騎士との決闘
冒険者ギルド・ロレインカム支部。その施設の奥に通じる道を抜けると、そこに訓練場があった。言ってしまえば地球でいう所の体育館のような、テニスコート二枚分程のスペースを確保した総木造の場所。表のギルド支部と同じく天井が高く、一般的には二階部分であろう高さにしか窓の無い造り。日も暮れた訓練場の内部を照らす明かりは、表の街灯を松明状に加工したような灯篭が等間隔で壁に組み込まれていた。
訓練場と名が付くように、この施設は訓練する為に造られた施設であり、引退した冒険者や新人冒険者、あるいは怪我によって休業していた冒険者がリハビリ目的に使用する場所である。この訓練場はギルドに申請すれば、誰であろうと昼夜問わず何時でも使用する事が出来、実際つい先程まで使用者達による喧騒で賑わっていた。
今現在、水を打ったように静まっているのは、騎士団が訓練所の一部を占拠しているが故である。勿論、騎士団とて先客がいるのその場所を無闇矢鱈に占拠する程、愚かではない。ただロレインカム防衛騎士団の副団長が、一介の新人冒険者と決闘をするというのだ。こんな一大イベントを見逃す程、冒険者達も愚かでは無かった。
周囲が固唾を呑んで見守る中、渦中の二人が黙って向かい合う。
片方はブラウンの髪を短く切り揃えた、切れ長の瞳を冷徹に研ぎ澄ませる美しい女騎士、ロレインカム防衛騎士団副団長アマレロ・ボートウィン。
片方は五分程かけて意識を取り戻したものの、だらだらと歩いて訓練場に到着した、冒険者登録初日からCランク冒険者相手に金を毟り取った異例の男、Fランク冒険者クロウ。
この二人の決着を一目見ようと、祭り好きの荒くれ共が訓練場に集まって二人を遠巻きに囲んでいた。
しかし幾らイベント好きの荒くれ共と言えど、トトカルチョ……つまりは賭博行為はやっていないようだ。周囲を観察しながら、紅朗は溜息を吐く。もし賭博行為があったのなら、テーラに頼んで全額自分に賭けさせるつもりだったのだ。
「良い? アマレロ・ゴートウィンは冒険者ランクで言えばBランク相当の猛者よ。貴方が幾ら強くても、流石に一流の強者相手じゃ勝手がまるで違うわ」
紅朗を今立つ位置まで引っ張ってきたソーラが、そう耳打ちする。
確かに、紅朗が今まで倒してきたのは雑魚の山賊、Bランクに位置付けされているボアウルフとコーディス・ワームだけだ。その上、一対一で戦ったのはボアウルフという獣のみ。当然、戦い方などまるで違うものになるのは明らかだ。野性で培った動きと、利を持って修得した技術の違い。その差異がどれだけ違うものかをソーラは良く理解していた。
「なんだ。俺が負けると思ってんのか?」
「怪我しないようにと言ってるの。流石に腕とか斬り飛ばされたら、私の治癒術では治せないのよ?」
「そいつぁおっかねぇ」
その差異を知ってか知らずか、軽口を叩く紅朗。相手がBクラスだと知っても、その体に緊張の色は見られなかった。ソーラはこうして、紅朗越しにアマレロの対面に立つのも冷や汗が流れるというのに。
アマレロの瞳が、まるで一閃の斬り筋のように研ぎ澄まされていく感覚を、見る事無く肌で感じるソーラ。そのソーラの足元で、トン、と軽い音が鳴った。次いでトントン、と連続で続く。目線を落として見れば、その音源は紅朗の足だった。爪先で床を叩く音。自分のリズムを刻むように、あるいは足の筋肉を解す様に、紅朗は爪先を叩き鳴らす。
それが紅朗の戦闘準備だと気付いたソーラは、何も言わずに紅朗から身を離し、後方へ下がった。最早、何を言っても無駄だと理解したからだ。
ソーラの言葉に受け答えをしながら、紅朗の意識は既にアマレロにしか向いていない。ただ目の前の敵を倒す為だけに、紅朗は思考を加速させる。
