薄色の少女
一万文字超えてしまいました。もし読みづらかったら申し訳ございません。今後に活かしますので報告をください。
コトリ、と音が鳴った。
それは今まで説明の為に喉を震わせていたセイムダート奴隷商館の主、フレグフロウ・フリーフルズという男が、自らの喉を潤した茶の入った陶器を置いた音だ。まるで区切りを入れるように一拍を置いた音に続いて、フレグは無表情の蛙面をクロウとガルゲルへと向ける。
「さて、長々と説明させて頂きましたが、奴隷についての基本情報は以上となります。他に何か、ご質問はありますか?」
問われた紅朗は少しだけ頭を捻ってみるも、出てくる疑問は無い。もっとも、この世界の奴隷に対して少しばかり教わった程度の状況だ。基礎の土台が構築されたばかりの紅朗には疑問が発生する余地も無く、彼はただ頭を振るった。
「そうだなぁ……。今の所、特に浮かばないかな」
「左様で御座いますか。それでは、次は当商館のシステムをお話しさせて頂いても?」
次いで出された問いは、紅朗にとって願っても無い事だった。奴隷を買う為に奴隷商館まで来た身だ。その店のシステムを理解していなければ買うのに手間取る事もあるだろう。バスの運賃は乗車時に払うのか下車時に払うのか、日本で良く直面した戸惑いを思い出せば、紅朗が頷くのも当然の事だ。
それらが、平常時の紅朗であれば。
「いやぁ……、まぁ、なんだ……」
紅朗は俯き、フレグの問いに答えようとしない。その口から洩れた言葉は、何かを曖昧に濁すかのような音だけしか出てこなかった。いや、濁そうとしているのでは無い。それはさながら、探るかのような響きを持っていた。
先程までの、真摯にフレグの言葉へと耳を傾けていた態度を一変させた紅朗に、ガルゲルは充分な注意をはらって目視する。
「フレグさん。あんたは良い人だ。客になるかならないか解らない立場の俺に、ここまで時間と心を砕いてくれた。こんなデケェ商館の支配人を務めている人が、そんなに暇じゃないってのは学の無ぇ俺にだって少しぐらいなら理解出来る。それにあんたの眼は、まるで何も知らない俺を卑下する事も蔑む事も、ましてや騙そうとする意思なんざさらさら無かった。だから、そんなあんたに敬意を表して単刀直入に言う」
きっと、目の前の商人は奴隷の値を吊り上げるような奴では無いだろう。此方の足元を見てぼったくってやろうなんて、そんな事は思わない筈だ。
それは、希望的観測に過ぎない。フレグが金銭を前に欲を出さないとは限らない。誰だって――ある一定以上の損得勘定を計算出来る頭を持った人間ならば、誰だって他人の前では善人の仮面を被るものだ。その仮面を、フレグが最後まで被っていられるとは限らないのだから。
しかしそこまで知りつつも――自分の考えが希望的観測だと理解しつつも、紅朗は顔を上げて、フレグを真正面から捉えた。
「俺は、魔力持ちの奴隷を探している。居るんだろ、此処に」
今までは、異世界の奴隷制度という未知を前にして、知的好奇心が働きフレグの言葉を聞いていた紅朗。知らないものに対して、それの情報が容易く得られるのだ。大人しく聞き役に徹するのは当然とも言えるだろう。しかし、最早もうダメだ。彼の空腹は、既に唸りを上げて紅朗自身をせっついているのだから。
というのも、このセイムダート奴隷商館。足を踏み入れた時には気付かなかったが、中に入って時が経つ毎に、紅朗にとある刺激を与え始めた。胃袋を活発化させ、今迄騙し騙しやってきた空腹感を浮彫にさせる、嗅覚への刺激を。ギルドではついぞ出会う事の無かった、いっそ暴力的とも言って良い程の蠱惑的な刺激を――美味そうな香りを紅朗は感じていた。
