人を説く獣と獣を説く人
書きたかったシーンがてんこ盛りのお話です。どうぞ。
何度、撃合を交わしたのだろうか。紅朗はボヤけた思考で思う。
ロレインカムの門にて起こった異形襲撃。その最中に切り替わった対冒険者。割り込んできた騎士団との争い。左腕を突き抜かれ、騎士達の包囲を抜け、騎士団団長との逃走劇。相手は騎士団団長、スカイクォーツ・コンソルディ。あのアマレロの上司。騎士団との闘いの最中に見せた肉体強化魔術の精度は、当たり前だがアマレロの上を行っていた。
基礎体力からしてアマレロの上を行っているだろう席に着き、その上で筋力と瞬発力と持続力が底上げされては、紅朗に逃げ切る道は無かった。路地裏を使い、蛇行して走っても団長を振り切る事は出来ず、遂に紅朗はその剣を体に受けてしまった。なんとか皮一枚で凌いだものの、武器が己の身に届いてしまってはもう逃げる事は出来ない。
シロ達が暴れた地点から直線距離にして百mも離れていないだろう、住宅街の路上にて、紅朗とスカイクォーツの闘いは始まる。
その始まりから、一体何度の撃合を交わしたのだろうか。
スカイクォーツの右薙ぎを旋回しつつしゃがんで避けて、紅朗は足払いを狙うもスカイクォーツは跳んで躱した。相手は上空、自分は地表。そのまま剣が降ってくるかと思いきや、スカイクォーツの全体重を乗せた頭突きが紅朗の頭部に激突。体格の良いスカイクォーツが肉体強化を掛けてかました頭突きは紅朗の視界を明滅させ、畳み掛けるように放たれた剣の切っ先を紅朗が避けられたのは奇跡に近い。しかし次手である蹴り上げを避ける事は叶わず、紅朗の身体は数瞬、宙を舞った。
「――グハァッ!!」
レンガの壁に激突し、肺から空気が絞り出される。その間にも貫かれた左腕は鮮血を撒いては激痛を訴え、痛みに硬直した紅朗をスカイクォーツはショルダータックルで壁に減り込ませた。ドゴォッ!! と喧しい激突音。微かに鼓膜を揺するのはレンガが罅割れる音か。
レンガと巨体に挟まれた紅朗の思考は途切れ、それでも体に染みついた技がスカイクォーツに反撃する。密着した体勢となった紅朗の右脚はスカイクォーツの腰に巻き付き、左の膝裏で右脚を固定。点滅する思考の中で、紅朗はそのままスカイクォーツの腰を締め上げた。
「オ――っらァッ!!」
「――ギッ!!」
メギリ、と肉を締め付ける軋んだ感触が紅朗に伝わる。シロ程の威力は無いものの、肉を潰すには充分な威力を持った締め付けを受けてスカイクォーツの口からは言葉にならない苦悶が上がり、痛みから逃れようと紅朗から体を離した。その瞬間に紅朗は上半身を捩じり、右腕で大地を掴んでスカイクォーツの巨体を一瞬だけ持ち上げ、直後に頭から石畳に叩き落す。
先程よりも弱い衝撃音の中に、ゴリ、という肉を通した骨の擦れる音。叩き付けた後、紅朗はすぐさまスカイクォーツから離脱。距離を開けてスカイクォーツを睨む。
「っ、テメェ……っ。ご立派なもんぶら下げといて喧嘩殺法たぁ、随分と荒っぽいじゃねぇか……っ」
「剣だとどうしてもやり過ぎてしまうからね。取り押さえるにはこれぐらいが丁度良いのさ」
むくりと自然に起き上がるスカイクォーツにダメージは見られない。額から多少の出血は見られるものの、その足取りは確かなもので口調にさえ乱れは無かった。その事実に紅朗は、自然と舌打ちを漏らす。
「それに君だって、流石は荒くれ者。随分と身体が動いてくれるよう――だ!!」
言葉の途中でスカイクォーツが突撃する。敵のテンポを乱す為に良くやる手だ。紅朗もその手を使う事が有る為、眼前の敵への集中を欠かさなかった紅朗に乱れは無い。