――訓練場内部の明かりは良し。壁の角まで良く見える。床は木造だが、古びた道場のような感じはまるで無く、それこそ体育館のようなフローリングで踏み込みに対する強度は十分だろう。敵の武器は剣。袈裟切り、逆袈裟、突き、薙ぎ。全ての攻撃に反応出来るよう、爪先に重心を預け、膝を曲げ、上半身を数cm前に倒す。敵の下半身は馬。恐らく素早さに特化した体形だろう。だが完全に馬では無いため足も二本しかない。形状で判断するなら踏ん張りや安定性では俺に分があるな。そして先程、俺の奇襲を受けたから先手を取るように動く確率が濃厚。敵が取るだろう初動は恐らく……
「どうした。武器を取れ」
急に割り込んできたアマレロの言葉が紅朗の思考を分断する。どうやら彼女は、紅朗が無手でいる事に憤っているようだ。
「いや、要らんよ」
「何だと……」
自然と否定する紅朗。訝しむアマレロ。紅朗の思考の中に、そんなにも不思議な事なのだろうかという疑問が湧いてきた。
「武器とか防具ってのは、弱者の為のもんだろ?」
その発言は、訓練所内をざわつかせた。騎士団も冒険者も、その手には武器を持つ者ばかりなのだから。言わば紅朗は、たった一言で訓練場内の全てを敵に回したのだ。
中には憤慨して「ざけんなー!!」と。「何様のつもりだー!!」と野次を飛ばす者まで現れる始末。紅朗と対峙するアマレロも例外では無く、
「我々が、弱い……だと?」
余りにもな真向否定に頭が沸騰し、今にも斬りかからんばかりの気迫を醸し出していた。
「違ぇよ。あったま悪いなぁもう」
しかし紅朗はそれすら否定する。
「俺はお前らが弱いと言ったんじゃない。武器や防具を持つ行為そのものが弱者の発想だと言ってんだ」
「それとこれとの何が違う!!」
「だから弱いとは断言していないだろ。発想どころかオツム全体が貧弱なのか?」
これはもう確定だ。目の前に立つふざけた新人冒険者クロウは、我々を馬鹿にしているのだ。馬鹿にして、見下しているのだ。そう確信したアマレロは、憤慨が一回りして冷徹に剣を抜いた。
「そもそもさぁ。武器とか防具とか邪魔臭くねぇ? 刃物が幾らするか知ってんだろ? にも拘わらずなんだありゃ。高い金払って良く斬れるだけとか無駄の極みじゃねぇか。すぐ刃こぼれするし手入れしなけりゃ錆び付くし」
紅朗は拳を握り締め、アマレロに良く見えるよう眼前に掲げる。
「男の武器ってのはな、己の五体だけで充分なんだよ。女には解んねーかもしんねーけどよ」
「……そうか。ならば――死ね」
冷徹な頭が瞬時にアマレロの瞳を凍らせた。そして彼女は爆発的な速度で紅朗へと肉薄し、剣を振る。
――初動はやはり、突撃。
いきなりの開戦に間一髪で剣閃を避けられた紅朗だったが、それは決して紅朗の反射速度がアマレロのそれを上回ったからでは無い。アマレロの行動予想を的中させた事に加え、紅朗が体を動かせるよう事前準備していただけに他ならない。つまりしっかり避けた訳では無く、偶発的なものの積み重ねで避けられただけに過ぎなかった。意識を少しでも外していたら首が分断されていた。アマレロの攻撃は、それ程の鋭さを持った剣撃だった。
「はっはー。超速ぇ」
軽口を叩く紅朗ではあるが、その胸中は穏やかではない。
紅朗の予想通り、アマレロは紅朗による先の奇襲や様々な愚弄で初動に突撃を選んだ。そこまでは良い。そこまでは読んでいた紅朗ではあったが、しかし紅朗の予想を外れたものが一つあった。
アマレロの突撃の、異様な速度だ。
走り出してからトップスピードに至るまでの時間が異常に短かった。いや、無かったと言っても良い。踏み出した次の瞬間にはトップスピードに乗ったようでさえあった。だから紅朗は意表を突かれ、冷や汗を流して剣閃を避ける羽目になったのだ。