故に、彼は逸る。空腹が彼を縛る。飢餓が彼の思考を制限する。生物的生存本能が、フレグの説明を打ち切らせた。
飢えた獣のような、実際その通りなのだろう紅朗の視線を一身に受け止めるフレグは、一瞬だけ蛇に睨まれた蛙のように身を硬直させ、しかし性根の商人根性がそうさせたのか、直ぐに立ち直っては腰を上げる。
「魔力持ちの奴隷……、魔術師の技能を持つ奴隷は確かに居りますとも。此方へどうぞ」
先行して紅朗達を誘導するフレグ。彼が向かった先は、奴隷達を飾るアクリル板の直ぐ脇にある小さな扉だった。その扉の向こう側に広がるのは、簡素な応接間のように拵えた空間。革製のソファーが二つ、向かい合わせに設置されていて、ソファーの間には足の短い長テーブル。その光景は紅朗にとって、まるで高校の時に見た校長室のようだった。額縁もトロフィーも無い、校長室から重厚感を削ぎ落せば出来上がってしまいそうな程の、簡素な応接間だ。
だが簡素とは言え、今紅朗達がいるのは現代日本じゃない。文明レベルの低い異郷の奴隷商館。護衛役なのかなんなのか、あるいはどちらの護衛役か。少なくとも荒事担当であるだろう胸板の厚い、屈強な男達が部屋の四隅に佇んでいる。太ももの真ん中辺りに備えられた、ベルトで固定された短刀がその証拠で、彼らは恐らく防衛策の一つなのだろう。
一つの命に少なくない金を乗せているのだ。これぐらいは予想の範囲内。と、四人の男達を無視した紅朗は、先程と同じくガルゲルと隣り合わせでソファーに座り、当然のように対面にフレグが座る。
「此処は、本来であれば表の席で購入したい奴隷を選んでから面通しする為の場所ですが、今回はクロウ様の要望がはっきりとしていますので、此方からクロウ様の要望に応えられる者を連れてきたいと思います。人種、年齢、性別、金額は度外視して、ただ魔術師の技能をお持ちの奴隷、という事で宜しいでしょうか」
「あぁ、頼む」
フレグの問いを逡巡する事もせず、即座に頷く紅朗。その隣でガルゲルは、躊躇も無く頷いて見せた紅朗に唖然と口を開いていた。
何を言っているのだろうか、この男は。フレグの問いをちゃんと聞いていなかったんじゃないか。それが偽りの無いガルゲルの胸中である。人種、性別、年齢はまだ良い。人によっては嫌いな人種もあるだろうし、男だったら連れ歩くのは女じゃなきゃ絶対嫌だという観点もあるだろうが、それらは所詮好みの問題で、差し迫った問題がある訳じゃない。
しかし、金額はもっと慎重にすべきでは無かろうか。ガルゲルは紅朗の総資産を知らないが、先日冒険者になったばっかの奴に、最高級品の奴隷など到底買えるものでは無いと言うのは、語る事すら愚かしい行為に近い。
このロレインカムは全盛期の頃とは違い、今や寂れ始めた町だ。そこの奴隷商館が最高級品を所持している可能性は低いと言わざるを得ない。だが、それでも奴隷という人一人の人生を買い上げる行為に等しい。それを考えれば安くない買い物になるのは火を見るよりも明らか。例え最高級品よりも二等三等落ちようが、家一軒購入するよりも高くなるなんてざらにある。金板三桁越える奴隷なんて、一介の冒険者が買えるものではないのだ。
見るだけ見てから購入を断念すれば良いだけの話だが、それをするには事を少々乱暴に持ち込み過ぎた。紅朗はフレグの説明を断ち切った上で、まるでせかす様にこの応接間に案内させたのだから。その上で連れてきた高級奴隷を金が払えないから買えませんだなんて、奴隷商館支配人の心象は確実に下がるだろう。出入り禁止は無いだろうが、もしかしたら低級奴隷を高額で売られる可能性は捨てきれない。
そして何よりも、ガルゲルを唖然とさせたのはもっと根源的なもの。
――コイツ……ヤベェ雰囲気を醸し出してねーか……?
