接近遭遇討伐驚愕
すいません。ちょいと遅れました。
――ゴブリン。
それはヨーロッパを中心とした民間伝承に記された空想上の生物の名前であり、使いやすい設定だったのかは知らないが様々な娯楽小説に登場し、ついには大作RPGにまで出演を果たして世界中にその姿と名前を知れ渡らせる事になったキャラクターの一つである。そういった事実は紅朗も知っている事だった。
伝承では悪い妖精だったり醜い幽霊だったり、はたまた悪戯好きの小人だったりと様々な顔を見せるゴブリン。とどのつまり、要約してしまえば『ゴブリンとは悪である』という事だ。中には友好的存在として描かれる事もあるが、しかし圧倒的に悪として描かれているのが多いのも事実。特徴は小さな体躯に緑の肌。そして人間的観点からなのか、醜いと言われる姿。
そう、今紅朗達の目の前に立つ集団と同じ特徴を持っていた。
そして紅朗の持つ知識上のゴブリンと、狐兎族姉妹が認識しているゴブリンはほぼ同一のものであると考えられる。眼前の集団は討伐対象であると、テーラ達が臨戦態勢を解かない事から見てもそれは明白だろう。ゴブリンとは、【悪】なのだ。そういう一つの統一見解を紅朗達は抱いていた。
しかし――、どうだろうか。この、余りにも挙動不審なゴブリン達の狼狽えようは。
「gya,gyagyagya!!」「giiii---!?」「gegegegegegegege...」
等々。眼前に立つ五匹のゴブリン達は、何を喋っているか解らないが、とてもとても狼狽えているのが手に取るように解ってしまえる程、手を振り回し首を振り回し、身振り手振りで味方に喚いていた。
背丈は大体90cm前後。上半身は裸で、下半身は藪にでも引っかけたのかボロボロにほつれてしまっている、ズボンの出来損ないのような物一つ。とは言え、ある程度の文明は持っているのか、手袋や靴はしっかりした革で作られているように見受けられるし、腰からぶら下げた刀や背負う斧はどう見ても金属だ。
それらが五匹。一匹を真ん中に据えて、さながら四方を護るように囲っている。囲いながら狼狽えている。身に着けた武装を構えもせず。
はてさて。ゴブリンが悪であると言われているのは紅朗の知識的に確かではあるが、目に見えて脅威に映らない存在に対し紅朗は珍しく手をこまねいていた。本当に問答無用で倒していいのか? と。
ちらりと隣を見てみれば、テーラとソーラは油断も隙も無くゴブリン達に鋭い視線を送っている。剣も斧も抜いてない狼狽しきりの小人に向かって。これらがこの世界の定理として正しい姿なら、余りにもシュールである。時間が経つ度に毒気が抜かれていく己の心と体を、紅朗はまるで他人事のように感じ始めていた。
だからだろうか、余計な事を口にしてしまうのは。
「ていうかゴブリンって名称、悪意があるよな」
ゴブリンだぜ? ゴブ・りんだぜ? 容姿に反して可愛い名前じゃねぇの。世界的に有名なスライム状のマスコットキャラクターにも○○りん、なんて名前が付けられているんだぜ? まぁ前言の通りスライムの事なんだけれど。と、紅朗は大分気が抜かれたのか、ふと思った事を口にするも、返ってきたのは狐兎族姉妹の鋭い視線だった。
「馬鹿な事言わないで。相手はゴブリンなのよ」
「そうだな。ゴブ・りん☆だな」
ソーラが後ろに下がりながら矢を番えつつ、紅朗に苦言を呈す。その行動に合わせたのか、あるいはこれが彼女らの基本的な陣形なのだろう。テーラが前に出て剣を抜いた。
「で、何。ゴブリンってそんな厄介なの?」
「女の敵よ」
