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デミット×カワード ぷろとたいぷっ  作者: 駒沢U佑
第一章 環境適応のススメ編
36/53

その少女の名は

大変遅れまして申し訳ございません。そして2017年最後の更新です。お楽しみください。



 ――少女は、ある時を境に世界から嫌われた。






 最古の四族が一つ、【森の民】アルテリア。


 彼らの歴史は途方も無く長く、しかし人類史に載ったのは、その歴史から見ればごく最近の話だ。


 四百年程前、とある探検家が森に迷い込み、何日も彷徨った挙句に魔獣に襲われ、軽くは無い怪我と飢餓とに苦しんでいる時。偶然、彼はアルテリアの集落を見付けた。朦朧とした意識の中、手厚く看護された彼は奇跡的に命を取り留め、充分に回復を果たした彼は無事に町へと帰還する。


 それだけであれば町の住民は、彼の冒険譚をただの世迷言として切り捨てただろう。幻覚だと、ホラ吹きだと、大昔から伝わる御伽噺を真に受けた馬鹿だと鼻で笑われただろう。しかしそうはならなかった。


 何か月も戻らなかった探検家を心配して結成された捜索隊が、アルテリアと共に森から抜け出した探検家と出くわしたからだ。捜索隊は三十を超える人数で結成されていた。それはそのまま、アルテリアの姿をその目で見た目撃者の数となる。その報告書はすぐさま国の上層部に伝わり、国お抱えの学者が調べた所、探検家が出くわした集落の者達が、御伽噺に出てくるアルテリアの特徴と酷似していると判明。


 それが、人類史で最初に確認されたアルテリアの記述である。


 その後、件の学者が本腰を入れて調べてみた所、今回の探検家のような例は世界中至る所で確認されており、しかし目撃例も少ない事から大多数が夢物語として黙殺されてきたようだ。黙殺されなかったとしても、御伽噺のように伝説や逸話、寓話となって風化したらしい。


 因みに、町に戻った探検家はお礼も兼ねて捜索隊と共に何度も森へ入り集落を探したが、アルテリアの集落を目にする事は二度と無かった。国までもが協力して五百人編成の大隊を二個、千人もの捜索隊を組織して一年以上もの月日をかけて探索させたが、結果は空振りに終わった。残ったのは、アルテリアが現存している事実と、集落で過ごした探検家の記述のみ。


 と、ここまでが四百年前の話。その後も時の権力者や学者達が何度も森への探索を試み続け、迷い、倒れ、あるいは奇跡的にアルテリアに助けられ。それが三百年程続いて、森で倒れていった死体の処理だのなんだのとちょっと鬱陶しいと思った彼らは、遂に森の表層部まで下りてきて村を形成した。それが、百年前の話だ。


 理由としては外交的なものもあったのだろうが、それよりも自分達の所為で人が森の奥に入り、結果として森が荒らされる事が嫌だったからだ、と当時のアルテリアは語っている。


 それから百年。権力者達との外交や学者達の聞き取り調査は円滑に進み、彼らこそが太古の時代より続く単一種族、アルテリアだと確認され、その後も色々となんやかんやあったが、今やアルテリアは森の守護者として広く認知されるようになった。


 容姿も伝わった。眉目秀麗、容姿端麗。男女ともに長い、光り輝く程の金髪。細く尖った耳、すらっとした長い手足。そして白い肌はシミ一つ無く、頭髪以外の体毛は少ない。人型で作り出せる美の極致と言えばアルテリアを指すとまで言われる程に、その姿は美しく気品に満ち溢れていると言う。


 居住区も人の知れる所となった。と言っても、彼らの居住区は一つだけじゃない。彼らは人類の文明が未だ未発達の頃、この惑星が重厚な森で覆われている頃から存在し、文明が発展するにつれて世界中に散らばったと言う。どうやらそれら散らばった他のアルテリア達と、どのようにしてかは解らないが連絡は取っているらしく、森の数だけアルテリアは存在するらしい。その中で表層部に村を作っているグループは、たった五つ。その中の一つがイーディフ王国内にある。


 主な性格や生態も書籍となって広まった。性格は温厚で、森と静寂を愛する種族。常に森の中でひっそりと住んでいる為か引き籠り気質と思われがちだがそうでは無く、客が来ればしっかりともてなすようだ。その席で聞かれるのは専ら森の外の話。どうも彼らは森以外に住む人類の生活に興味があるらしく、客は外界の様子を熱望されるらしい。では何故森から出ないのかと言えば、実は一人に一回は外に出た経験があるようで、しかし町での生活が肌に合わず集落に帰還するようだった。対岸で見る火事は楽だからね、とアルテリアの一人はそう言ったが、それはアルテリア全員が共通してもっている認識らしい。


