朝一の準備
翌日、朝。ロレインカムの町は鐘の音と共に起き始める。朝と昼にだけ鐘を鳴らし、定刻を告げるシステムだ。仕事終わりを告げる鐘は無い。日が落ちたら自然と一日は終了となる。
リンゴ―ン、リンゴ―ン、と三回鳴らされた鐘の音に、ソーラは目を覚ました。隣で熟睡しているテーラを横目に窓を開け、爽やかな朝の清涼な風を室内に取り込む。昨日は大変だったけれど、朝の空気に触れていると喉元過ぎれば、という気分になる。前向きに今日も頑張ろうと息込んで振り返り、しかし爽快な気分は荒々しく開かれたドアによって雲散霧消した。
「ぅぅうううううああああああああああああああ……」
ドアの向こうからゾンビさながら涎を垂らして手を伸ばす紅朗が居たからだ。腹に手を当てている事から、相当空腹なのかもしれない。
「なっ、なになに、奇襲!?」
寝ぼけ眼の姉がベッドの上で臨戦態勢に入った。手に持つ剣が昨日の一件で根元付近からぽっきりと折れている事にも気付かずに。
「はいはい。朝御飯ね」
朝の空気を根こそぎ奪う慌ただしい光景だ。ソーラは溜息を一つ、この現状の修復に一人で取り掛かる。
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「なにこの体スゲェ燃費悪ぃ」
ソーラから充分に魔力を供給された後、うつ伏せに寝転びながら紅朗が言う。というのも、これは紅朗の体感時間だが、地球では凡そ7時間8時間で空腹を覚える程度だったが、この世界に来てから3時間4時間程で空腹を訴えてきたのだ。一夜明けたら絶食モード入ってるとか驚愕だ。
しかも、ソーラが息を切らす程の魔力を食べて尚、空腹が収まらない。腹八分目どころの話じゃない。まるで満足出来ていない。これはマズイ、と紅朗は背筋を冷やす。
詰まる所、ソーラ一人だけでは紅朗の一食分に届いていない事が証明されたのだ。これは、早く問題を解決しなければならない。もう一人、魔法使いだか魔術師だかと契約せねば、ソーラの負担が尋常では無いのだ。
ちらりと紅朗が目線を上げれば、肩で息をしているソーラの姿。シャトルランを何十本もやった後のように額から汗を流していた。
「おい、大丈夫か?」
「まぁ大丈夫でしょ」
聞けば、答えたのはソーラではなく、目が覚めたらしいテーラ。ベッドの上で足を組みながら紅朗を呆れ交じりに見下ろしていた。
「あたしは魔術師じゃないから、どういう感覚なのかさっぱりだけど。息を整えればすぐに動けるようになるらしいよ」
「アレで?」
「アレで」
見た目ヤバそうなぐらいぜぇぜぇ息を切らし、こちらの言葉にも反応を示さず手を上げる事すら出来ない程に疲れ切っているソーラ。あんな事になれば半日は動けない気もするが、長年付き合っている姉妹が言うのだ、と紅朗は信じる事にした。
「ところでクロー。あんた、珍しい耳をしているね」
「あん?」
テーラの言葉を受けて紅朗は自らの耳に手を添える。自らの手に触れるのは当然、自分の毛羽立った髪と普通の耳だ。
だがそれが、紅朗にとって普通であろうと、この世界にとっては普通では無い。
「昨日までは髪に隠れて見えなかったけど、丸耳は初めて見るよ」
その言葉はソーラの顔を起こし、目を見開かせた。
テーラの言う通り、紅朗の耳は今まで紅朗自身の髪に隠れていたものだ。肩甲骨まで伸びている赤錆色の毛羽立った髪。耳周りも当然同じ髪質で覆われていて、今まで誰の目にも紅朗の耳は触れていない。
だからソーラは目を見開かせて驚いている。それはテーラも同じで、しかし彼女は寝起きである事と、紅朗とソーラのいざこざがあって驚くタイミングを逃しただけなのだ。それが無ければ、テーラも今のソーラと同じく目を見開いていた事だろう。
「なんだ。毛の無い耳がそんなに珍しいのか?」
「……幻生、種?」
紅朗に答えたのは、やや上ずったソーラの声。厳密に言えばソーラは紅朗の言葉に反応した訳では無く、思考の欠片が漏れただけなのだが。しかしその口から漏れた言葉は、確かに紅朗の丸い耳に入った。
「ゲンセイ……? 現世……原生? なんだそれ」
「あー……なんだっけか……」
ベッドの上で胡坐を掻くテーラは、後頭部を掻きながら視線を上げる。何かを思い出す時に良く見られる動作だ。
「なんか、こう……伝説? そう、確か大婆様から聞いた事がある。幻生種丸耳族ってのが世の中には居るとか居ないとか。」
「……そう、ね。幻の民族の、話よ」
ソーラの意識が戻り、息を整えつつあった彼女の端的な説明。そこで「幻生か?」と紅朗は思い至る。
「……世界の何処かに、丸い耳をした少数民族が居る。その丸い耳の民族は見目美しく、仲間意識が非常に強い一族で、一度その民族の仲間入りを果たす事が出来たならば、なんでも願いが叶う。そういう御伽噺の一つよ」