短く答えるソーラ。その口調からはどうしようもない敵意が滲んでおり、どうにもゴブリンとソーラ達には相容れない何かがあるようだ。だが実生活でゴブリンの脅威を身近に感じるソーラ達と違い、伝承などの文献やテレビゲームでさわり程度にしか触れた事の無い紅朗にとってみれば、ゴブリンとはそこまで毛嫌いする程のものだろうかと疑問視せざるを得なかった。
彼が知るゴブリンを毛嫌いされる理由とすれば、精々がゴブリン側のちょっとした悪戯心で、結果人の命を奪う事ぐらい。災難に見舞われた人の家族や恋人達にとってすれば敵と言えるだろうけれども、それと女の敵と言う言葉を結びつける事は少しばかり無理があるだろう。
「……どういう事だ?」
「ゴブリンってのは、種族的に雄しか産まれない。だから集落を襲って女を攫い、その女に自分達の子供を産ませて繁殖するんだ」
つまり、凌辱。女を辱める事を種族繁栄の道に組み込まれた醜い化け物。そんな背景があるからこそテーラとソーラはゴブリンを憎み、だからこそ女の敵だと彼女らは言う。
――成程。合点がいった。と紅朗はすっきりした思いで頷いたが、それでも紅朗はやる気が上がらない。というのも、合点がいったのはテーラ達の言い分にであって、ゴブリンに関しての事じゃない。そもそもの話、それは生物的に遺伝的に有り得なく、有り得たとしても、であればゴブリンという種族がまだ存在している事自体が有り得ないのだから。
「いや、それはおかしい」
「はぁ? なにがおかしいのよ!」
「仮に集落を襲ったのが事実だとして、女を攫ったのが事実だとして……テーラの言う事全てが事実だったとしたら、ゴブリンという種族そのものが今現在まで続いている筈が無い」
ゴブリンが他種族の女を孕ませて、自らの子供を産ませる。それは良いだろう。遺伝学的にゴブリンの遺伝子と他種族の遺伝子がくっつくのかという疑問もあるが、それを無視して、有り得るとして考えてみよう。そうやって子々孫々、他種族を凌辱して繁殖していったとしよう。
そうした場合、ゴブリンの遺伝子は世代を重ねる毎に薄まっていき、ついにはゴブリンという種族がこの世から消滅する筈だ。否、消滅しなければならない。
例えば――、前提条件をテーラの話の通りに仮定して、【ゴブリンは雄しかいない】【他種族の雌に自分の子供を産ませる】として。眼前に立つ五体のゴブリン達の武器や手袋、靴等から考察出来る推測――、一定以上の文化を育成、発展出来得る期間……言い換えるのならば世代を経たとするのならば。
それらを踏まえた例え話、テーラがゴブリンの子を成したとしよう。産まれてくる子供はテーラの種族、狐兎族の血を宿したゴブリンだ。【狐兎族の血を宿したゴブリン】なのか【ゴブリンの血を宿した狐兎族】になるのかは定かでは無いが、まず間違いなくゴブリンと狐兎族、両方の遺伝を宿した個体になる。ではその個体が成長し、新たな苗床を確保して産ませた子の遺伝子はどうなるのだろうか。
単純に、極々簡潔に。専門家に見られたら「遺伝学を馬鹿にしてんのか」と言われてしまう程に単純化して考えてみれば、ゴブリンと狐兎族の血を持つ個体の遺伝子はゴブリン50%の狐兎族50%だろう。そしてその個体の遺伝子を用いて新たな子を産ませた場合、第二世代ともいうべき子の遺伝子はゴブリン33%狐兎族33%他種族33%の1%余りとなる。この余分な1%は、三つの遺伝子の中へ適当に割り振ったとして考えよう。どうせ端数だ。重要では無い。
はてさてつまり、世代を重ねる毎にゴブリンの遺伝子は薄まっていく訳だ。そこから考えられる未来は、ゴブリンという種族の消滅だけだろう。実はゴブリンというのは雌雄同体で、虫が草に卵を植え付けるのと同じように、他種族の雌に卵を植え付けているのならば話は別だが。