 また、集落の全員に共通する物事の一つに、総じて魔力量が高いというのがある。今の人類にも魔力量を数値化する事は出来ていないが、彼らの言と学者の調査によれば、とある国の宮廷魔術師二十人揃えてもアルテリア一人の魔力量に届かない程だった。


 そんなアルテリアの集落に、十年前、とある一組の夫婦から女の子の赤ん坊が産まれた。夫婦にとってその赤子は待望の赤子だ。パートナーを愛し、生涯の伴侶を掻き抱き、そして産まれた己が分身とも言える子供だ。愛を確かめ合った結果、身籠った赤ん坊だ。それを望む情熱の名は、熱望とも、渇望とも言っても良い。それ程に望み、望まれた子だった。


 その時が来るまでは。


 産まれた少女は両親の愛を持って大切に育てられた。それは特筆すべき点など無い、ごく普通の愛され方だっただろう。普通に名付けられ、普通に抱きしめられ、普通に世話を焼かれ。意味のある言葉を発した時は喜ばれ、二本の脚で立った日の夕餉はいつもよりも豪華なものとなっていた。溺愛には届かないまでも、しかし無関心では決してない、ごく普通の、アルテリアの集落ではありふれた一般的な家庭だった。


 一つだけ欠点を上げるとするならば、少女の両親は共通の、とあるコンプレックスを抱えていた事だろう。それは、自身が持つ魔力が周囲の者達よりも明らかに下回っている事。


 別に、それだけでアルテリアの集落で村八分にされる事は無い。子供時代にはからかいの対象になるぐらいだが、それだって狭い集落ではイジメに繋がる程じゃない。背が低いとか、目が悪いとか、足が遅いとか、体がやせ細っているとか。そういった類の、誰にでもある、他人と比べたら劣っている部分があるというだけの事。


 ただ少女の両親はそれを猛烈なコンプレックスとして抱えていて、しかしそれを表に出さずに少女を育てていたという話だ。その事実が、悪い方向に転がる事も知らず。


 少女が産まれて三年経ったある日。アルテリアの子供なら誰もが罹る疾患を少女は患った。といっても、厳密に言えば病気では無い。内包されている魔力が溜まりに溜まり、声や感情と共に魔力が暴発する、一時的な疾患。人間で言うならば癇癪のようなものだろうソレは、少女の荒ぶる感情と共に魔力を外へと放出させた。通常であれば精々が小皿程度の小さな物体を数cm移動させるだけのものだったが、少女のソレは硝子窓を割り、陶器を破壊し、食器という食器を壁に叩き付け、家中を引っ掻きまわした。幸いにも家屋を崩壊させるまでには至らなかったが、壁や天井は罅割れて、柱が曲がっている現状を見れば、倒壊寸前である事には変わりない。


 少女にとっては、ほんの些細な、言ってしまえば止めようのない生理現象だった。愛する父や母に構って欲しいという欲求が少しだけ鎌首をもたげ、それでも我儘を言わないように我慢し、本心と理性がぶつかり合った結果が涙となって一粒零れ落ちただけの現象。しかしそれは、アルテリアの幼児期特有の疾患によって、文字通り家の中に嵐を詰め込んだかのような惨状を産み出してしまった。通常であれば、さしたる被害の無い疾患なのに。


 両親の中に一つの疑念が浮かび上がる。もしかしたら自分達の子供は、魔力量が人よりも多いのでは無かろうか。


 その疑念は年を経る毎に高まり、やがて確信へと至る。


 五歳となった少女が近所の子と外で遊んでいた時の事だ。その時に少女は、その子からちょっとした嫌がらせを受けた。毛虫を投げられるとか、少々小突かれるぐらいの、幼少時代にはよくある、程度の低い嫌がらせ。からかい交じりの悪戯。その悪戯に少女は耐えられず、泣いてしまった。


 その程度であればよくある思い出の一つとして、記憶の奥底へ沈んでいくだろう日常風景。だが少女の感情の発露はそれだけでは済まされない事が起こってしまった。風が吹き荒れて竜巻が発生した。豪雨が降り注ぎ、大地が揺れ、近くの川が氾濫した。自然災害だ。


 それを少女が起こしたかは判明していない。なにせ酷い魔力の乱れが集落を包んだのだから。乱気流がそのまま落っこちてきたかのような自然災害群にアルテリアの大人達も対応しきれず、対処が終わった頃には原因は有耶無耶のまま終わっていた。たった二人、少女の両親以外の大人にとっては。


