出す。はしゃぎすぎとか、自覚を持ってよねとか言っているけど、リーユィが大きく叫んだから視線を集めることになったのでは、とも思う。しかし、彼女が声を張ったのは私が頭からドボンしたせいなので、やっぱり私に非があるのだった。