1 遠征仕様穀物粥
薄闇の中で屈み込み、足元の石畳の隙間から懸命に葉を伸ばす、名も知らぬ草を見下ろして考える。
植物は、根から水分とそれに溶けた栄養を、葉からは空気と日光と、ついでにちょびっとのマナを取り入れて生きている。これらは、果たして意識的に取り入れられているものだろうか。たとえばこの名も知らぬ草を地面からひっこ抜き、箱を被せ、さらに箱の中を真空にして放置したとしよう。無論それは飢えと渇きによって枯れるのだろうが、しかしその『飢えと乾き』は枯死した結果としての『飢えと渇き』であって、この草がお腹すいたよ、喉渇いたよ、と思いを抱いていたか、厳密に推し測ることは出来ないのではないか。つまるところ、「ちょっと小腹空いたから光合成するわ」という意思があるのか、私にはよく分からないのだ。更に言えば「腹一杯だから光合成やめるわ、ごちそうさま」という意思があるのかもわからない。森の精であるドリアードとかなら、疑問に答えてくれるのだろうか。
「なにやってんだ、人んちの前で……」
頭上からの呆れたような男の声に、私は顔を上げた。
「いや、べつに……暇つぶし?」
「お前目立つんだからやめろや」
「ごめん」
しゃがみ込んでいた腰を上げ、屈んでいた姿勢によって生まれたスーツの皺を、手で軽くぱたぱた叩いて直す。次いで向き直る。彼我の身長差から、相手と目を合わせようとすると、自然と見上げる形になる。見上げたその顔は黒かった。真っ黒かった。黒い羽毛だ。そして嘴がある。鳥だ。彼は、カラスの翼人であった。私は言葉を続ける。
「ていうか、待ってたんだよ。ピリヨのこと」
「見りゃわかる。はぁ……まあとりあえず上がれ」
彼が扉に手をかけ、私を招き入れる。年季が入っているらしい錆びた蝶番が耳障りな音を立てた。
ピリヨの家は小さな平屋である。有り体に言って、ぼろい。察するに、たぶん金はそれなりに持っていると思うんだけど……。彼は自らを日陰者だからと言って、このスラム街の草臥れた小屋に身を置いて久しい。まあ、私とて彼の住環境にそこまで物言いするつもりもないので、たぶんこれからも変わらないのだろう。
部屋の中は、なんというか獣くさい匂いがした。だが、獣人の一種である鳥人に面と向かって言うほど私は常識がないわけではない。嫌いな匂いではない。彼の名誉のために言っておくと、彼はスラムの住民にしては一応身綺麗な方だ。
部屋の中は男の一人暮らしって感じの装いで、人をもてなす雰囲気がまるでない。それもそのはず、彼は自宅に人を招かない男だ。私の場合は、闖入者であるので。彼はどうにも硬そうなベッドに腰掛け、相対する私は床に胡座をかいて座り込む。
「そんで……一応聞いてやるが、今日は何の用だ」
彼が不機嫌そうに尋ねた。最近はいつもこうだ。
「決まってるじゃん。竜のお肉について何か知らない?」
「知らん」
間髪置かずに素気なく切り捨てられる。にべもない。まあ、予想はしていたけど。このやりとりもいつものことだし。
ピリヨは情報屋である。彼は冒険者時代のコネと、鳥を使役する魔術と、スラムの住民を動かせるちょっとした資金、そして明晰な頭脳で以て、多くの情報を拾い集めてそれを精査し扱う、界隈ではちょっとした有名人なのだ。情報屋が有名ってどうなのと思わなくもないが、拠点とか人相とかの大事な情報は漏らしていないから大丈夫らしい。私には知られちゃってるけど。
しかしながら、そんな腕利きの情報屋である彼でも、竜の肉については全く知らないという。
「市場に出回った、って話じゃなくてもいいんだよ。出現情報があったらちょっと行ってみてくるから」
「出現自体普通ねーから。つーか死ぬからやめとけ」
「やっぱそうかな……でもなあ。やっぱり一度は食べてみたいじゃん」
「食ってもたぶん死にそうだからやめとけ」
劇物扱いなんだ……。でも、ファンタジーな異世界に来たからには、やっぱり気になるじゃないか。ファンタジーの象徴であるドラゴンの肉の味を確かめなければ、それはファンタジーな異世界に来たと本当の意味で胸を張って言えないのではないか。私の納得しきれていない表情を読み取ったのか、彼は一つため息を零した後、少し真面目な雰囲気を伴って告げた。
「代わりに、別の話をやる。十万」
「ん、いいよ」