だが、肉体強化魔術を使用したフットワークで目の前から消えた敵になぞ集中もクソも無いだろう。目で追い切れない動きの前に集中は霧散と化すが、しかしその視界の中で僅かな土煙が漂っているのを紅朗は見逃さなかった。土煙は右に流れている、そこまで確認した直後、左からの衝撃。その正体はスカイクォーツの蹴りだった。
その蹴りは土煙を読んで咄嗟に上げた紅朗の左腕に直撃。と同時に、左腕に開いた穴から鮮血が噴出。スカイクォーツの軌道を読んだは良いものの、足腰への力みが足りなければ左腕の激痛も相俟って、紅朗は血の線を描きながら住宅脇の木箱を巻き込み、花壇の土で全身を汚した。
「――ガァッ!!」
体勢を大きく崩した紅朗へ、息つく間も無く接近したスカイクォーツの剣が降り下ろされる。左肩を壁に着け、左脚が花壇の土に埋もれている体勢の紅朗だったが、壁を蹴ってスカイクォーツの足元に転がりこむ形で、辛くも剣の間合いから脱出に成功。転がる勢いそのままに、紅朗は体全体でスカイクォーツの踏み込み足である右足を押し込み、掬い上げた。
「う――ぉおッ!!」
踏み込んだ体勢で、その軸足を払われては、さしものスカイクォーツであっても体勢の維持は不可能だ。つんのめるように花壇に頭から突っ込みかけたスカイクォーツは、降り下ろした剣をそのまま花壇に刺す事によって支えを得る。その後頭部目掛け、紅朗は渾身の右足を振り下ろした。
「死ねオラァッ!!」
バガン!! と、肉と肉の衝突音に相応しくない派手な音が鳴り、スカイクォーツは顔面から花壇に突っ込む。延髄に直撃したその攻撃は、一般的な人類であれば紅朗の言葉通り死んでもおかしくは無い。それ程の破壊力を叩き込んだにも関わらず、紅朗は攻撃の手を緩めなかった。
身動ぎするだけで激痛を訴える左腕を無視し、顔面を土に埋もれさせて隙だらけの無様な姿になったスカイクォーツの肋骨目掛け、紅朗は左足を振るう。その蹴りは直撃し、蹴り脚を通して肉を打った感触を覚えた紅朗だが、残念ながら骨を砕いた感触は無い。分厚い筋肉に護られた骨はビクともせず、巨体のスカイクォーツを数m転がすだけに留まった。
骨まで逝けなかった原因がスカイクォーツ側だけでなく自分にもあると自覚する紅朗は一つだけ舌打ちし、追撃する為にスカイクォーツへ走り出す。その顔面目掛け、スカイクォーツは蹲ったまま突きを放った。瞬きする暇も無く迫り来るカウンターの片手突きを、紅朗は上半身を後ろに逸らして躱す。
「そう来ると思ってたんだよォッ!!」
上半身を逸らしながらも下半身は突進の慣性に従わせ、未だ前に進もうと藻掻く両足をもって、紅朗はスカイクォーツの右腕を絡め捕る。そして全体重を乗せて、紅朗はスカイクォーツの肘の破壊を試みた。
「右腕貰ったァッ!!」
「中々鋭いじゃないか。だが、筋肉が足らない」
絡め捕られた右腕。圧し掛かる紅朗の全体重。それを持って尚スカイクォーツは揺るぎ無く、腕の筋肉のみで紅朗を持ち上げた。そのまま彼は無造作に右腕を振るい、紅朗を弾き飛ばす。文字にすればいやにあっさりとした印象になってしまうが、その勢いは突風よりも凄まじく、文字通り吹き飛んだ紅朗は道端に停められていた無人の移動式屋台を全壊させながら路上を転がる。
圧し折れた板の破片が全身を掠め、あるいは切り裂き、あるいは刺さり、全身から血を滲ませる紅朗。左腕に開いた穴とは別に、右肩に杭のように突き刺さった木の板が、紅朗の身体を激痛によって縛り付ける。
「そういえば、君の戦術は迎撃特化らしいね。冒険者ギルドの職員に聞いたよ。勿論、アマレロとの事も」