「避けたか。逃げ足だけは速いな」
「あんたの顔面蹴り飛ばしたように、足癖だけには自信があってね」
アマレロの額に青筋が走るのと同時、彼女の剣が再び閃く。袈裟、逆袈裟、返し、引き斬ってからの突き。どれもこれもが恐ろしく早く、紅朗の眼には剣身すら見えなかった。ただ一筋の剣閃に集中して、体を右へ左へしゃがみ飛んで、右往左往に避けて躱す。
見てる側からすれば危なげにアマレロの剣閃を避ける紅朗。その様に狐兎族の姉妹はハラハラと手に汗握り、騎士達はアマレロの勝利を確信。他の冒険者達は「行けー!」「やれー!」「そこだ、斬れー!!」「どうしたルーキー!!」と大盛り上がりで勝負の行方を騒ぎながら見守っていた。
その雑音は、しかし紅朗の耳には入っていない。アマレロが意識を研ぎ澄ませているように、紅朗もまたアマレロの動作に意識を研ぎ澄ましていた。
そんな紅朗に湧き上がる一つの疑問。それは、明らかにアマレロの速度が速過ぎる事だった。剣の一振りで剣身どころか腕まで見えなくなっている。それ程速く動けるのなら、どうして先の奇襲は成功した? 奇襲が成功出来る程にアマレロが油断しきっていた可能性もあるが、紅朗は己が内から湧き上がるもう一つの可能性に目を付けている。
アマレロは、明らかに先程とは様子が違っていたのだ。意識を研ぎ澄ませたからでは無い。冷徹な瞳の奥でマグマのように煮え滾る怒りを迸らせているからでも無い。それらとは余りにも違う、明らかな差異。紅朗の欲望を刺激する明確な異常。先程まで発していなかった【匂い】が、紅朗の思考を加速させる。
彼女、アマレロ・ゴートウィンの体からは、紅朗の食欲を刺激する匂いが放出されていた。例えるのならばそう、香り高いコーヒーのような。治癒術を使用した時のソーラとはまた違う、喉の奥を刺激する匂い。
「――そうか。魔術か」
紅朗がそれに気付き、呟いた言葉がアマレロに届いたのか、彼女は一度剣先を下ろして不敵に笑う。
「気付いたか。だが関係無い。私の魔術は、お前の速さを上回るのだからな!!」
宣言と同時に、アマレロの体が更に加速した。先ほどまでギリギリ躱していた紅朗だったが、ついに三回に一回は皮一枚避け損ねて鮮血が流れ始める。
紅朗にとって、魔術というのは未知の技術だ。それがどういう原理でどういう理論で発動しているのか見当も付かない。それでも匂いを辿って原因を推測する事は出来る。
先程から、アマレロの体臭にコーヒーの匂いが混ざり始めていた。その匂いが、恐らく魔術の匂い。アマレロの速度が上がると同時に匂いが強くなったので、その推測はほぼ間違いないだろう。魔術の勢いが強まると同時に、コーヒーに似た香りも強くなったのだから。速度と香りが比例しているのなら、関係性は火を見るよりも明らかだ。
そうした推測と彼女の動作を見る限り、彼女の魔術は十中八九【肉体強化】だと紅朗は睨む。
その名称が合っているのかどうか、そう表記するのか否かを紅朗は知らない。しかし名称は兎も角として、筋肉かあるいは神経のどちらかを強化しているのは間違いないだろう。避け続けていられる現状が、紅朗の推測を確固たるものにしていた。
「騎士団にて培われた精神と弛まぬ訓練が、今の私を造り上げている!! お前にこれが避けられるか!! 【超加速】!!」
アマレロのギアが一段上がった。同時にコーヒーに似た香りが更に立ち上る。しかしそこから先、紅朗の皮が斬られる事は無くなった。
腕が霞む程の速度で振り払われる剣。予想を裏切られ意表を突かれる程の脚力による加速。目で追えない剣を異常な速度で振り回されて、普通の者ならば避けていられる筈が無い。それでも紅朗が避け続けられるのは何故か。