私は懐に手を突っ込み、十万エン分の硬貨を手渡す。彼が別の話というのなら、それはすなわち、私が気に入るだろう十万エン分の情報を持っているということだ。何についての情報かも開示されていないが、彼の仕事に対するプロ意識というものを私は少なからず信用している。悪いことにはならないだろう。そう思わせる、それだけの付き合いがあった。私が手渡した銀貨や銅貨を、鱗と爪で覆われた四本の指で数え終えてから、彼はこう述べた。
「ワイバーンの肉なら食えるかもしれんぞ」
乾いた山道を今日も進んでいく。額の汗をローブの袖で拭う。頭の先から爪先まですっぽり覆うローブは暑苦しいことこの上ないが、しかしお天道様の下で肌を晒すわけにもいかない。私たち冒険者組は、馬に跨がる騎士隊と違って徒歩である。先導する騎馬たちの行軍は、人が歩く程度の速さではあったが、それでも旅程はとてもつらい。春の陽気がやる気と水分と体力を奪っていく。夜ならなんてことはないんだが、しかし夜間の行軍は危険なのでふつうはしない。
「その、大丈夫? カンロちゃん」
「へ、平気」
私と違ってまだ余裕があるのだろう、隣を歩いていたタットゥが気遣ってくれる。心配そうな表情を浮かべ、フードに隠れた私の顔を覗き込めば、彼女の金糸の髪が揺れ、長く尖った耳が露わになる。なんとタットゥは、エルフだそうで。やっぱり王都はいい。市井にこんな麗しいエルフの冒険者がいるんだからな。しかしながら、そのエルフには先程からフォローされること頻りである。女の子にはいいところを見せたいのが男のサガってやつであり、忸怩たる思いがするのだ。今は女の身ではあるけれど。
「カンロ。失礼」
「ひゃ」
突然ふわりと身体が浮かんだかと思うと、大きな肩に載せられ抱えられた。米俵の気分だ。私を持ち上げているのは、タットゥとコンビを組んでいる、同じく冒険者のツァラハトだ。彼女は狼の獣人で、その古強者って雰囲気に違わず、私の腰の辺りに回されている腕はがっしりと力強い。でも、タットゥが言うには、体毛で分かりづらいけど女性らしいスタイルをしているらしい。……意識してみても。ちょっとわからない。
ともかくとして、私はツァラハトに下ろして貰うよう持ちかける。でも、聞き入れて貰えない。曰く、行軍に支障をきたすとのこと。私たちは、というか私は、現在冒険者の列でも最後尾の方にいて、お荷物の自覚はあるので、言っていることは分かるが。見栄を張りたがるのが男のサガってやつであり、現状には慚愧の至りである。
しかしながら……やがて説得は不可能と悟ると、私はそのうちツァラハトの肩で揺られるだけになった。諦めてしまった。今の私は男の身ではないのだ。更に言えば女の身でもなく、そう今の私は米俵なのだ。
過日、冒険者ギルドにワイバーンの討伐令が下された。繁殖の時期を迎えたワイバーンの番が人里の近隣に巣を構え、住民の安全を脅かしているので、騎士隊とともに討伐に向かえとのこと。ここまでが伝聞。私は冒険者登録をしていないので、内情を詳しくは知らないのだ。そして、冒険者登録をしていない私が如何にして行軍に参加したかと言えば、ピリヨの紹介で引き合わされたタットゥたちの同行者として紛れ込んだのである。タットゥのような高位冒険者にはある程度の融通が利くらしい。クエストの報酬金は二人分しか出ないが、まあそこは問題ではない。いや、お金はお金で欲しいけど。
「ごめんツァラハトさん……」
「ツァラハトでいい。カンロは軽いな」
「……そうだ、口開けて。飴ちゃん差しあげます」
「……」
肩に担がれたまま、懐から蜂蜜を固めた飴を取り出し、すぐ横にある顔に差し出す。ツァラハトは確かめるように匂いをかいだ後、口を開けた。牙が鋭い。牙に触れないよう、そっと口に含ませてやる。……獣人の美醜はよくわからないけど、ツァラハトも可愛いな。雛に給餌する親鳥ってこんな気持ちなのかな。まあ、今回はその子育てするワイバーンを討伐に行くんだけども。
「あっツァラハトずるい」
「じゃあタットゥも、こっちへどうぞ。はい……あーん」
「ぁ、ぁー……ん。……ありがとカンロちゃん」
母性をくすぐられた私は、蜂蜜飴を躊躇いなく贈呈する。蜂蜜飴は市で買うとちょっとしたお値段だが、出し惜しみはしない。ツァラハトはよく分からないが、タットゥは顔を綻ばせている。私は得意になって、知った風な能書きを垂れた。
「行軍には兵糧が最も重要だから……甘いものでエネルギーを摂るといいんだって」