数日前、自らの膝を圧し折ったあの時にはまるで微塵も感じさせなかった威圧感。それが今をもって少しずつ溢れ出し始めた紅朗に、ガルゲルは唖然としたのだ。そして周囲の護衛達も紅朗の気配に警戒心を抱き、重心を紅朗の方へと傾けている事実は、そんなガルゲルに明確な危機感を抱かせる。
俺がなんとかしなければ、ヤバい事になってしまう。と。
「(おい、おいクロウ!)」
自らの脳裏に過ぎった最悪の未来を回避する為に、ガルゲルは紅朗を説得しようと耳打ちする。
「(何を焦ってんのか苛立ってんのか解んねぇけどよ、少し落ち着けって! お前解ってんのか!? 金額に糸目は付けないっつってるようなもんだぞ!)」
「だとしても払うさ」
「(おま、バカか! 奴隷がどれだけ高ぇか解ってねぇだろ!! 金板百枚でも足りねぇもんが出てきたらどうすんだ!!)」
「百枚だろうが千枚だろうが関係無ぇ」
フレグへ向けていた視線を、紅朗はガルゲルに移した。そしてガルゲルは見る。紅朗の視線に宿る激しさを。確固たる意志を。
「俺はな、ガルゲル。やりてぇもんに我慢なんざしねぇ。それに払う対価が金板百枚だろうが千枚だろうが、一万枚だろうが必ず払う。どんな事をしても。例え、一国を敵に回そうが滅ぼそうが、必ずだ」
一見すれば暴走のようにも見えるだろう。聞かん坊の駄々にも見えるだろう。無謀にも、無知にも、ただの何も知らないならず者にさえ見えてしまえるだろう。
だがそれは違う。紅朗は冷静で、賢い視点を持っている。膨大な金額を提示される事も、それを払う為の法外な方法も、紅朗は思案していた。デメリットを理解しながら、その対策が自らの首を絞めると確信しながら、その上で自らの欲求を通そうとしている。我を通そうとしている。ガルゲルに向けられた紅朗の眼は、そういった眼だった。『突き進む』という一つの意志を宿した、狂気の眼をガルゲルは見た。
見て、怯え、息を呑んだ。
その空いた一拍をどう取ったのか。紅朗の視線は再びフレグへと向かい、フレグは意気揚々と頷く。
「クロウ様の意気込み、しかと承りました。それでは、当商館が誇る魔術の才を持った奴隷、とくとご覧に入れましょう」
肉付きの悪い平べったい掌を掲げ、何をするのかと思えばフレグは指を弾いて音を放つ。それを合図にして、警戒していた四隅に佇む護衛の一人が動き出し、扉を押し開いて向こうへと消えていった。フレグの言動からして奴隷を呼びに行ったのだろう護衛は、矢張りその通りで、奴隷と思しき六名を引き連れて戻る。
踊り子のような衣装を着た猫の少女。ローブを羽織るアリクイ顔の男性。スイギュウのように湾曲した角を持つ妙齢の女性は革製の軽装鎧を着込んでおり、サイのように鼻を尖らせた少年は待ちゆく人が着ていた一般的な服装をしている。他にも二名、トカゲ面とカメレオン面の者も居たが、両者とも服装がゆったりとしているものもあって紅朗には性別も年齢も見分けがつかなかった。
しかし、そんな事は些末な事だ。
「……これで、全員か?」
「はい。当商館に所属している魔術師系統の奴隷はこの六名で全てです。端から説明させて頂きますが、まず虎爪族の――」
「いや、説明は要らない」
六名とも、どれもこれもが美味そうな匂いがしないという事に比べれば、全て些末事だ。
「もう一度言うぞ、フレグ。魔力持ちの奴隷は、これで全員か?」
紅朗は言葉の一つ一つを強調しながら、フレグに問いかけた。
彼の言葉を信じるならば、この奴隷商館に所属する魔力持ちの奴隷は目の前の六名で全員。しかし紅朗は目の前の奴隷達から、この商館全体に充満する蠱惑的な匂いを感じ取る事は出来なかった。それは、どういう事を意味しているのだろうか。
紅朗の胃袋を刺激させる香しい芳香を、この広い商館に充満させている者だ。少なくとも魔術師としての才はあるだろうと予測される。であれば、この芳香の主がテーラのように生活魔術しか使えない奴隷、とは考え難い。では従業員なのだろうか、という紅朗の推測は、今先程フレグが否定してくれた。フレグが、というよりもフレグの反応が、だ。
再度問うた紅朗の言葉を聞いて、フレグの凝り固まったような表情筋が少しだけ動いたのを紅朗は見逃さなかった。さながら引き攣るように微動したフレグの瞼。その反応が、芳香の主が従業員では無く奴隷だという可能性を濃厚にする。