激痛に途切れる意識の中、紅朗はスカイクォーツの言葉を聞く。どうやらスカイクォーツは、ロレインカムに戻ってきて早々、冒険者ギルドに顔を出したようだ。
そこと接触しているのならばきっと、アマレロとの賭け……金板十枚の件はバレていると見るべきだろう。その上で今、こうして関わってきているのだから、その辺の対処も取っている筈だ。下手したら、あの時の取引が無効になっている恐れも出てきた。そしてきっとスカイクォーツは、それを言外に臭わしているのだ。紅朗の反骨身を折る為に。
「君の闘い方も、アマレロから聞いた。アマレロの精神的に未熟な部分を良く突いていた。君達冒険者は、そうして敵の弱点を突いて生きているそうじゃないか」
言葉が終わると同時。一挙動で紅朗に近付いたスカイクォーツは、自らが貫いた紅朗の左腕を全体重かけて踏み潰した。
「――グッ……あああああああああああああああああああああああああ!!」
直後に上がる絶叫。肉だけでなく、骨まで潰れたかのような激痛に紅朗は耐えきれず吠える。噴き出す鮮血は地面に溢れ、石畳を赤黒く染めていった。
「これが、相手の弱点を突くという事だ……。これが、貴様ら冒険者のしている事だ。どういう気分だ? 怪我した場所を踏みにじられ、激痛に喘ぎ、碌に身動きも取れなくなった今の気分はどうだ?」
紅朗の頭上高くに存在するスカイクォーツの瞳は、勝者のように在りながらも、しかし深く冷めきっている。眉間に皺を寄せ、口角を引きずり下ろし、歪みに歪んでいた。それも、当然なのかもしれない。
「私は、最悪の気分だ」
今彼のやっている行為は、彼の矜持から酷く逸脱した行為なのだから。
「これは、人のすべき行いでは無い。例えこれで私が有利な立場になろうとも、こんなもの……」
ギリ……、と。スカイクォーツは歯噛みする。苦渋を舐めるように。苦虫を噛み潰すかのように。人の権限を文字通り踏み潰す行為を、スカイクォーツは蛇蝎の如く嫌っているのだから。
「我々は、人だ。動き、思考し、勉めて学び、文化を育んできた生物だ。だがこの戦い方はなんだ。まるで肉食獣が、致命傷を負った草食獣を前に舌なめずりしているかのような行為ではないか。今か今かと死ぬのを待つような、唾棄すべき行為ではないか」
そこに品性は無い。精神性は介入しない。勇猛無謀も関係無い。産まれたままの生物が、本能のままに動き、なんの後ろ盾も感慨も無く殺傷する。そこに一体、なんの矜持がある。なんの自尊心がある。いったい何の文化が発展すると言うのか。
「我々は人だ。人なのだ。であれば……、人の闘いであればこんな、這いずり回って争うような、そんな泥臭い行いはすべきでは無い。もっと正々堂々と、誇りを持って闘うべきだ」
「――なん、だそりゃ……掃いて捨てる程度のもんでっ……わざわざ、立つかよ」
そんなスカイクォーツの想いは、しかし紅朗には届かない。見下ろすスカイクォーツと見上げる紅朗。立ち位置も勝敗も下にある紅朗だが、その瞳は光を失っていなかった。
「――ッ、さっきっから聞いてりゃあ、べきべきべきべき……五月蠅い奴だな、お前は……。お前さんは、人類史の未来に、一石投じられる程ッ……、偉いのか、よ」
踏まれて固定された左腕。血は溢れ、骨は潰され、激痛が全身を駆け巡る。最早もう、紅朗の左腕は使い物にならなくなっていた。それでも尚、自らを大地に縛り付けるのならば、百害あって一利なし。無用の長物。無価値と断じ、決別を覚悟する。
「誇りなんざ、要らねぇッ……。誰かの賞賛も、慰めの言葉も必要、無ぇ。俺はただ、俺が望むままに活きてぇのよ!」