アマレロの動作に無駄が多いからだ。
生物には、意識していなければ行動する際に必ず、【起こり】というものが生じる。腕を動かす際には、必ず肩の筋肉が伸縮する。前に向かって走る際には、必ず上体を沈める。そういった、人体の構成上必ず起こり得る予備動作を【起こり】と言う。
武道をある程度修得した人間ならばこの【起こり】という動作を極力無くすものではあるが、しかし眼前のアマレロは【起こり】を隠す事もしていなかった。きっと意識にも登っていないのだろう。故に紅朗は避けられているのである。
仮にアマレロの言う【超加速】とやらが時の流れを局地的に加速させるものだったり、自らの肉体を操り人形のようにするものであったならば、【起こり】が生じないか見えないかで、紅朗は決して避けられずに首を刎ねられて終わっていた事だろう。だが見えるという事は、それはアマレロの術が筋肉か神経かしか作用していない事になるのだ。
あるいはその憶測が外れているとしよう。それでも構わないと紅朗は思う。要は対処出来るか否かでしかなく、アマレロの術は対処出来る範疇にあるというだけの事だ。
「――なんだ。この程度か」
そして紅朗は理解した。この世界が、どれだけ遅れているのかを。
文化の事では無い。文明レベルとか魔術とかいう未知の技能による地球での差異とかは関係が無い。もっと原始的な事で、ただ絶望的なまでに、この世界は肉体への理解が遅れていた。【起こり】を隠せていない時点で、地球で学んだ紅朗とは比べ物にならない程に浅い理解度だ。
アマレロの剣によって風を分断する音が訓練場に響く中、ギャリィッ!! と異音が発生した。鉄と鉄を擦り合わせたかのような、不快な音。一回だけかと思えば、二度三度と、立て続けに異音は鳴り響く。
まず最初に気付いたのは、アマレロ以外の騎士達だった。勝利を確信して副団長を応援する騎士達だったが、彼らは一回目の異音で気付いてしまう。今まで体を右に左に動き、無様に逃げ回っていると嘲笑の的としていた紅朗が、その場から動かなくなった事に。次いでテーラとソーラ。そして盛り上がる冒険者達が気付き、その異常さに静まり返る。
紅朗がやっているのは単純な事だ。幸いにしてコーディス・ワーム討伐後、直ぐにギルドの中で管を巻いていた彼の足には、今朝購入した鉄製のレガースが装着されている。そのレガースで、器用にアマレロの剣を当てて逸らして流しているだけである。
しかしその単純な事がどれだけ難しい事かを荒くれ共は知っている。あるいは知らなくても見れば解る事だった。目で追い切れない剣を自らの脛に当てる胆力。その上で無傷で捌く技量。それらを確実に熟せるという絶対の自信。その三つを兼ね備えなければ、もしくは少しタイミングがずれただけで、バッサリと自分の足が斬り落とされてしまうのだ。数舜先の未来に恐れをなして、実行に移すのを躊躇ってしまう行動だろう。
無論、紅朗はアマレロの剣全てを捌いている訳では無い。避けきれないものだけを選んで捌き、それ以外は体を揺らして避けているだけである。周囲の冒険者には信じられない事ではあったが、【起こり】を見極める事さえ出来れば、この程度の芸当など紅朗にとっては訳も無い。故に彼は、無闇矢鱈に動き回る事を止めたのだ。
「――な、何故だ……」
ギャリギャリギャリギャリッ!! と。超加速して剣を振るうアマレロに対し、最低限のみの動きで紅朗が捌く。
「何故、私の剣が当たらない!!」
「未熟だからだ」
突如として掠りもしなくなった自らの剣。その事実に焦りが生まれたアマレロの思考は、紅朗の言葉に一刀両断された。