「商人相手に押問答する程、今の俺は呑気じゃねぇ。上がらせてもらうぜ」
フレグとの会話を無駄と斬り捨て、紅朗は腰を浮かせた。それが皮切りとなるのは――開戦のゴングとなるのは、当然の事だった。
先程から剣呑な雰囲気を隠そうともしない男が、商館支配人の許可も得ずに商館内を歩き回ろうとする。そりゃあ、護衛達も動くだろう。己の職務を全うしようと、奴隷達と、そして商館支配人。ひいては商館そのものを護るように、四方の護衛達は席を立った紅朗へと飛びかかる。
一人が紅朗の右頬を打ち抜いた。強制的に左方へと向けられた紅朗の首が伸び切る前に、紅朗の左前方から、体勢を低くしたもう一人の護衛が紅朗の両足を払うように刈る。払われた両足は地面から離れ、刹那的に宙へ浮く紅朗。その紅朗の右手を左後方の護衛が掴み、そのまま腕と肩の関節を極めて紅朗をテーブルに押し付けた。
その隣では、ガルゲルが右後方に居た護衛に短刀を突き付けられ、両手を上げて降参の意思を示している。
元々歯向かう意思は無く、ばかりか紅朗を止めようとしていたガルゲルは兎も角。紅朗の暴走は護衛達の見事な連携により、即座に鎮圧された。――――かに見えた。
「……お前らは、やさしいなぁ」
顔面毎テーブルに押し付けられた紅朗の口から洩れた言葉は、少々くぐもってはいたが、確かに応接間内の人間全てに届く。その台詞に、フレグだけで無く紅朗を押さえ付ける護衛も眉根を寄せた。
「それは、どういう意味でしょうか」
「得物を使わないで俺を止めた事だよ」
護衛達は皆、太ももにベルトを通し、そこに短刀を括り付けている。その刃物を使えば護衛三人も使う必要も無く、簡単に制圧出来た事だろう。唯一刃物を使っているのはガルゲルのみにであり、それは紅朗よりもガルゲルの方が体格が良いという事では無く、単純に脅し目的。と言うよりも商館内で暴れるような危険思想を見せず、紅朗を諫めようとした明らかな行動があった為に、傷付ける事を目的とはしていない、威勢を示すだけの示威的行動。デモンストレーションとしての役割が大きい。だからこそガルゲルも黙って大人しくしているのだ。
そして紅朗に刃物を使わなかった理由は、色々考えられる。単純に、ガルゲルよりも細く小さい紅朗は刃物を使うまでも無いと侮った。あるいは、応接間や支配人、傍の商品を血で汚したくなかった、とも考えられるだろう。
そのどちらでも構わない。刃物を使わずに取り押さえた理由が、侮ったのか掃除が面倒だったのかは解らないが、そのどちらであってもどちらでなくとも、理由がなんであろうと刃物を使わなかった事実は変わらない。
故に紅朗は言ったのだ。「優しい」と――
「だから俺も、易しく鎮圧してやろう」
あるいは「易しい」と。
関節を極められ、肩と右腕を押さえられてテーブルに突っ伏している状況の紅朗。そんな男が何を言っても信憑性が薄いと、紅朗を押さえ込んでいる護衛は思う。体格はガルゲルに劣り、見た目通りの薄力加減を触れている両手から感じ取っている護衛は、口角を釣り上げた。
それが、「侮り」という感情を起因とした失態であると身に染みるのは、その直ぐ後の事だった。
護衛は右手で紅朗の右手首を掴み、左手で紅朗の右肩を押さえている。己が身に伝わる感触から自らの体勢と護衛の体勢を知覚した紅朗が、まず最初に取った行動は、テーブルの上で自らの体をスライドさせる事。全身の筋肉を、特に足の筋肉を巧みに使い、紅朗は瞬間的に右方へと体をスライドさせた。
護衛の重心は紅朗の右肩に掛かっている。そしてやや前のめりの重心。紅朗の下にはテーブルがある事から仕方ないとは言え、その力の掛かり方は押さえ付けるのに適してはいない。特に紅朗の右肩を押さえているのが掌底だというのが大きな減点対象だ。
筋肉というのは、総じて瞬間的な衝撃に弱いもの。静止した物体を動かす事は容易くても、動いている物体を完全に静止させるのは難しい。何故なら人の体は、動くように出来ているのだから。自らの手を中空に浮かべ、完全に静止させようと試みようとも、それでも微かに動いている。微細に動いているのだ。それ程、人の体は静止に不向きで、可動に向いている。