思い出すは遠い記憶。今でもはっきりと思い描ける、惨劇の情景。奪われたのは常人の道か、人の心か。それを実感しても紅朗は、追い求めずにはいられなかった。あんなにも、あるがままに活きられるのなら……。
胸中に溢れる羨望を糧に、紅朗は満身を左腕に込める。激痛を怒気で塗り潰すように。失血を殺意で掻き消す様に。鮮血と骨折の事実を満身込めて握り潰し、紅朗は歯を食いしばる。
「誰かに認められなきゃ生きていけないような、崇高な人間じゃねぇんだ俺は。見たくも無い顔に頭下げて、やりたくも無い事に諦観で腑に落とし、どうでもいい賞賛を掻き集めなければ生きていけないのなら……ッ! そんな人生が人の道だと言うのなら、俺はただのケダモノで構わねぇ! 獣のように食って、獣のように寝て、獣のように活きて、獣のように野垂れ死んでやるさ!!」
言葉の終わりと同時、紅朗はスカイクォーツに踏み潰されていた左腕を力任せに滑らせた。ブチブチブチ……! と気色の悪い音を新たな激痛と共に噛み殺す紅朗。自らの鮮血が潤滑油の代わりを成したのか、スカイクォーツの足裏と地面の間に挟まれていた左腕は見事にその間から抜け出す事に成功した。だがしかし血液は油の代理品としての能力は皆無に近く、無理矢理抜け出した代償として、紅朗の左腕はスカイクォーツの靴底と地面に皮と肉を抉り取られていた。
「一回こっきりの俺の人生だ! 好きに生きなきゃ勿体無ェだろうが!!」
そんな、荒業も荒業で脱出するとは思っても居なかったスカイクォーツは呆気に取られ、下から腰を捩じって振るわれる紅朗の蹴りを避ける事も出来ず、骨盤の脇を痛打された。今迄足元にあり重心をかけていた物体がいきなり引っこ抜かれた上、二足歩行の生き物であればどんな者であろうとも動きの起点となる骨盤を揺さぶられては、スカイクォーツも直立不動では居られない。彼は紅朗の思惑通り無理矢理退かされ、紅朗に体勢を整えさせる隙を与えてしまう。
と言っても、紅朗の身体は見ての通り、重症だ。土汚れの下には打撲に擦過傷、全身至る所に出来た切り傷に加え、左腕の無残な姿。痛みは既に噛み殺せるレベルを超えており、紅朗の顔は脂汗を垂らしながら酷く歪んでいた。激痛に因るものか、肩で息をする紅朗は膝跪いて息を整えるのが関の山。とても戦える状態には見えないだろう。精々が、勝敗の決する直前だ。待ち受ける未来は、敗北の二文字のみ。
対するは、額から多少の出血が見られるだけの、直立した巨体。その傷にしたって殆ど流血は見られない、些細な傷だ。顔の土汚れにしたって、紅朗程じゃない。殆どダメージを見受けられない健常体で、スカイクォーツはそこに立っていた。
頭部の高さで勝敗が決まるとしたら、この時点で紅朗は負けているのだろう。傷の深さで見ても、汚れの度合いで見ても、疲弊度から見ても。見下す者と見上げる者の勝敗は一目瞭然だった。それでも確固たる意志を失わない紅朗の瞳を見て、スカイクォーツは静かに腹を決めようとしたその時、二人の間に乱入者が現れた。
「もういいでしょう!!」
庇うように紅朗の前に立ち、阻むようにスカイクォーツの前に立ちはだかったのは、大きく息を切らしたソーラだった。額から汗を流し、右腕を庇いながら、ソーラはスカイクォーツに刺すような眼を向けて立つ。紅朗もスカイクォーツも、互いの事しか意識に無かったから気付かなかったのだ。ソーラの接近する足音も、もう一つの戦場から騒音が小さくなっている事も。
そして意識を向けてスカイクォーツは理解した。どんな技を使ったかまでは知らないが、アマレロが負けた事を。彼女の実力であればDランク程度の冒険者など、逃す筈が無い。紅朗は兎も角、目の前のソーラの実力はそのランクに相応しい力しか無いのだから。そんなソーラが部下達の包囲から脱しているという事は、つまり、そういう事なのだろう。