「だから、ゴブリンが其処に居る以上、お前の理屈は間違っている」
勿論、今紅朗が言い出した理論にも穴はあるし、そもそも前提条件どころか実はまるで別の生態系をゴブリンが持っている可能性だって無い訳では無い。今紅朗が立っている所は、地球では考えられない技術が認知されている世界だ。何が正解で何が間違っているのかなんて、神でも無い紅朗に知る由は無い。
それを自覚した上で、しかし紅朗はテーラ達に向かってきっぱりと否定した。
「え……。そ、そうなのソーラ?」
「――イデン、というのは解らないけれど、確かに異種族がゴブリンそのものを産み出す事は私も不可解に思っていたわ。けれどねクロウ。それでもギルドの公式見解がそう言っているの。魔術を知らなかった貴方の言う事を完全に信用するには、少しばかり説得力が足りないわ」
「だろうな。俺だって、俺の言っている事が全部正解だとは言わない。ゴブリンの生態系だってまるで知らん。だがギルドの公式見解が間違っているだろう事は断言しても良い。そう言い切れそうな物的証拠もあるしな」
ちらりと紅朗が視線を投げるのは、狼狽も落ち着いてきたゴブリン達五体。【匹】と呼ぶべきか【頭】と呼ぶべきか【体】と呼ぶべきか解らないが、彼らの体には今も尚、紅朗に確信させるだけの代物が付いているのだ。
「物的証拠……?」
「それは、どういう事かしら」
狐兎族姉妹も疑問を視線に乗せて訪ねてくる。だが、それを説明する時間は既に無い。
「まぁ、その件はおいおい。まずは先客をあしらおうぜ?」
「先――? ……ッ!」
紅朗の台詞にテーラ達は新たな疑問を感じ、すぐさま現状を思い出す。そういえば、気配は二つあったのだ、と。追う者と追われる者、二つの種族を彼女らは察知していたのだと。先行して現れたゴブリン達に気を取られ過ぎて忘れていたが、彼らが先に現れたとするならば彼らは追われていた方で、であれば追っていた方はといえば――
そこまで思い至ったテーラ達の前で、藪が揺れた。ゴブリン達は再度慌てふためき、紅朗達は再び腰を落として戦意を高める。ゴブリン達が現れたその後ろからの気配という事は、まず間違いなくゴブリン達を追っていた何かだろう。それが友好的勢力であれば得物の横取りを疑われないようこの場を離脱。しかし相手が敵対勢力であれば、と紅朗は足に力を込めた。
そんな紅朗の前に、藪から突き抜けて勢い良く現れたのは、二体の馬だった。
「――はあ?」
馬である。体高170cm前後の、毛色が白と黒のモノトーンカラーの馬。ともすればシマウマとも思ってしまえるぐらいな配色ではあるが、残念ながら縞模様では無い。白と黒の体毛で表されているその模様はまるで豹のようで、さながら子供の落書きのように黒い円が馬の体表面全体に所狭しと描かれていた。
それだけならばまだ良い。いや余り良くは無いかもしれないが、その体の模様に対する動揺は新種の未確認生物なのだと、地球の常識的見地を無理やり黙らせる事は可能だ。だが、その草食動物然とした顔や肉付きからは余り相応しくない物が垣間見えている。
牙と、爪だ。外敵を察知しやすいように眼球は顔の側面に位置しながらも、その口から生えている立派な牙はどうした事か。その歯は明らかに草を噛み千切るには適していない。その走るに適した足の先、蹄の物々しさはどういう事だ。地球的常識から言えば、馬の脚というのは人間で言うなれば四本の脚それぞれが中指一本で地面に立っているようなもの。であるからして蹄とは中指の爪一枚でしか無いのだ。にも関わらず、眼前のシマウマ擬きの蹄から猛獣の爪のように三本の棘が生えているのはどうした事か。