紅朗の肩を押さえる護衛の左腕だってそれは同じ事だ。突っ張るよりも、肘を曲げる事の方が容易いのは、誰だろうと変わりは無い。ましてや、曲がりやすい方に瞬間的な力を加えて曲げようとしたのだ。これで曲がらない筈は無く、そして掌底のみで押さえたその左手は、いとも簡単に紅朗の右肩から離れていく。
あとは極められた右腕がこれ以上動かないよう、捩じるように右手の平を返して護衛の右手を掴めば良い。それだけで、護衛とテーブルに挟まれた紅朗の体は痛む事も無く、ずるりと脱出。鎮圧など受けなかったかのように容易く脱出した紅朗に、彼を押さえていた当人でもある護衛は目を見開いた。
「なっ……!?」
「押さえるんだったら真上から、面で。が鉄則だ」
護衛の驚愕を無視し、言うや否や紅朗は掴んだ護衛の右腕を引き、倒し、その背に足を乗せて加圧する。それだけで、まるで地面に縫い付けられたかのように護衛は動けなくなった。
身動ぎさえ出来ない。そんな現実離れした事実に直面した護衛の脳裏に過ぎるは、巨岩。少しでも四肢の力を緩めれば即座に押し潰されてしまうかのような負荷を感じた護衛は、全身の力を込めて負荷に抗い続けるしか出来ず、結果として彼は紅朗の足元から離れる事さえ出来なくなった。
そんな仲間を目にしたからだろうか、紅朗の頬を打ち抜いた護衛が紅朗に飛び掛かる。一挙動による俊足は確かに早く、ともすればガルゲルさえ見逃してしまいそうな程速い飛び込みは、しかし紅朗には届かなかった。
彼の拳より数瞬早く、紅朗の足刀が彼の喉を捉えたからだ。護衛の喉から「ぐぎゅり」と粘ついた吐息が上がれば、共に激しい痛みと嘔吐感がせり上がり、少しでも痛みから逃れようと無様にも床を転がりまわる。
「殴るんだったら頬より喉を狙え。当たれば嘔吐き、外れても牽制。クリーンヒットだと脳震盪まで付いてくる」
「おおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
喉を押さえながら転げ回る護衛に視線を落とす紅朗。その姿は隙だらけにも見え、その隙を突こうと、紅朗に足払いを仕掛けた護衛が横合いから紅朗の脇腹目掛けて蹴りを放ち、
「今から攻撃しますとでも言うような掛け声止めろよ恥ずかしい」
その軸足を紅朗が掬い上げるように刈り取った。足には足を、とでも言うかのように左の足首で。護衛の蹴りは紅朗の頭上を通り越し、蹴りの威力を殺す事も出来ず、軸足も奪われた護衛は必然的に仰向けで床へと叩き付けられる。
「足払いは骨を砕くように打ち下ろすか、体勢を殺すように掬い上げろ。ただ足を払っただけじゃ意味が薄い」
言うや否や、今迄踏みつけていた足元の護衛を、今先刻転がしたばかりの護衛の腹の上に蹴り移し、再度その背に足を下ろした。そして重なった護衛の二人は巨岩を幻視する。
護衛二人ともを押さえ付けるそれは、何も難しい技術では無い。人体とは、当たり前の話だが全て骨と肉と皮膚で繋がっているものだ。であれば、何処か一部だけ動かそうとしても、その動きの片鱗が肉体全てに伝播する。紅朗は、その片鱗を足の裏で察知して、動き出そうとした瞬間に自らの重心を移動させてその芽を潰しているだけだ。
人並み外れた洞察力は要らない。大型肉食動物染みた筋肉も要らない。ただ人並みの触感と筋力さえあれば、誰であろうと容易に修得出来る技術だ。
しかし、それを知るのと知らないのとでは、雲泥の差が生じる。今回はただそれだけの話であり、故にフレグ達にはどうしようもない話だった。
「さ、邪魔するぜ」
連れてこられた奴隷達の怯えた表情。ガルゲルに刃を向けた護衛とフレグの困惑した表情。そのどれもを紅朗は無視して、奥へと続く扉へ足を向けた。
「――ま、待て!!」
そんな紅朗の歩みを止めたのは、その場に居る誰よりも一足先に素面へと戻った、ガルゲルに刃を向けている護衛。彼は手元に居る交渉材料に気付き、刃を持つ手に一層力を込めて紅朗を睨む。
「それ以上動くんじゃねぇ!! こいつがどうなってもいいのか!!」
対して、脅し文句を告げられた紅朗は、一瞬だけ護衛とガルゲルをセットで見やり、
「そんな三下台詞、現実で初めて耳にしたわ。結構驚くもんだな」
直ぐに興味が失せたかのように扉へと顔を向けた。