ただ一つスカイクォーツが解せないのは、ソーラが今こうして自分の前に立ち塞がっている事だ。右腕も負傷しているようだし、彼我の差が解らない程の馬鹿でも無さそうなソーラが、何故このような暴挙に出たのか。それがスカイクォーツにはどうしても理解出来なかった。完全武装し尚且つ抜き身の剣を持つ歴戦の兵士に、布の服しか着ていない年端のいかない痩せた少年が殺し合いを挑んできた、と言えば伝わるだろうか。そんな、怒気さえ霧散し呆気に取られる暴挙に、実際スカイクォーツは呆気に取られていた。
「もういいでしょう!? クロウはもう戦えないわ!!」
呆然とするスカイクォーツを前にして放たれた言葉。両者の闘いに割って入り、試合を見ていた審判のように勝敗を下したソーラへの反応速度は、スカイクォーツよりも紅朗の方が早かった。
「おい、ふざけんなソーラ! 勝手な事言ってんじゃねぇ!!」
「勝手なのもふざけてるのもそっちじゃない!!」
しかし秒を待たずしてソーラに叫び返された。敵であるスカイクォーツに背を向けて、眼を三角に尖らせて紅朗の左腕を彼女は指差し、叫ぶ。
「貴方今、どんな状態だか解って言ってるの!? その左腕なんてボロボロじゃない!! このまま失血死するより、ここで捕まって罪を償った方が大分マシでしょう!?」
「償う罪も罰せられる謂れも俺には無ぇ!!」
「騒乱罪だって言われたでしょう!!」
「俺の知らんトコで勝手に後出しジャンケンされて、なんで俺が従わなければならねぇんだ!!」
「騒乱罪は私達が産まれるずっと前から決まってる事なのよ!!」
「俺の耳に届いたのはそのずっと後だ!!」
眼前で交わされる口論は、闘争の空気が霧散させていく。高揚感が自らの中から失われつつあるのを自覚したスカイクォーツは、無視していた痛みと共にそう感じる。これでは、抜き身の剣も仕舞って良いだろうとさえ思ってしまう程に。
紅朗は未だ争う気満々のようだが、仲間であるソーラとの口論が続く限り再戦の可能性は低いだろう。もしかしたら、ソーラが紅朗を説得するかもしれない。それならそれで、面倒が無くて良い。
「なんで、どうしてそんな我儘を言うの!! どうしてそこまで無茶が出来るの!? 一つ謝れば良いだけじゃない!! 少し頭を下げれば痛い目を見なくても済んだじゃない!! ただの犯罪者に成り下がってまで、意地を張って何がしたいのよ!!」
そう思い始めたスカイクォーツの前で放たれたソーラの言葉は、紅朗の息を詰まらせた。その仕草は、紅朗の中に存在する動機の証明でもある。調書を取る手間が幾分省けるかもしれないという怠惰半分、興味半分のスカイクォーツは、静観の構えで二人を見やる。
「……ある女の顔が、忘れられねぇんだ」
「……おん、な……?」
やがて呟かれたのは、紅朗の中にしか存在しない光景だった。幼い頃に見た、ある女の相貌。あの、おぞましくも美しい笑みが、紅朗はどうしても忘れられない。あの女の笑みが、瞼の裏に張り付いて消えてくれなかった。
「別に、期待しているような色恋沙汰じゃねぇし、寒くて痛々しいトラウマな話でも何でもない、ガキの頃の話だ。両親と共に過ごしていた、もうそろそろ妹が生まれるから立派な兄になれって言われて育てられていた、十歳ぐらいのガキの頃。そんな時、俺はヤツに出会っちまった」