魔術と言い種族と言い言語と言い、地球的常識を悉く破り去ってくれるこの世界を、紅朗は中々に苦々しい面持ちで捉えていた。有り体に言ってしまえば先日から下降気味な印象が更に速度を増して嫌いになりかけていた。
「ッ! ヒョウモンゼブラッ!!」
ソーラの叫びと共に紅朗は気を引き締める。どうやらあのシマウマ擬きの名はヒョウモンゼブラと言うらしく、顔つきは草食動物っぽいが口周り等からして肉食のようだ。そしてゴブリン達を追っていたのはテーラの情報やゴブリンの反応からして、恐らくは捕食目的。性格は獰猛と見た方が良い。
となれば、敵対勢力か。と、紅朗は判断した。
そう判断してしまえば後は早い。肉付きからして俊足だろうその脚からは、最早逃げても追いつかれる可能性が高い上に、ヒョウモンゼブラの眼付はゴブリンに加え紅朗達をも捕食対象として捕捉していた。故に取る行動は迎撃一択。紅朗の脳は現状把握から戦闘モードへと切り替わり、敵の一挙手一投足も見逃さないよう集中しつつソーラに声を掛ける。
「ソーラ! あれの情報!!」
「あれはヒョウモンゼブラ! 酷く獰猛で何でも食べる雑食性、そして高い体力と脚力を下地にした速力で危険度はC! ボアウルフより危険度が低いとは言え、本来ならもっと北の方に生息しているのに……、やっぱり【齧り取る蛇】の影響!?」
言うや否や、やや困惑に彩られた声色ながらも、ソーラは自身の記憶を引っ張り出して紅朗へ返答する。だが最後に困惑の感情が色濃く出てしまったのは、見た目以上に狼狽えている証拠だろう。
「考察は後回しにしろ! あれぶっ殺したら幾らになる!?」
「肉が美味しくない上に爪も骨も内臓も利用価値が無いから、精々が一頭6銀板ぐらい!!」
「あヤッベ。約束の時間だから俺帰るわ」
「単価低いからってやる気無くすな馬鹿!!」
半ば以上本気の口調だった紅朗に対して吠えたソーラだが、彼女は彼女なりに功績を積んで登ったDランカー。紅朗に注意しながらもソーラは自らのやるべき事は見失っておらず、それは彼女の姉であるテーラにも言える事であった。
パーティーメンバーの応酬を尻目に、テーラはヒョウモンゼブラ二頭の内、一頭を標的と見定め、自らの機動力を活かして強襲を掛ける。ヒョウモンゼブラから見れば、ゴブリン達はまだしも新たな獲物である自分達の出現は寝耳に水でもあるだろう。であれば、仕掛けるのは今しかない。そう判断したからこその強襲。
一挙動で肉薄しつつ、テーラは剣での攻撃力を高める為に上半身を引き絞る。だがヒョウモンゼブラという野生の獣はテーラの動きに反応し、俊敏にテーラを捕捉して口を開く。肉に容易く食い込むだろう牙と合わせて、ヒョウモンゼブラの眼に自分が映るのを目視したテーラだが、最早勢いは止まらない。
自分は、好機を見誤ったのだ。来る激痛を覚悟の上で身を丸めたテーラの横を掠めるように、何かが通り過ぎた感覚を覚えたのは、その時だった。次いで耳に入る、ドスリという鈍い音。
矢だ。テーラの横を掠め、空を貫いてヒョウモンゼブラの頬に突き刺さったのは、一本の矢だった。後ろのソーラが敵の威勢を削ぐように射ってくれたのだ。背後を振り返る事もせずそう確信したテーラは、丸めた勢いを反転。内に向けていた己が肉体の勢いを外に向け、剣を一閃した。
テーラの刃が袈裟切りの形でヒョウモンゼブラの肉を割る。右の額から鼻筋を経由して左の頬骨まで、斜めにぱっくりと割れたヒョウモンゼブラの顔面から鮮血が噴き出した。