人質が通じなかったという点においては予想外の護衛。しかし、紅朗は少しの間だけ振り返り、立ち止まったのだ。それだけの間があれば充分。紅朗に押さえられていた護衛達が体勢を整えるには充分だった。
商館の奥へと続く扉へ意識と視線を向ける紅朗の後ろ姿へ、取り押さえられていた護衛二人が一挙動で襲い掛かる。二人の手には刃が握られており、白刃による刺殺も視野に入れた、本気の行動。紅朗の動きをその身で感じ取った二人には、もう先程までの侮りは無い。一角の実力者と見て彼らは動いたのだ。
だがそれでも、その牙は紅朗に届かない。
さながら背中に眼があるかのように護衛達の動きを察知した紅朗は、その身体をずらして回転。一思いに刺し殺そうと襲撃した護衛達は紅朗の急な旋回に反応出来ず、紅朗の横を素通りしてしまった。丁度、紅朗と扉の間に割り込むように。そんな彼らの背中へ向けて、紅朗は旋回の勢いを殺さずに蹴り込んだ。
ドガァッ! と扉へ激突する護衛二人。押し開きである事がいけなかったのか、扉はその勢いを受け止めきる事叶わず、紅朗を招き入れるかのように商館の奥へと続く道を開いてしまう。
その道を、紅朗は護衛達を跨いで進んだ。
「うむ。ご苦労」
と、大上段からの言葉を落としつつ、紅朗の脚は自然と商館の奥へと向かう。そこに躊躇は無く、迷いも無い。背後の空間でガルゲルが再起動を果たそうとも、フレグが急いで追いかけてくる音が聞こえようとも、紅朗は進んでいく。向かう先は解らなくとも、向かうべき道筋は紅朗の鼻が嗅ぎ取っていた。周囲に漂う微かな香り。己の食欲を刺激する美味なる残り香を嗅ぎ分けながら、紅朗は迷う事無く突き進んだ。
道中に点在する幾つかの扉を無視し、再び襲い掛かってきた護衛の凶刃を避けて階段を上り、荒々しい音に呼ばれた使用人や奴隷や従業員を尻目に角を曲がり、背後の喧騒も周囲の騒然も意に介さず。
やがて紅朗は吸い寄せられたかのように、一つの扉の前で足を止めた。否、事実彼は吸い寄せられていた。引き寄せられていた。誘い導かれていた。商館の中に漂う残り香を、もっと強く。もっと強く、と。香りが強くなる方向を嗅ぎ分け、引き寄せられたからこそ、今彼は扉の前にいるのだ。
これまで商館の中で見てきた扉とまるで変わらない、何の変哲も無い扉。木造の、少し頑丈そうな、飾り気の無い扉。しかしその扉の隙間からは、なんとも言えない艶やかな香りが立ち込めていた。例えるのならば、焼き立てのベーグルか、あるいはメープルか。木材の香りと花蜜の香りが混ざったかのような、香気と甘味が同時に感じられる芳潤な香りが紅朗の鼻腔を満たしていた。
香りだけで満たされそうになった紅朗を次に支配するのは、暴力的な食欲だ。突き動かされるように紅朗はドアノブを掴み、毟るように扉を開く。
そして、其処に、ソレは居た。
部屋の角で膝を抱えながら、驚いたように……あるいは怯えるように紅朗を凝視する少女が、其処に居た。背中の中程までに伸ばされた色素の薄い金髪を緩やかに下ろし、その髪の下で驚愕により大きく見開かれた瞳はアメシストのような紫色。瞳の横、側頭部から突出した長い耳。そして何より、抱えた膝も腕も、耳も顔も、雪花石膏のように白い肌。全体的に色素の薄い少女が其処に居た。
そんな少女を前にして、紅朗は動かなかった。否、動けなかった。背後から羽交い締めにしてくるガルゲルや護衛達による束縛からでは決して無い。むしろ彼らからしてみても、今の紅朗はまるで岩のようだと思っている事だろう。
驚愕を露わにする少女を前にして、紅朗もまた、驚愕により身を硬直させていたのだから。
紅朗が思うのは唯一つ。眼前に居るのは、余りにも色素の薄い少女。にも関わらず、部屋に満たされたこの芳醇な香りはどうした事か。
想像してみて欲しい。自身が三日程何も食べていない状態だったとして、空腹も空腹。飢餓も飢餓。胃液が胃自体を溶かしている感覚を得られるような状態だったとして。部屋の扉を開けたら一週間では到底食べきれない程の料理が並べられていたとしたら、どうなるか。恐らく殆どの人間は、今の紅朗のような状態になるのでは無かろうか。
そしてそんな状態の人間が次に出る行動は決まりきっている。食欲の奴隷と成って暴食するのだ。
「こ、れだ……」
――欲しい。
と、脳が訴える。
「コレ、だ……」
――欲しい。
と、胃が叫ぶ。
「コイツだッ!」
――欲しい!