 少女の両親は、集落に猛威を振るった自然災害群を少女が起こしたと確信したのだ。少女が三歳だった頃に起こした疾患の記憶が色濃く残る両親にとって、その自然災害群の光景と少女を結びつけるのは自然な事であり、また妥当な判断だろう。


 そして両親が我が娘の魔力量に確信を得たその時から、少女にとっての地獄が始まった。


 まず親の瞳から愛情が無くなった。愛どころか、情の一つも見せなくなった。顔を見るだにその表情を険しく歪め、蛇蝎の如く嫌い始めた。次に監禁された。地下に造られた明かりも何も無い場所に入れられ、唯一の出入り口である扉は施錠された。食事は日に一回。パンの切れ端を水に浸しただけのものを、施錠された扉の上部にある監視窓から投げ入れられる。


 温かい明かりも、暖かい言葉も無い暗闇の中。どうしてと、少女は嘆いた。あんなにも優しかった両親は、どうして自分にこんな事をするのだろうと、少女は泣いた。昨日まで、あんなに楽しく食事をしていた筈なのに、どうして今自分はぐちょぐちょのパンを放り込まれているのだろう。何か悪い事をしてしまったんだ。だから優しい父と母は怒って、自分をこうして叱っているんだ。きっとそうだ。そうに違いない。


 親を疑う事を知らない子供は、そうして自分を追い込み始める。泣いて、喚いて、謝って、乞うて、願いて……しかしそれでも扉は開かず、言葉は聞こえず。更には災害を産み出した感情の発露を起点として、少女が魔力の制御を覚えてしまった事がまた、両親の嫌悪を増幅させる。


 ぐちょぐちょのパンが床に転がり、埃にまみれたソレを砂を噛んだような不快感を覚えながら大事に大事に噛み締める日々が続いた。当然、成長盛りの子供がパン一欠片で満たされる筈も無く、飢えに侵食された意識は直ぐに朦朧とし始める。


 それでも少女は親を疑わない。


 悪いのは自分だ。いけない事をしたのだ。まだ許されていないのは謝罪が足りないからだ。と、うわ言のように謝罪を呟く日々が少女の全てとなった。


 少女にとって不幸だったのは、その両親が一般的な親の精神性を持っていなかった事に尽きるだろう。幾ら種族的特徴として温厚だと言えども、全てが全てそうであるとは限らない。日本人にも群れを嫌悪する個体がいるように、警察から犯罪者が出るのと同じように、聖職者から性的倒錯者が現れるように。アルテリアの中にだって、人格破綻者は確実に存在する。「鳶が鷹を産む」という言葉があるように、凡庸な両親から天才が産まれる事は慣用句にもなる程に珍しく、つまり逆説的に凡庸な両親からは凡庸な人格をもった者が産まれる事の方が絶対的に多いのだ。そしてその凡庸さが下方修正されないとは限らないのが世の常である。ちゃんとした教育を受けた者が優等生に成るとは限らないのだから。


 少女の両親はコンプレックスを持って育った。そのコンプレックスを刺激した自分達の娘を許容出来る程、両親の器は広く無かった。例え自らの腹を痛めた我が子だろうが。例え愛を確かめ合った末に産まれた自分の分身であろうが。例え大人の庇護無く生きられない弱者であろうが、彼らは少女を許せなかった。いや、むしろだからこそ憎いのかもしれない。


 そんな両親の下に産まれてきた事が、少女の不幸だったと言えるだろう。そして子供にとって、親は自分を構成する世界の全てだ。


 故に少女は五歳の時、世界から嫌われた。


 古くから伝わる村の掟なんてものは無い。あるにはあるのだろうが、それと少女とはなんの関係も無い。ただ異常な魔力量を持って産まれた少女が、人格破綻の親から嫌われた。彼女が奴隷商に売られた経緯は、ただそれだけの話だ。


 初めから愛情なんてものを与えられなければ、少女は絶望を覚えなかっただろう。父の力強さと母の温もりを知らなければ、少女が絶望に嘆く事は無かっただろう。そんな温かい何かがこの世に存在すると、現状と比較してしまえる事さえなければ、少女はきっと、心を閉ざす事など無かっただろう。だが現実はそうはならず、そして彼女は知ってしまった。失う事の恐怖を、少女は知ってしまった。期待する事の恐ろしさを、少女は体感してしまった。