辺りに広がる赤い液体と鉄の香り。さながらそれが合図とでも言わんばかりに、暴力的な血臭に興奮したもう一頭のヒョウモンゼブラは、眼前の獲物、ゴブリンへと動き出す。口を大きく開き、得物を抑えつけんとばかりに前足を掲げ、己が牙と爪を持って緑の肌を蹂躙し、捕食せんと。
だがそれは隙だ。一般的に捕食とは、生物が大きく油断する瞬間の一つに挙げられる。ヒョウモンゼブラがゴブリンに噛み付こうとするその隙を、紅朗が見逃す筈が無かった。
更に言えば前足を掲げたヒョウモンゼブラは後ろ足で立つ姿勢となり、それは必然的に弱点となる腹を晒しているのと何も変わらないのである。そう、頑強な肋骨に守られていない――分厚い皮膚と脂肪、筋肉のみで覆っているだけの内臓部を晒している姿勢なのだ。
そんな箇所を、ボアウルフの頭部をカウンターでとは言え陥没させる程の足技を持つ男が蹴ればどうなるか。結果は言わずとも知れる。
「内臓貰ったァッ!!」
テーラに見せた倒れるような体捌きを持ってヒョウモンゼブラに肉薄した紅朗は、勢いそのままに前蹴りを放つ。ズドン!! とテーラ達の脳裏にボアウルフの記憶を呼び起こす音が産まれ――ヒョウモンゼブラの口から大量の血が飛び出した。
テーラに袈裟切りされたような鮮血とは違う、濁り、粘ついた血だ。空気も混ざっているのか泡立ってもいる。それも当然だ。その血は、内臓破裂を要因とした血なのだから。
もう一頭のヒョウモンゼブラと戦っているテーラには見えていないが、後方支援担当のソーラは音の発生源を見て納得した。ヒョウモンゼブラの腹に紅朗の足が埋まっているのだ。それも爪先から足首までを、腹周辺の肉を巻き込んで捻じ込んで。所々裂傷を起こしながら。そんな風に減り込んでいたら、そりゃあ内臓の一つや二つは破裂し、逃げ場の無い血液は体内の大きな管を通って噴出するだろう。その証拠に、濁った血液は上からだけでなく、下からも漏れ出していた。
加えて、内臓破裂というのは例えようも無い激痛を伴う。その痛みのみで死に至らしめる程の激痛だ。それはヒョウモンゼブラも例外では無かったようで、意識の無くなった肉の塊は不安定にぐらりと揺れ、少々の地響きと土煙を上げて倒れ伏した。
まさか一撃で終わるとは……とでも言いたげなゴブリン達の目線が集まる中、紅朗はトドメと称してヒョウモンゼブラの首を捻り折り、脊髄反射で痙攣するヒョウモンゼブラを座布団にテーラの戦いを観戦し始めた。
「がんばー」
「終わったんだったら手伝ってくれても良いんじゃないの!?」
「嫌ァだよ。腹減ったし。ソーラが居るから大丈夫だろ」
「パーティーを組んでる者としてもうちょいさぁ!!」
「ほらほら余所見すんな。ダイジョブジョブジョブ。対人と違って頭使わねーから楽だって」
手負いになり、更に獰猛化したヒョウモンゼブラと苦闘するテーラ。両者とも素早い動きを得意としているからか機動力に重きを置いた闘いとなり、後方支援のソーラはなんとも手が出し難い状況となっていた。そんな光景をへらへらと眺める紅朗。
別に、彼は楽観視している訳じゃない。確かにヒョウモンゼブラの危険度はCランクで、Dランカーであるテーラとソーラよりは上なのかもしれない。だが紅朗の見立てでは実力的にどっこいどっこいだ。というよりも、協力出来る狐兎族姉妹の方が大分勝ち目が高い。そこまで危険性は高くないだろうと判断したが故の傍観であった。
そして何よりも、直ぐに動ける見張り役も必要だろう。と、紅朗はゴブリン達全員を視界の端に入れながら口角を歪める。彼らは未だ、好敵どちらに転ぶか解らないのだから。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲
その後、まぁまぁの時間をかけてテーラとソーラはヒョウモンゼブラを討伐した。因みにヒョウモンゼブラの死因は失血死である。弁慶かハリネズミかと言わんばかりに矢を受け、数十か所を切り刻まれたのだ。結果は当然の結末であるし、むしろ良く逃げもせず戦ったものだと紅朗は尊敬の念さえ抱いていた。無論、紅朗の感情の矛先は仲間であるテーラ達では無く、ヒョウモンゼブラである事は言うまでもない。
それは兎も角、紅朗達の闘いはまだ終わったとは言えない状況だった。ヒョウモンゼブラは無事に討伐出来たのだが、もう一つの問題であるゴブリン達はどうするべきかとか紅朗達は顔を見合わせ、揃ってゴブリン達に目を向ける。対するゴブリン達は、自分達を追いかけていたヒョウモンゼブラを易々と討伐してみせた紅朗を筆頭とした戦力に恐れを抱いているのか、怯えた表情を浮かべて五体一塊で紅朗達を警戒していた。
「で、こいつらどうする?」
膠着状態だった現状を最初に破ったのは、紅朗。ヒョウモンゼブラを倒して一息ついたにも関わらず、動こうとしないテーラ達をせっつくような発言だった。
「どうするって、言われても……」
「結局、敵なのかどうかさえ解らないし……。あ、そういえばクロウ、さっき言いかけていた物的証拠というのは……?」
せっついて出てきた態度はどうにも煮え切らなく、テーラ達にしてみればどう処理すれば良いのか、という所なのだろう。女の敵だと思っていたら紅朗に否定され、では敵かと言えばゴブリン達は未だ怯えており、襲ってくる気配は無い。だからといって人に好意的な種族だとは思えないし、このまま放置も冒険者としてどうかと思う。
そんな微妙なラインで頭を悩ませていたソーラはふと、ヒョウモンゼブラが現れる直前の会話を思い出して紅朗に顔を向けた。ソーラの視線と共に疑問の矛先を向けられた紅朗は彼女が何を言い出したかを明確に悟り、口を開く。
「なに、単純な話だ。手袋と靴、それとズタボロながらズボンらしき物を身に着けている事だ。おまけで武器もそれに入るだろう」
「はぁ!? そんな事で!?」
紅朗の台詞が余程意外だったのだろう、テーラが驚きを露わにした。その口調に非難の色が無い事から、恐らくテーラは紅朗の意図にまるで気付いていない。妹であるソーラは顎に指を添えて考え始めたと言うのに。というのも、少し考えれば解る話だ。
「そんな事と言うがな。手袋や靴を履く意味は何だ? 下半身に履物を身に着ける意図はどこにある」
それはどちらも防護という、当然の意図を持って作成されたものだ。しかしただ防護のためであれば布を巻き付けるだけでも事足りる。にも関わらずゴブリン達は糸をより合わせて布を作成し、布を繋ぎ合わせてズボンの出来損ないのような履物を完成させた。それだけでも確かな知能を有していなければ作る事さえ出来ないのに、そこへ更に手袋と靴――つまり革の加工までやってのけている。
ただ巻き付ければ良いだけの代物を、何度も頭を悩ませ創意工夫を重ね、トライ&エラーを繰り返して今の形に持ってきているのだ。
「そんなもん、知恵を持った生物じゃねぇと出来ねぇ事だろうが」
勿論、ゴブリン達が何処かの行商人から買い付けたとか、あるいは冒険者から奪ったか落としたものを拾ったか、という考え方もあるだろうが、紅朗はそれを否定する。
ソーラの言い分を信じるのならば、何処かで購入したという可能性はまず無い。危険生物だと認知されているゴブリンに、わざわざ商品を売る奇特な文明人はいないだろう。