と、全身全霊が絶叫を上げる。
「これだ!! コレだ!! コイツをくれ!! コレが……っ、コイツが欲しい!! 俺に売ってくれ!! なんでもする!! なんだって払う!! 何を犠牲にしてでもっ、オマエが、欲しいッ!!」
脳が、胃が、腹が、腕が、足が、口が、歯が、舌が、喉が。紅朗の全身全霊が、眼前の少女を貪ろうと蠢いた。ガルゲル達が押さえていなければ、今すぐにでも食らい付いていたかもしれない。そう思ってしまうぐらいに、紅朗は色素の薄い少女を求めていた。
「うおおッ!! テメェ、こんな細っこい体でどんなパワーしてんだっ!! 落ち着け!! 落ち着けって!!」
「やっと見つけた!! オマエだ!! オマエなんだ!! 俺を満たせるのは、オマエだ!!」
ガルゲルと護衛達三人。計四人がかりでどうにか紅朗を地面に組み伏せ、それでようやく紅朗の前進が止まる始末だ。止まったと言っても、前進が止まっただけであって、紅朗の足掻きが止まった訳では無い。少女との距離を少しでも縮めようと蠢き、手を伸ばし続けている。その様子と形相に、色素の薄い少女の顔は恐怖で引き攣っていた。もう少しで失神するんじゃないかとガルゲルが心配する程だ。
「……ていうか、あれ? コイツ、もしかして……アルテリア?」
「いやぁ、見つかってしまいましたか」
少女の種族に当てを付けたガルゲルの後方から、フレグが顔を覗かせる。ガルゲル達よりも遅れて来たのは、決して肉体労働に向いていないだろう体躯が原因では無い。彼はセイムダート奴隷商館の支配人。我が物顔で突き進んだ紅朗の火消し……というよりも、恐慌的な騒ぎを治める為に、他の従業員達に指示を出していたのだ。現に、廊下の向こう側へ向けてフレグが手を振っている。ガルゲルからは見えないが、恐らくその向こうには従業員なり奴隷なりが恐る恐る顔を覗かせているのだろう。
「……一応後学の為に聞きたいのですけれど、どうしてこの少女が此処に居る事が解ったのでしょう」
「匂いだッ!! コイツからッ、スゲェ美味そうな匂いがする!!」
「……そんなに匂いますかねぇ? 毎日入浴はさせている筈ですけど……」
紅朗から一定の距離を取りつつの質疑応答に、フレグは首を傾げて鼻を鳴らす。当然、紅朗の言うような美味そうな匂いをフレグは感じないので、疑問は深まるばかりだ。
「なぁおい、フレグさんよ。コイツはアレだろ? アルテリアってヤツだろ?」
「えぇまぁ、そうですよ。なんでも魔力量が異常に高い事から両親に酷く嫌われていたらしく、たまたま我々の買取人が村の近くを通った時に売られたのだとか。それだけで嫌うなんて、酷い両親も居るものですねぇ」
「はぁー……。俺、アルテリアって初めて見たわ……」
言うなれば古くから伝わる村の掟、みたいなものらしいからフレグも強くは言えないが、一般的な感情ぐらいは吐露しても構わないだろう。例えば、双子が生まれたら片方を殺すか放逐しろ、とか。アルテリアにとって異常な魔力量を持って産まれた子供は、そういうものの類に該当するのかもしれない。
因みにアルテリアを奴隷として売る事は、法に触れてはいない。崇拝したり敬愛したり、あまつさえ神聖視する者が居る事は確かだが、個人的感情と国家法律とは別なのだ。
そんな背景を匂わせるフレグの台詞だが、ガルゲルは少し気になる台詞があった。別にデメリットが発生するような疑問でも無いので率直にぶつける事としたガルゲルは、紅朗を押さえつけながらフレグに向きなおす。