「であれば、カンロが舐めるといいんじゃないか」
はい。
太陽が傾き、山の緑、大地の緑が紅蓮に染まる。山間の小川の側にて野営の運びとなった。基本的に夜の進軍は推奨されない。人も馬もいずれ休息は必要だし、視界の悪い中で魔獣と遭遇戦にでもなったら手に負えない。そういうわけで、私たちワイバーン征伐部隊は本日も野宿である。暦の上では春であるが、夜間はまだまだ冷え込む。騎士隊は騎士隊で、冒険者たちは冒険者たちで、いくつかの火を焚いて暖を取っていた。木に繋がれた騎士隊の馬たちはのんびりとそこいらの草を食んでいるが、私たちはそうも行かない。各々が持ち込んだ携行食を摂取する。食べるではない。摂取だ。携行食とは、得てして味に期待は出来ないものである。
私たち三人は冒険者には珍しくも女所帯であり、良くも悪くも目立つ。なので、野営場所の中心からちょっと外れた隅の方にいた。小川で汲んできた水を鍋に入れ、乾燥した麦や雑穀をふやかし、煮立てていく。穀物粥は取り立てて美味しいものではない……というか、あまり美味しくない。味は淡泊。ときどき、上手く実らなかったのか皮がぶ厚い穀物が混じってたりして、そいつに当たると干し草を食っているような感じがする。……馬の方が新鮮な草を食んでいるぶん、私たちより上等かもしれない。塩漬けにして乾燥させた干し肉はとても塩っ辛いので、粥の淡泊な味に変化をつけられる。そして固い。とても固い。歯と顎が丈夫なツァラハトは豪快に、私はちょびちょびそのまま囓るが、タットゥは粥に混ぜて水分を含ませ、なんとか食べ進めていた。
「……タットゥとツァラハトさんって、冒険者になる前はどんな仕事してたの?」
「仕事? そうね。家の手伝いかな。成人してすぐエルフの里から出てきたの。出稼ぎでね」
「……私は、兵士だな」
タットゥはやや早口で、ツァラハトは短く簡潔に言った。
「カンロちゃんは何してたのかな」
「私も、ずっと家にいたから……特別なにも。手伝いなんかは、してたりしてなかったり……」
「ふーん。……もしかして、カンロちゃんって結構いいとこの子? ていうか、けっこう謎だよね。あの情報屋もろくに説明しなかったし」
「それは私も気になっていた。やつに人と引き合わされるなど、初めての事だからな……。無論、言いたくないなら言わずともよいが」
そう気遣ってくれるツァラハト。私のような、どこの馬の骨ともしれない女をパーティに入れ、さらに素性を無理に知ろうともしない辺り、懐が深いと思う。それとも、それだけピリヨが信用されているということだろうか。どちらもかな。私は両者に感謝しつつ、努めて軽い声色で言った。
「別にそんなんじゃないよ。その日暮らしの根無し草だって。強いて言うなら、ちょっと魔術が得意な血筋かな」
「そうなのか? ……しかし、情報屋に紹介されたときは、さすがに己の耳を疑ったな」
「変わってるよね。ワイバーンの肉が目当てで参加するなんて」
そうだろうか。そうかもしれない。ワイバーンは騎士団が出張るほどの相手だ。わざわざそいつを食べたいが為に遠征に参加する酔狂な輩は、そうそういないとは思う。多少の危険を犯してでも美味しいものを食べたいという気持ちは、なるほど考えてみれば、かつての私では抱き得なかった感情だった。でも、私にとって、この世界で一番の娯楽が「食」なんだ。
「二人はワイバーン、食べたことある?」
「いやいや、ないから」
「食べようと思ったこともないが……どのような味がするのだろうな」
「ちょっとツァラハトやめてよ」
タットゥが苦笑しつつツァラハトを咎めると、ツァラハトも薄く笑みを浮かべる。そのやりとりに、私は二人の間に飾らない気安さを感じた。仲が良いのはいいことだ。
「けっこう、いけるらしいよ?」
私は述べつつ想像する。どんな味がするんだろうな、ワイバーン。美食が高じた貴族の手記によれば、筋肉質だけど適度に柔らかくて噛み応えもあって、さっぱりした味わいだそうで。するする口に入っていつの間にか満腹になっていたそう。……ううん。しかし……その味を想像したら、途端に穀物粥を口に運ぶのが億劫になってきた。話題を間違えたかもしれない。その話を聞いた二人も、気のせいか匙の進みが遅くなったような。不満一つ見せずぱくぱく摂取していた彼女たちだったが、やっぱり穀物粥の味には満足していないのかもしれない。