奪ったか拾ったかにしたって、ゴブリン達五体の手袋や靴は、材質から造りから似すぎているのでそれも無い。
自らの種族に造り手がいると考えた方が妥当だ。
「さて、それを踏まえて当初の問題に戻ろう。ソーラとテーラはゴブリンが他種族の雌を凌辱すると言うが……、自らを防護する装備品を造り出した、そんな思考能力を持った知的生命体が、果たして他種族を凌辱しようと思うだろうか」
そこまで思慮を巡らせる事が出来る生物が、果たして危険を冒してまで他種族を抱こうと思うだろうか。
そこまで思考能力があるのなら、ゴブリンはゴブリンなりの美醜判断箇所がある可能性だって存在するし、そこまで言わなくとも明らかに姿形の違う、どう見てもDNAの違う異形の体に、果たして劣情を覚えるのだろうか。
人が猿に欲情しないように、ゴブリンもそうである可能性は存在するのだから。
それが紅朗にとってどうしても引っ掛かる事であり、ソーラとテーラの言い分をどうしても鵜呑みに出来ない事であった。
無論、紅朗だって地球人類60億の中に、多少なりとも獣姦主義者がいるのは知っている。羊や犬や虎や馬に劣情を催す人間だって存在するというのは聞いた事がある。しかしそれは極少数だ。百人に満たないかもしれない程の少数だ。ざっと計算して六千万分の一。そんなものいないのと同じである。
一般常識として、動物園に行って全裸の猿を見て、あるいは猿回しの舞台の上で着飾った猿を見て、観客は欲情するだろうか。言語の通じない、自分達を害する力を保有する自分達とは違う形の生き物を。普通に考えてそんな事は有り得ない。人類はそこまでトチ狂っちゃいない。少なくとも一般人として生まれ育った紅朗の知る範囲では。
他にも同じ話はいくつかある。地球上には肌の色だけでも白人、黒人、黄色人と異なる三タイプあるのだ。今でこそグローバル化が進み、それらは肌の色が異なるだけで、皆同じ人間種なのだという教育が進んだ。結果、国際結婚も珍しくは無い程にはなってきたが、しかし昔はどうだ。
言語の通じない色素の薄い人型の生物を、果たして鎖国中の日本人は同じ人間と見て恋をしただろうか。
言語の通じない色素が濃い人型の生物を、果たして戦国時代の右大臣の下で働いていた武士達は同じ人間として見ていただろうか。
そんな歴史を持つ国で育った紅朗は断言する。ゴブリンが他種族の雌を襲う? 有り得ない。ナンセンスだ。今でこそ人間同士と判明しているものの、地球の一昔前では違っていたのだ。肌の色だけでそうなのに、ゴブリンと他種族という、姿形のまるで違う異種族がそうなる筈が無い。ライオンはシマウマに発情はしないし、ワニがタカに恋する事など有り得ないのだ。
肌の色が違う、角が生え牙を持った小さな者が、角も牙も無い、ましてや獣同然の特徴を持った大きな者を性的な目で見れるだろうか。
紅朗の感性で言わせてもらうのなら、答えは否である。
「――と、いうのが俺の持論なんだが、どうだろう」
「そ、それは……」
「……」
口籠るテーラ。未だ考え込むソーラ。
考えるのは大事な事だ。思考というのは人類に許された最大の武器なのだから。だが事はそこまで深刻なものじゃない。悩む二人を面白そうに眺めていた紅朗の内で、秒数が経過する毎に焦りが肥大していく。よもやまさか五秒経過しても喋らなくなるとは紅朗も思っていなかったのだ。
適当に反論しただけの持論だ。その場で適当に返されて適当に場を締めれば良いと思っていた。なのにここまで真剣に悩むとは思っていなかった紅朗は、急いで軌道修正を図る。