「ん? 魔力量が高いのに、なんでさっきコイツを出さなかったんだ? そうしたらコイツが暴れる事も無かっただろうに」
「いやぁ、この子は最近此処に来たんですよ」
後頭部を掻きながらガルゲルの疑問に応えるフレグは、ガルゲルにも解る程に少しばかりの苦笑を滲ませた。
「まだこの子には何の教育も施していないので、我々の商売観点から見れば、商品に成っていない子なんです。流石にそんな子を、「我々の商品です」と胸張って売りには出せませんよ。此処に居るのは搬送途中でして。近々、王都の本店に移してちゃんとした教育を受けさせる予定だったんです」
返ってきた答えに、ガルゲルは「うへぁ」と顔を歪ませ紅朗を見やる。フレグの言う通りであれば、アルテリアの彼女が此処に居るのは、少しばかりの滞在でしか無かったのだ。もしかしたら明日にでも搬送するかもしれないし、そうであればこうして紅朗に勘付かれる事も無かっただろう。
「……そいつぁ、最悪のタイミングだったな」
「そのようで」
談笑、とまでは行かない。双方のタイミングが重なっただけの、不幸な事故にも似た結果に、ガルゲルとフレグは濁った笑顔を浮かべ合う。
しかし、そんな雰囲気を許さない者が居る事を忘れてはいないだろうか。
「……ンンンな事ァどォでも良ィンじゃァッッ!!」
グァバァッ!! と諸手を挙げて立ち上がり、ガルゲルも護衛達も背中から振り落とす紅朗。ビクつく少女から視線を外した紅朗は振り返ってフレグを睨み付け、背後の少女を指して一言。
「コイツを売ってくれ」
「売り物では無いのですが」
「コイツを売ってくれ」
「いや、ですから……」
一言発する毎に紅朗はフレグへと近寄り、遂にはフレグの両肩をガシリと掴む。
「コイツを、売ってくれ」
瞳に狂気を宿して詰め寄る紅朗。それもそうだ。紅朗にとっては正に死活問題なのだから、正に命懸けの懇願だろう。紅朗の背景を知らないフレグでも、表情と言葉の力強さから何かを感じ取らざるを得なかった。もしくは、ここで断ったら本当の意味で暴れ始めるかもしれないという危機感も感じたのかもしれない。フレグの感性ではゴネ得という言葉は嫌いなのだが、紅朗はちゃんとしかるべき代金を払うと言っているのだ。そこまで考え、あるいはそれ以上にメリットとデメリットを算出し――
「……仕方ありませんね」
最終的に、フレグは折れた。
しかしタダでは折れない。それはセイムダート奴隷商館ロレインカム支部支配人としての矜持。明るくなった紅朗の眼前に、ピ、と指を立てる。
「ただし。未教育者を高く売る事は出来ないので低価格とは成りますが、しかし今回の件で我々の受けた精神的被害は決して安くは成りません。未教育奴隷の価格プラス、我々の精神的または物理的被害額の合計。しめて金板十枚になります。これはびた一文負けません」
「買ったああああああああ!!!」
たかだか一千万円で向こう何年も腹いっぱい美味い飯が食えるのなら、それぐらい紅朗なら何て事は無い。今感じてる飢餓をこれからも経験し続けるぐらいなら、個人だろうと村単位だろうと町単位だろうと、あるいは国単位であろうと、潰す事に否やは無い。
それ程の意気込みで、紅朗はフレグと契約を交わす。例えそれがどんな結末を描こうとも、きっと紅朗に悔いは無い。
最後までタイトルで悩みました。誤字脱字がありましたらどうぞご報告をお願いいたします。
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