「なんだ、実在はしてないのか?」
「所詮、御伽噺だからなぁ」
「何処かの貴族様か王族が囲ってるっていう噂もあるけれど、これも眉唾物ね」
都市伝説の類か。もしかしたら人魚姫とかシンデレラとか、そういう全国的に広まった童話の類なのかもしれないが、どちらであろうと自分には関係無さそうだ、と判断する紅朗。何故ならば自分も自分の両親も、控えめに言っても美しいとは言い辛いからだ。仲間意識も帰属意識も余り無いし。
「ま、特別変異か何かだろうね。仲間意識低そうだし」
「美しいというのも、ねぇ……」
だが何故だろう。他人から指摘されるとこんなにも腹立たしいのは。そうは思うが、紅朗は水に流してやる事にした。今の紅朗は満腹には遠いが、空腹から逃れられた事により些か寛大なのだ。
取り敢えず目下問題なのは、紅朗の丸耳が珍しいという事。長い髪を纏めるのに髪紐を買おうかと思っていたが、耳を出すのは止めた方が良いと紅朗は判断した。色々とごちゃごちゃ言われるのも面倒だし。
「で、クロー。そろそろどうなんだい? ずっと床にへばりついてるけど」
「まぁ……うん」
よいせ、と呟きながら、紅朗は今迄頬を付けていた床から体を起こした。テーラの台詞は自身の腹具合を聞いたのだろう、胡坐を掻いて、腹具合を確かめる。
「昼までならなんとか」
ずしゃり、と。ソーラの心が潰れる音がした。
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これだけ疲れる事を昼過ぎにもやらなければならないのかと一度は挫けたソーラだが、腐ってもいられないと何とか態勢を整え、彼女はテーラと紅朗と共に食卓に着く。固形物の食事を取れない紅朗は水のみではあるが。
そんな朝の食卓で交わされる話題は、何処の家庭でも誰であっても「今日の予定」が最有力候補の一つだろう。例に漏れず、紅朗達も今日の予定について話し合い、まずは双子の武器と紅朗の生活雑貨を買う事に決められた。
山賊に襲われた時、テーラは剣を、ソーラは矢を失っているのだ。このまま依頼に取り掛かるには拙過ぎる。そして紅朗は、自分の荷物が何もない状態でこの世界に来た。服は山賊から強奪したもの。日用品など持っている訳も無い。
取得理由は良しにせよ悪しきにせよ、幸い金なら紅朗がこさえた。故に紅朗達はまず、テーラとソーラを先頭に武具店へと足を運ぶ。
地球ではまるで馴染みの無い武具店。からんからんとカウベルが鳴り、紅朗は店内を見渡した。複数の冒険者らしき者達が品定めしている店内は、その名称通りに所狭しと武器や防具が並べられていた。革製品から鉄製品まで、素材は様々。短刀、剣、大剣、槍、斧、鈍器、矢、杖。胸当てや鎧、鎖帷子まで並べられている。青銅の剣が実際に名札を付けて売られている所は、地球育ちの紅朗としてはシュールに見える。勿論、歴史的遺物のように錆び付いてはおらず、実用性の高い形で売られてはいたが。
そんな周囲を見回す紅朗とは違い、テーラ達は余所見もせず自分達の獲物を選ぶ。テーラは剣を、ソーラは矢を。依頼で未開拓地に挑む冒険者にとって命を預ける相棒ともなる獲物選びだ。二人の眼はそれこそ刃にも劣らぬ、真剣そのものだった。
時折「……良いの買っちゃおうかなぁ。奮発しても良いかなぁ」とテーラの中で何かがグラつく様子を見せてはいたが。
そんな二人に触発されてか、紅朗も商品の品定めを始める。実はこの武具店に来ると決まった際、一つだけ必需品を思い出したのだ。
「あんたは何を買うの?」
「俺は山刀かな」
「サントウ?」
「これだよ」
話しかけてくるテーラに紅朗は答えたが、彼女は知らない武器の名前だったらしい。旅する者の必需品を知らないとはどういう事だろうとも思ったが、もしかしたら名称が違うだけなのかもしれないと、紅朗は手に取った商品をテーラに見せた。
鉈のような分厚い短剣、とでも言えば良いのだろうか。刃渡り28cm程の剣だった。名前の通り山用に造られた刀剣の一種で、これ一つで蔦などの切り払い、樹皮などの採取、狩猟した際の解体など、幅広い用途で使われる便利アイテムの一つだ。素材や刃渡りの長さなど様々な山刀が売られていたが、紅朗が選んだのは鋼系と思しき素材の刃渡り28cm、革鞘。
素材は残念ながらこの世界の文字や素材を理解出来ていないから適当だが、刃渡りと革鞘だけは拘った。地球で振り回した時、28cmが一番自分の体に合っていたからだ。革鞘なのは、しなやかな鞘でないとしゃがんだ時に土に当たって邪魔臭い為である。
「あぁ、剣鉈か。そりゃ必需品だね」