「まぁ、ここまで言っといてなんだけど、仮に俺の持論が当たっていても、それと敵対生物である可能性は両立出来るんだけどね」
例えば、如何に服や装飾具を造れる知的生物であろうと、自らの縄張り外の生物を害さないかと言えばそうでは無い。ただ性の対象にしないだけで、世の中には慣習的に人を食う食人族もいれば、余所者と積極的に旺盛に関わりを断とうとする傍迷惑な部族もいるのだから。
「は!? ちょっと、それどういう事よ!!」
「どういう事も何も、知的生物が殺し合うのは何も珍しい事じゃないだろ」
こちとらワールドワイドで殺し合った実績がある。それでなくても狭い島国に住む同じ日本人同士、天下を取り合い殺し合った過去まであるのだ。知的生物同士殺し合うなんざ、今更珍しい事でも狼狽える事でも無い。そういう事もあるもんだと素直に受け入れ、相応の行動を取るだけだ。と、紅朗は抗議にも似た声を上げるテーラを無視し、相応の行動を取るべくソーラに顔を向けた。
「所で、ゴブリンの討伐報酬って一体幾らなんだ?」
「……だいたい銀貨三枚ぐらい」
「じゃあ放って帰ろうか。俺腹減ったし、まだ調べたい事あんだよね」
その単価の安さと、ヒョウモンゼブラから逃げる程度の力量ならば放っておいても問題は無い。そう判断を下した紅朗はヒョウモンゼブラの死骸から腰を上げ、ロレインカムへ戻る為に踵を返す。前提条件を壊しておいた今ならば、ゴブリンを女の敵と見ていたソーラとテーラも一言二言の文句のみで納得するだろう。
そんな時だった。
「お、お待ち頂きたい!!」
町へ戻ろうとする紅朗の背中に、第三者からの声が掛けられたのは。
第三者の声は男のそれだ。重低音と、少しばかりの擦過音。しかし今現在において、その場に存在するのは紅朗とテーラ、ソーラ。それとゴブリン達五体。言語の使えなかったゴブリン達を除けば、その場にいる男は紅朗のみである。
ではどういう事かと紅朗が振り返って見れば、そこに居たのは驚愕に眼を見開く狐兎族姉妹。その二人の視線が集まる先に、その第三者が居た。紅朗達と緑の肌を持つ者達の間に立ち、さながら懇願するかのように膝を折る者が。
「拙僧、この者らを預かるゴブーリと申す者!! 貴殿らを強き者として、どうかお頼み申し奉る!! どうか、どうか!!」
それはゴブリンだった。五体いる内の一体が前に出て、狼狽える四体を背に頭を下げていた。どうやら喋る事の出来る者は、眼前にて頭を下げているゴブーリという者のみらしく、後ろの四体はゲギャゲギャと喚き散らしている。
しかしなんだその時代錯誤だけでなく言葉の使い方をも微妙に間違っている口調は。と思っているのは紅朗だけのようで、狐兎族姉妹は未だ見開いた眼でゴブリンを見、震える指でゴブリンを指し、僅かに開いていた口を大きく開けて――
「「しゃ、喋ったああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」」
そう、草原に響き渡る程の大声を上げたのだった。
・ヒョウモンゼブラ
肉は大体が血生臭くて灰汁が強く、爪も骨も装飾具にする以外に使い道が無い、人々にとって利用価値の無い獣。更に言えば足が早い事で有名なヒョウモンゼブラは肉すら足が早い。割と直ぐに腐る。だから討伐して持って帰ってこられてもギルド的には得が無いので金も出したくないのだが、残念な事にヒョウモンゼブラは獰猛。放置した方が損害が出るので泣く泣く金を払って討伐してもらっている。北方ギルドの財政管理を承る部署は出来る事なら絶滅させたいと常々考えている。幸いな事はヒョウモンゼブラが北方にしか生息しない事である。