 それから五年。十歳となった少女に与えられたのは、ただ怯えるだけの日々だった。奴隷商に手を引っ張られる時の恐怖。背後の両親は早々に家の中へ消えていった。乗せられた荷馬車の中に居る沢山の奴隷達でさえ、何も知らない少女にとっては恐怖でしか無かった。例え彼ら彼女らが自分と同じような経緯で売られたと聞かされようとその言葉を信じる事は出来なかったし、同情の視線さえ少女にとっては自身に深く突き刺さる不可視の刃だった。パン一切れとは比べ物にならないくらいの食料を眼前に並べられても、少女は失う恐怖に怯える日々だった。


 王都へ向かう道中に立ち寄ったロレインカムでもそれは変わらない。与えられた個室の片隅で蹲る少女だが、そんな少女に安息が訪れる筈も無く。突如響き渡る怒号と悲鳴、破壊音。複数の荒々しい足音が段々と近付いてくるそれに、少女がどれだけ恐れおののいたのか。そして毟るように開かれる扉。扉の向こうに立っていた赤毛の男の表情は野生に満ちて、飢えた獣の顔で今にも少女を食らおうと牙を覗かせていた。


 そこで、どのような言葉が交わされたのかを少女は聞いてはいなかった。聞いている余裕が無かった。熊のような大男に取り押さえられた赤毛の男が、それでも血走った眼を大きく見開いて此方へ手を伸ばすその動作はまるで、自分を地獄へと引き摺り落とそうとする悪鬼のように見えたからだ。


 その悪鬼も去り、二日後。未だ悪鬼の恐怖が薄れる事も無いままの少女の耳に、警鐘の音が飛び込んできた。生まれはアルテリアの集落。しかも産まれてから五年で地下に監禁された少女にその警鐘の意味は理解出来なかったが、誰に言われる事無くその鐘の音が不吉ななにかを孕んでいる事だけは理解出来た。そして遠くから微かに響く怒号と叫声。それを少女が二日前の悪鬼と結び付けたのは、悪鬼の印象が余りにも強かったからだろう。


 怯え、震え、耳を塞ぎ、縮こまり……それが、少女が出来る精一杯の防御だった。どうして自分がこんな目に合わなければならないのかと。自分はそこまで悪い事をしたのかと。幾ら自問自答した所で答えは出ず、そんな己の境遇に耐え切れなくなった少女の頬を涙が伝う。鼓動は恐怖によって跳ね回り、嗚咽は喉の奥から絞られるように溢れ出た。耳を塞いだ事によって自身の体内で産み出された音が五月蠅いぐらいに共鳴しているのに、それでも怒号は遠ざかるばかりか大きくなり、少女の鼓膜を震わせる。


 ――俺はただのケダモノで構わねぇ! 獣のように食って、獣のように寝て、獣のように活きて、獣のように野垂れ死んでやるさ!!


 ――一回こっきりの俺の人生だ! 好きに生きなきゃ勿体無ェだろうが!!


 ――ここで意地を張れなかったら俺は、一生満足出来ないまま終わっちまう!!


 そう、少女の鼓膜を震わせた。


 声からして、男の声だ。少年じゃない。集落の大人達のような、低い声。恐慌に陥った自己の意識が長い時間をかけてそう判断し、あの悪鬼の声に良く似ていると思い至り、そして――


 その男が、今、目の前で仰向けに横たわっている。壁を破壊して、全身血塗れで、左腕はひしゃげて膨れて削られている。失血によるものか打ち所が悪かったのか、眼球が酷く揺れて焦点が定まっていない。それ程のダメージを負いながらも、男は自分を真っ直ぐに見据えていた。あの悪鬼だった。見間違える筈が無い。



「――よぅ……」



 ともすれば崩れ落ちる木片にさえ負けてしまいそうな程の弱弱しい声量は、しかし少女の耳にはっきりと届く。



「どう、やら……間に合ったようだ、な……」



 息も絶え絶えの男は、満身創痍であろうその体を無理矢理にでも動かし、上体を起こした。時々響くメキメキという軋む音は木片が鳴っているのか、男の身体が鳴っているのか。少女には解らない。それだけでなく、登場シーンの衝撃は少女に驚愕を叩き込み、その五体に刻まれた疑問が多過ぎて、恐怖が湧き上がる隙間すら無かった。


 湧き上がったのは、ただ一つの疑問。



「あ、貴方は――」


「――悪いが、時間が、無ぇ……。質問は後、だ……」



 何年ぶりかも解らない位に発した、久しぶりの意味ある少女の言葉。たった五音発しただけで微痛を訴え始めたそれすらも遮った悪鬼は、ぱらぱらと、肉体から塵を落としながらも体を起こして立ち上がる。