テーラが腰に差した山刀を紅朗に見せる。この世界では山刀の事を剣鉈というようで、やはり名称が違うだけか、と紅朗は納得した。
「他には何を買うつもり?」
まるで先輩風を吹かすようにテーラは話を続ける。まぁ確かに紅朗は後輩であり、さらに自称記憶喪失で、文字も常識も知らないけれど。この子は自分の分を選び終えて暇なのだろうか、と紅朗は思う。それに他にと言われても、もう武具店で買うべきものは無い。
その事を告げると、テーラは驚愕仰天。
「無い!?」
たっはー、と大袈裟に額を叩いた。少しだけイラッとする紅朗。
「ちょっとソーラさん。あの子こんな事言ってますけど」
「防具の一つも付けないなんて旅を舐めすぎね」
「言う程お前らも付けてねぇじゃんか」
テーラとソーラは、確かに防具を付けている。テーラは両腕に革のアームガード。更に片腕にはライトバックラーという小さな円形状の盾を装備していた。足には革製のレガースのような脛当て。ソーラはレガースだけを装備している。
確かに、防具はしている。だが肝心要である胴体部の装備は服のみで、対して頑丈とは言い辛い。それは果たしてちゃんと防具しているのかと、疑問の一つも出てしまうのも否めないものがあった。……まさか、心臓が胴体に無いとは言わんよな? という紅朗の疑問は、少し世界を疑い過ぎていると言えるだろうが。
「あたしらは素早さが売りだから。余り重い物付けたくないんだよね」
「じゃあ俺もそんな理由って事で納得しろよ」
成程。テーラの言は確かに理に適っている。狐兎族の強みの一つは敏捷性。嵩張る物や重い物を装着して自らの利を投げ捨てる事は愚の骨頂と言えよう。だがそれが許されるのならば紅朗も許されてしかるべきでは無いだろうか。
「いやー、でもさー、ほらー。昨日の事もあるじゃん? 足回りだけはしっかりしようかなーなんて」
しかし彼女らはそうもいかないようで、なんとか紅朗に防具を買わせようと強請る。
言っている事は解らないでも無い。現に彼女らのレガースは脛の真ん中辺りに小さい穴が開いていた。昨日の山賊襲撃で矢が貫通した穴だ。それを思えば、武器にも成り得る足回りだけは重くて良いかもと思わないでも無い。
だが何故それで紅朗にも買わせようと薦めるのだろうか。
「してぇと思ったらすれば良いじゃねぇか。金は昨日渡したろ?」
とまで紅朗が言った所で、ある一つの可能性が浮上し、彼の脳内に電撃走る。
「まさかてめぇら、あれから男娼でも雇ったか?」
そう、金を使い込んだという可能性。男娼という、簡単に言えば体を売る類の仕事をしている男を購入し、一夜のバカンスと洒落込んだ可能性は捨てきれない。だから金が無くなり、金貨一枚を保有する自分に強請るつもりか、と紅朗は戦慄した。
「ふん!」
戦慄する紅朗に返ってきたのはテーラの拳。
「甘い」
それを易々と体を倒して回避する紅朗。渾身の一打を当てられなくて憤慨したのか、テーラは顔を赤くして紅朗を睨み付けた。
「い、言うに事欠いてだ、男……っ。女の子に向かってそれは無いんじゃないか!? デリバリーが足らないぞお前!!」
18にもなって何が女の子だ。自ら女として未熟で未完成で今まで学ぶ努力を怠ってきたのですと吐露して恥ずかしくないのか、と思わないでもない台詞。自立心が高ければまず出ない呼称だ。しかし紅朗は思うだけで言葉にはしない。そんな事言った所で鬱陶しい事になるだけだと解り切っている。人によっては若くない自らを、あるいはだらけてダブダブになった自分の醜い心と体を察したくないからヒステリックにがなり立てるだけの、至極迷惑な生ものに成り果ててしまう。空気の読める男は心中の言葉を外に出す事はしないのだ。
「なんだよメンドクセェな。俺に足りないのが配達か心遣いかは知らねぇけど、お前に足りないのは語彙力だな。おっとそれ以上喋るなよ。お前に足りないのが頭だと露見する可能性がある」
であるからして紅朗は空気を読めない男では無い。言うなれば空気を外す男だろうか。
「くわー!!!!」
堪忍袋の緒が切れたのか、飛び掛かってくるテーラ。宜しい、迎え撃ってしんぜようと構える紅朗。
「危ねぇからはしゃぐんじゃねぇ!!」
周囲の冒険者や武具店店主からの怒号。きっと今日から毎日騒々しいのだろうと、ソーラは溜息を吐いた。
因みに最終的には
「革製のレガースじゃ心許無いから、金属製のを買おうかなって」とソーラ。
「なんか、あたしらだけ高いもん買うのもなんかなーって思って」とテーラ。
「んじゃまぁ、足並み揃えるって意味でレガース三組み買うか?」と紅朗。
山刀の柄に革紐を付けてもらいつつ、比較的穏やかに買い物を済ませた。