目を閉じれば、まるで今出くわしたかのように、紅朗はその情景を強く脳に刻み込まれていた。闇夜の角まで見抜いてやると言わんばかりに瞼を開けた、満月の夜だったのを覚えている。月に照らされた大地が、辺り一面てらてらと輝いていた事を鮮明に覚えている。粘り気をも感じられる臭気を、紅朗は克明に覚えていた。
「そいつは希代の大犯罪者でよ。人をバラす快感が忘れられないようでよ。ご立派な殺人鬼として活動している最中、何人もバラした直後の現場に出くわした。辺り一面が血の海で、でもそんな中、ソイツが浮かべていた表情は、とても穏やかな顔だったよ」
ソーラとスカイクォーツは、紅朗から見れば些か野生的で暴力的な世界の生まれだ。その状況を想像するのは容易い。それでも二人の浮かべた表情が別なのは、生まれ持った性格と言うよりも、そういった現場や人間性に触れた経験の有無だろう。スカイクォーツは職業柄そういった者と出会いやすく、ソーラは幸せな事にそういった者と出会った事が無い。だからスカイクォーツは素面な顔で、ソーラは怯えの表情を浮かべていた。
「その顔を見て、綺麗だなって思った。良い表情だと思って、羨ましいとまで思ってしまった。死罪確定の現行犯相手に、そんな世迷言を頭に浮かべちまって、俺は……そんな風に成りてぇと思っちまった」
だが十に届くか否かの頃にそういった光景を目の当たりにした経験の無い二人には、その道を通った紅朗の気持ちは想像も出来ないだろう。スカイクォーツが曲解、あるいは誤解を述べるように。
「……成程。殺しがしたいのか」
「違ぇよ。獣は兎も角、人相手の殺しなんざ出来れば御免だ。デメリットが多過ぎる。面倒な事この上無ぇ。俺が成りたいと思ったのは、そいつの表情よ」
月光を艶やかに反射する長い黒髪。柔らかそうな肢体は海と同じくてらてらと輝き、手には大鉈。今でも色鮮やかに思い出せる。獣のような彼女。鬼のような彼女。なのにその浮かべる笑顔は赤子を見る母のように柔らかく、不安を取り除いた少女のように安らかで――
「満足だと、そんな顔を浮かべられるような人間に成りてぇと、心底思っちまった」
あの顔に魅了されたその時から、紅朗の人生は決まってしまったようなものだ。師匠に弟子入りしたのも、師匠を探しに世界を駆け巡るのも、この異郷に辿り着いたのも。そして、こうして正義を抱えた者と立ち会うのも。
だからと言って、それに不満は無い。自分の選択に後悔は微塵も無い。もしあるとしたら、それはきっと、自分を曲げたその時に産まれるのだろう。そう確信している紅朗は、震える膝に活を入れて立ち上がる。
「そうよ。満足よ。俺は満足してぇんだ」
身動ぎだけで脳に激痛が突き刺さった。身体が休みたいと強く訴えている。それでも紅朗は屈しない。それが敵だろうと自分だろうと、邪魔立てするなら噛み潰すし、踏み躙ってやる。
「俺は、俺の思った通りに進みたい。テメェのやりたい事に嘘は吐かねぇ。理不尽に平伏す事は絶対に嫌だ。どれだけデメリットがデカかろうが、テメェがやりてぇと思ったら必ず成し遂げる。そんな我儘を押し通したからこそ出来る表情を、俺も浮かべたい。何時如何なる時も満足でいられる人間に、俺は成りてぇんだ」
万力絞り出して立ち上がった紅朗は、鮮血を漏らしながらも生きている右手でソーラを退かした。己が望みを叶える為に。スカイクォーツとケリを着ける為に。
「だから退かねぇ。だから意地を張る。ここで意地を張れなかったら俺は、一生満足出来ないまま終わっちまう!!」
使えない左腕は前に垂らし、使える右腕はスカイクォーツから隠すように後方へ。腰を充分に落とし、何時でも迎撃出来るように目標《スカイクォーツ》以外を視野の外へ流す。
「さぁ来い、来いよロレインカム防衛騎士団団長!! 俺を止めたきゃ殺しに来い!!」