剣を振る動作。相手の隙を突こうとする動作。敵を一刀両断にするべき動きそのものが、どうしようもなく筋肉任せの動作だった。それでは斬れない。何千年、下手すりゃ何万年もの長い年月を積み重ね、連綿と受け継がれてきた肉体への深い智慧を背負う者として、高々筋肉任せの剣技。程度の低い未熟な剣で斬られる訳にはいかない。それだけの思いが紅朗にはある。
「未熟――未熟だと!? わた、私の剣が、未熟!?」
だがそれを知らないアマレロは、紅朗の言葉を受け入れられない。彼女は彼女なりに、厳しい訓練の果てに今の座に就いているのだ。女だてらに男の群れに飛び込み、女だなんだと舐められないよう周囲の男以上に訓練を重ねてきた。体格の良い男でさえも音を上げる厳しい訓練に付き合い、時には反吐を撒き散らしながら訓練に没頭した。
その過去を見ず知らずの男に、しかも自らが見下す一介の新人冒険者に否定されて、受け入れられる筈も無かった。
「冒険者如きが……。貧弱な男の分際で、私の剣を舐めるな!!」
アマレロの動きに苛烈さが増した。強靭な脚力で肉薄したアマレロはかち上げるように剣を振るうも、紅朗は右に体をずらすだけで彼女の剣を避ける。しかしアマレロは紅朗の動作を読んだように、ずれた体の隙を縫うようにして紅朗の後ろへ回った。そのまま、紅朗の頸椎目掛けて再び剣を振るう。
「どうしたよ。そんなに狼狽えて」
言葉が聞こえた時と同じくして、アマレロの視界から紅朗が消えた。急に目標が消えた事に驚くアマレロだが、周囲の冒険者達から見れば紅朗がやった事は単純明解。前屈するように上体を前に倒しただけなのだから。
そして紅朗は上体を倒した勢いを利用して後ろ足を跳ね上げる。確実に取ったと慢心し、しかし標的を失った事に驚愕したアマレロは、紅朗の足による下顎への直撃を許してしまった。骨と骨がぶつかるような鈍い音が響き、アマレロがたたらを踏む。それでも直ぐに紅朗の攻撃範囲から逃れるように動けるのは、日頃の訓練の賜物だろう。紅朗の背後から一挙動で離れたアマレロは、その顎に打ち込まれた不愉快な感触を拭うように腕で擦る。
「武器を持って、防具を着込んで、自分が強くなったとでも錯覚したか?」
だが離れたとて、紅朗の口撃範囲からは逃れられない。耳を持つ者、同じ言語を用いる者として、紅朗の言葉はじくじくとアマレロの心を苛むのだ。
だからこそその言葉は、火薬と化す。
「残念だったな。お前は弱い」
そして大火は火薬を飲み込んだ。紅朗が直々に、詰めに詰めた火薬が今、アマレロの憎悪という大火に飲み込まれて爆発した。内に籠った憎悪が爆発的に炎上し、彼女は己の激情に身を任せて突撃する。歯を食いしばり、絶対の殺意を乗せた視線を紅朗に向け、鬼の如き形相で走り出した。その速度は、同じ訓練を熟してきた騎士達から見ても、過去最速を弾き出す程の突進だ。
最早肉体が霞んでしまう程の速度。激情に身を焦がす刹那の間、しかしアマレロの耳に一つの言葉が届く。言葉すら挟めない程の速度と距離だ。紅朗とアマレロの間は見る間に凝縮され、空間毎圧縮されるように縮まっていく。そんな中で、アマレロは確かに聞いたのだ。紅朗の声を。
「馬鹿の一つ覚えみたいに突進突進突進。そんな簡単に激昂すんなよ底が知れるぞ」
唐突だが、【武術】とはなんなのだろうか。
格闘技では無い。武道でも無い。【武術】だ。紅朗はそれに対して、自分なりの答えを持っている。
武術とは、最終的には人殺しの為の技術だ。紅朗はそう確信している。矛を止める為だとか耳触りの良い万人受けする事をいけしゃあしゃあとほざく輩も居るが、武術という他人を害する技術は【自らを守る為に敵を殺す】という目的の下に生み出されたものだ。
つまり武術とは、【人の悪意を元に生み出されたもの】だと紅朗は断定する。
