それぞれの夜
夜。狐兎族の姉妹は食事を終え、加えて紅朗もソーラから魔力を頂き、十分に腹が膨れてから自らの部屋に入る。パーティーを組むとはいえ、紅朗達は立派な男女。故に当たり前だが取った部屋は別々だ。
紅朗は部屋に入り、その有様に驚いた。なんとユニットバスなのだ。上下水道が完備されているのだろうか、蛇口を捻ると綺麗な水が流れ出る。電気は通ってなく、蝋燭の明かりと窓の月光だけが頼りなのに、いったいどういう事なのだろうか。この世界の文明レベルを理解出来ない紅朗だが、魔法なんてふざけた技術があるのだから、辿る文明や文化も地球とは違うものになるのだろうと思考を落ち着かせる。
就寝スペースは凡そ四畳程。片隅に未使用の蝋燭が二本とマッチが一箱、並べられていた。随分大きなスペースだとも思うが、よくよく考えてみればこの世界は多種多様な人種がいるのだ。それに対応出来る最低限のスペースが約四畳で、荷物を置くスペース以外は寝るための場所というコンセプトなのだろう。これで銀板三枚は高いのか安いのか。三千円程だと思えば安い値段に入るのかもしれない。
次いで紅朗は部屋の奥、質は悪く透明度の低いガラスが填められた窓の外に目を向ける。窓の外は路地に面していた。ぽつんぽつんと点在している街灯を上から眺められる光景。通りを歩く人は誰もいない。街灯の上部を良く良く見てみれば、何か石のような物体が光を放っていた。なんだアレは。解らない事だらけだ。
備え付けのベッドに目をやる。ホテルのようなシーツは無い。柔らかく薄い畳のような敷物に似た敷布団と掛布団。茣蓙に似ているが、それよりも質は粗い。敷布団を剥いで見ると、中には藁が詰まっていた。土台の材質が木である事から察するに、木の板の上に藁を敷いて、チクチクしないように茣蓙を敷けば類似品が出来そうだ。
全体的に見て、この宿はそう悪くは無い。この世界も、思っていた程、文明レベルはさして低い訳では無いのかもしれない。そんな思いを抱いた紅朗は、簡素なベッドに腰を下ろして今日一日を振り返る。
一言で言えば「色々あった一日だった」だろう。そしてこれから、そんな日々が毎日続く。自らの体が食物を受け付けなくなり、代わりに魔法だか魔術だか魔力だかを求める生活。地球とは明らかに違う技術と人種。それはまぁ良い。いや良くは無いが、異国文化に囲まれた経験が一つでもあれば容認出来るレベルだ。そして容認出来る人間であれば、この世界は目新しい物に溢れていて、日々新鮮さを感じられて心沸き立つ事だろう。
「――だが、問題は一つだ」
そう口走る彼には、ある目的があった。それが先程、飲食スペースで双子に語った師匠を見付ける事である。と言っても、別に師匠が無責任に行方を晦ませた訳じゃない。消えた師匠を探す事が、弟子に課せられた師匠からの最終ミッション。最後の修行だったのだ。
故に彼は全国を旅して師匠を探し回り、その道中、旅費稼ぎでの妖精郷入りしたという事。
であれば、彼の目的は唯一つ。
「どうにかして、元の世界に帰らなければ……」
その為の土台は、今日一日の急拵えだが基礎は出来たと言って良い。
食料は確保した。上手くいけば、ある程度の期間をもって継続出来るだろう。
仕事にも就いた。安定収入は見込めないが、完全歩合制と考えれば、それは地球でもやってきた事だ。
これを土台にすれば、日常生活は賄えると紅朗は計算する。まだ一度も冒険者らしい仕事はしていないが、取りあえず明日にはまぁまぁの金が入るよう動いた事もあり、紅朗は思考をシフトする。
日常生活の目途が立ち、では次に考える事はと言えば、目的への最速達成ラインに他ならない。
まずすべき事は、魔術への理解を深める事だろうか。何があって、何を持って、何がどうしてどうなってこの世界に来たかは解らない。恐らくは現代科学では解明出来ない可能性が高いのだ。なにせ異世界話など御伽噺夢物語の中にしか無かったのだから。