その姿に、スカイクォーツは感銘を受けた気分だった。紅朗は自分の職務から見れば完全なるただの犯罪者。だがその瞳に暗い色は無く、不安も恐怖も自暴自棄も無く、犯罪者特有の腐敗さえ見られない。ただあるがままに活きようと足掻く、生命力溢れる光を紅朗は灯していた。
「そんな……今にも倒れそうな程フラついているのに、まだ戦おうと言うのか」
「なァに言ってやがる」
スカイクォーツの、胸中とはまったく違う台詞を前に、紅朗は鼻で笑う。
「しこたまどつかれて頭ァ霞がかってるし、腹ァ減ったし、腕は血みどろで使いもんになんねぇ。全身傷だらけで血が足りねぇのか足もフラフラだぁ……」
自分の状況を理解して、スカイクォーツとの戦力差を理解して尚、紅朗は嗤う。傲岸に不遜に睨み付け、傲慢無礼に嗤って見せた。
「つまり、絶好調だよ莫迦野郎!」
いつだってそうだ。日常の中に万全の状態など有りはしない。飯を食った時は腹が膨れて体が重くなるし、ふとした瞬間に怪我だってする。朝起きた時も、夜眠る時も、眠っている間にだって襲い掛かってくる敵は待ってくれないのだ。そんな中でも生物は、手元にあるものを最大限活用して戦わなくてはならない。自己の生命を守る為に。
例え腹が減っていようが、例え視界が明滅しようが、例え左腕が使えなかろうが。今、この瞬間の体調こそが、今現在の絶好調なのだ。
「……良い男だ。私の部下達にも見習ってほしい気概だな」
常在戦場、と言うには些か野性味溢れる思考を、紅朗とは真逆の生き方を歩んできたスカイクォーツは、しかし明確に察知し、理解した。何時如何なる時であっても戦い続けようとする不屈の闘争心。逆境に立たされて尚、生き足掻こうとする生への渇望。その精神性はどんな訓練でも得られない、何物にも代え難い一種の才能だ。
スカイクォーツは自然と笑みを浮かべる。良くぞ折れずに此処まで来た、と。良くぞ屈せずに、俺の前まで来てくれた、と。その才能が摘み取られる事無く、こうして自身の前に現れた事を、スカイクォーツは神に感謝するまであった。
その才覚は、防衛騎士団にとって最後の盾と成り得るものなのだから。
「いいだろう。満身込めて叩き潰してやる。そして私が勝ったら貴様、防衛騎士団に来い。その力、私の下で活かしてみろ!」
「なら俺が勝ったら、今回の件で出た被害総額は全部、テメェが自腹で払え。俺はビタ一文たりとも出してやらねぇからな!」
トロフィーは決まった。互いにとって勝てばメリットの大きい戦い。それはつまり言い換えれば、互いにとって絶対に負けられない戦いと成った事を差す。
我が身に高揚感が舞い戻ってきたのを感じる。四肢に自然と万力が込められる。アドレナリンは脳内を満たし、沸騰寸前の血液が全身を駆け巡る。視野の中には互いの敵。自らの未来を暗く塗ろうとする邪魔者。栄光の前に立ち塞がる障害物。それ以外の全ての意識を除外してしまう程に、相対する二人は互いに対して集中を高めていた。
両者の間にひりついた空気が流れる。凍土のように熱を奪いながら、焦土のように皮膚を焼く、戦場独特の空気。
その舞台に居合わせながらも、介入する事を許されていないソーラの胸に溢れる感情は、きっと彼女にしか解らないだろう。
「おおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「ああああああああああああああああ!!」
相対する二人は互いに示し合わせたかのように雄叫びを上げ、人と獣は激突する。
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