敵を倒す、ただそれだけに。敵を無力化する、ただそれだけに。敵を殺す、ただそれだけの為に。人が人を容易に殺傷出来るよう、研鑽と研究を積み重ね、繰り返し繰り返し、親から子へ、師から弟子へと受け継がれ、それでも尚飽きる事無く最適化に次ぐ最適化を追及してきたもの。それが武術の本質だ。人の悪意と敵意の結晶が膨大な歴史を重ねていったもの。それが武術の本性だ。
善も悪も関係無い。良いも悪いも介入出来ない。倒すか倒されるかという、現実の物理現象しか【武術】には存在しない。故に紅朗は、【武術】を選んだのだ。
「括目して見ろ。これが人の悪意の集大成だ」
肉体は一つの海だと想定しろ。筋肉は小魚の群れだと想像しろ。小魚の群れを、骨と言う名の潮で誘導しろ。外敵に襲われた小魚の群れが、ざぁっと一斉に方向を変えるように。それを骨という潮で後押しするように。
それが、肉体を動かす上で重要なイメージだ。動作を最適化する上での必要な智慧だ。それが欠けているお前らに、俺が負けていい理由が無い。
イメージするは小魚の群れ。左足の指先から順に上ってくるよう、足首を通し、膝で捻り上げ。頭部の重みを首の筋肉に乗せ、両手の指先から背筋に混ざり、全ての動きがロスする事無く股関節で合流して方向転換し、力が流れると同時にたたまれていた右足を開き、全身の力を右足の爪先へ。
激突の瞬間、爆発音が訓練場の内部を襲った。その場に居た全員の鼓膜を激しく揺さぶり、中には失神する者まで出る程の破裂音。その異常なまでの音響が、訓練場に集う全ての者に目を塞がせ体を縮めさせ、全方位からの衝撃から身を護る防御態勢を強制させた。
彼らがそれを確認したのは、頭痛を伴う程の激しい耳鳴りが治まってからだ。まず最初に見たのは、ポケットに手を入れて佇む新人冒険者クロウ。次に見たのは、紅朗の前で倒れたアマレロだった。彼女が振り回していた剣は彼女自身の手から離れ、紅朗の後方に突き刺さっている。
「倒、した……?」
テーラの声が訓練場に響き渡る。先程の爆発音とは比べ物にならない程の小さな声だったが、戦う者も居ない無音の訓練場に響き渡るには十分だった。
そう。テーラ達が視線を集中させるそこは、戦う者の居ない訓練場なのだ。紅朗は手をポケットに収めて佇み、対するアマレロは倒れて動く気配すら無い。唯一、闘いに使われた武器は紅朗の後ろに突き刺さり、そしてアマレロの胸部には穴が開いていた。騎士団所属を表す金属プレートの胸部に、拳程の穴が。
そこでようやっとテーラの台詞が浸透したように、冒険者達は理解する。紅朗の蹴りがさながらカウンターのようにアマレロの胸元へ叩き込まれ、鎧は内側に捲れ、中に着込んだ鎖帷子は弾け飛び、肌に裂傷を刻み付けた事を。その衝撃でアマレロが戦闘不能に陥った事を。
新人冒険者が、ロレインカム防衛騎士団の副団長を退けた事実を。
「重ねてきた歴史が違うんだよ、蛮族」
へらりと口角を上げて紅朗は言い放ち、それを勝利の宣言と見做したイベント好きの大衆が歓声を上げた。
――うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!
「すげぇぞルーキー!!」「よくやったああああ!!!」等々、大歓声が紅朗を包む。怒号にも似た歓声。ともすれば訓練場を内側から破壊せんばかりの大歓声の中、ただただ茫然と佇むテーラが思わず拳を強く握る。その拳に何が込められているのかは、まだ誰も知らない。
あらすじにも書きましたが、書き溜めが無くなってしまったので、溜まるまで週一更新、毎週日曜日に更新したいと思います。感想を頂けると狂喜乱舞で更新速度が速くなる可能性がある、と狡い事を書いておきます。次の更新は10月23日です。また読みに来ていただけたら幸いです。