 重傷者とは思えない程、真っ直ぐに。



「取引を、しよう……」



 立つ事さえままならない筈の大怪我を負っている悪鬼は、いっそ目を見張る程の直立姿勢のままに、真っ直ぐに少女へ視線を向けた。まだ生きている右腕を少女に差し出しながら。



「お前を、苛む全てから、護ってやる……。親兄弟だろうが、集落だろうが、世界だろうが……。お前が、望むのなら……その全てを、破壊してやる……」



 それはきっと、悪魔の誘惑だ。左腕がひしゃげ、鮮血に塗れ、息も絶え絶えの、悪鬼との契約だ。契約をしたが最後、もう普通の人生を送る事は不可能になる、一方通行の片道切符だった。少なくとも少女はそう思った。



「だから、俺を満たせ。俺と共に来い」



 なのに、このぞくぞくする感覚はなんなのだろうか。少女は当惑する。しかも残念な事に、その感覚が決して不愉快でない事が少女を更に混乱へと陥れた。


 いや、本当は解っている。だが苛まれていた期間が長過ぎて、久しいその感覚を鋭敏に感じ過ぎているのだ。刺激が強過ぎて、今迄で覚えた事の無い感覚のようで、さながら麻薬のように少女の精神と脳髄を侵していく。


 幸福を削り取られ、嫌悪され、存在を抹消されたかのように過ごし、売り捨てられた。齢十歳の身でそれ程の経験を経た少女にとって、それは実に久しい感情だった。久し過ぎて、全身に流れる伝達信号がスパークする程に。自身を構成する世界の神とも言える実の親から与えられなくなった物を、唐突に現れた悪鬼が提示したその衝撃は、少女に如何程のダメージを与えたのか。


 その感情の名を、【歓喜】と云う。


 他人(ひと)に望まれる事によって生じた、【歓喜】という感情。それはきっと、失った事のある者にとっては何よりも麻薬に近しいものなのだろう。今迄否定の中で育ってきた少女にとって、随分と久し振りの肯定はきっと、見失っていた自分の価値を救い出されたかのような心持ちだっただろう。


 それも、自らが血だらけになって、重傷を負い、意識が朦朧としている中においても尚、望まれる程に強く。獣のように動き、勿体無いと闘争を始め、重傷を負ってでも意地を張り続ける、それ程の強靭な意志を持った男に。


 お前は生きる価値があるのだと背中を押されたかのように、地獄から引き上げるかのように、少女は今、望まれているのだ。


 嬉しいと云う感情を、少女は五年振りに自覚した。


 しかしそれを口にするには、余りにも少女の経験値は低く、また語彙力は拙かった。何かが胸に(つか)え、喉から先に言葉が出てくれなかった。


 それでも何とか絞り出そうと、少女は右手を悪鬼に向けて伸ばす。恐る恐る、おっかなびっくり、拒絶の恐怖にビクビク震え、虚言かもしれない不安に逡巡しながら、歓喜が幻想とならないよう精一杯の祈りと共に、細い手を弱弱しく伸ばす。



「――私、スイ……」



 そして出た言葉は、自らの名。自分の身体以外で、両親から貰った唯一のもの。自己紹介にしては大分拙く、悪鬼に応えるには程遠い一言であろうそれは、しかし悪鬼に届く。



「スイか……。良いか、悪いか、解らんが……覚えやすい名だ。……俺はクロウ。そして、この手は、取引成立と、受け取った……」



 幾分血が付着したその右手で、それでも重傷者とは思えない位に力強く、紅朗は蹲ったままの少女……スイの手を取って引き上げる。


 少女がどうして取引に応じたのかを紅朗は知らない。この世界の人々が奴隷に対して然程悪感情を持っていない事から、紅朗は差して深くは考えていない。


 ただ理解しているのは、これで手札が揃った事だ。その手に握るのはアルテリアの少女、スイ。美味そうな香りを全身から放つ、尋常では無い魔力量の持ち主。


 紅朗からすればそれは、喉から手が出る程に欲した、生存には必要不可欠の食料。個体を胃に入れられなくなった珍妙な環境に適応するには最適解を保有する、生ける食糧庫なのだ。逃す手は無く、命を懸けて欲するに値する。



「では手始めに、お前の魔力を全部寄越せ」



 そして手に入れたからにはもう、負ける理由は、存在しない。




今年最後の更新となります。皆さまは今年の目標を達成出来たでしょうか。私は無理でした。今年は一章ぐらい終わらせたいと思っていましたが間に合いませんでした。残念無念。


読者の皆様には一年大変お世話になりました。来年もどうか宜しくお願い致します。それでは来年に会いましょう。では。

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