であれば、オカルト方面からのアプローチをすべきだ。幸いにしてオカルト方面の知り合いは居た。専門的な知識は皆無に等しいし、半信半疑というよりほぼ完全に疑っていたから未だ違和感を覚える事は否めないが、異世界話の一つとして【妖精郷】を教わった事はある。というよりも一方的に語られただけだが、それでも「魔術が魔法になった時に辿り着ける場所だ」という言葉は記憶に新しい。
近道では無い可能性は高い。それが迂遠過ぎる遠回りになる可能性は遥かに高い。だが動かなければどうにもならないのは、あっちでもこっちでも変わりは無い筈。まずは手当たり次第に当たってみるか、と紅朗は自らの方針を固めた。
「目指すは一年。最長三年で絶対に帰ってやる。待ってろよ師匠」
そう意気込み、紅朗は立ち上がる。立ち上がった序に風呂に入ろうと意気揚々に風呂場へ向かい、替えの服もタオルも無い事に挫折した。
前途は多難である。
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一方その頃、紅朗とは数部屋挟んで部屋を取っていた狐兎族姉妹は、顔を見合わせてベッドに腰かけていた。二つに分かれたベッドに座って対面する姉妹。その間に、普段ならある筈の柔和な空気は無い。
「どう思う?」
主語なく囁かれたテーラの言葉。双子ならではの意思疎通なのか、ソーラは言われずとも理解する。
「少なくとも、悪い人では無いわね。かと言って、良い人とも思えない」
ソーラの言葉が示す人物は、石動紅朗だ。今日に初めて出会い、窮地を救われ、取引を受け入れ、パーティーを組んだ人物。その感想。
二人がそれを話し合うのは、決して不思議な事では無い。なにせ会ってすぐの人物をパーティーに入れたのだ。一歩町の外に出れば、そこは弱肉強食の世界。一蓮托生、信頼にせよ信用にせよ、命を託せる人物でないとおちおち夜も眠れない。
他人を疑う事に少しばかり罪悪感を覚えるも、事は自分達の命と密接に関わっているのだ。主観的事情で手を抜いて良い話では無いだろう。
「彼の言い分をそのまま信じれば、色々と事情を抱えている人で、私達には言うつもりが無い。かといって、隠す事はしなかった。……いえ、事情は隠すけれど、【隠している事実がある】という事は隠さなかった。そういう所を踏まえると、一定以上の誠実さは持ち合わせているようね」
「記憶喪失に近い何か、ねぇ……」
二人が思い出すのは、紅朗と出会い、自己紹介を交わした時の話だ。その時、彼は確かに自身が抱える事情を隠し、しかし【隠した事実だけ】は隠さず話した。その言い分が「記憶喪失だと思え」だ。
確かに紅朗が記憶喪失だとすれば、ある程度の合点はいく。自身が立つ国名や地理、文化、歴史、硬貨。一般的な生活をしていれば、そのどれもが知ろうと思わなくても知れる筈だ。他人が一切いない辺鄙で隔絶された村にでもいない限り。種族にしたって、同じ事が言えるだろう。現にテーラとソーラの種族、狐兎族は割とスタンダードな種族の一つだ。その自分達を見て、紅朗が酷く動揺したのを二人は聞いている。彼の言葉では無く、彼の心音や体臭の変化で。
狐兎族という種族は、他人の動向に敏感である。先にも記した通り、性格は全体的に臆病で、別名「森の隠者」とも呼ばれている種族。その特性は長い耳であるが故に集音性の高い聴覚と、しなやかな脚力による俊敏性、そして狼牙族に勝るとも劣らない程の嗅覚を備え持っていた。聴覚で索敵、他人の心音を聴き、体臭変化で対象人物の感情を嗅ぎ分け、それが危険な人物であれば俊敏に森に隠れてしまう。
幼少期に覚えた好奇心をそのまま持ちながら育ち、結果集落から出たテーラとソーラだが、その感覚を忘れた訳では無い。彼女らはしっかりと種族特性を発揮して、紅朗を品定めしていた。
因みに、テーラとソーラのように好奇心を持って育つ個体も少なくないので、別名の割には知れ渡っている現状が出来上がったのだった。
「少なくとも、嘘は言ってないわね」
それはさて置き、紅朗の話。テーラとソーラはその種族特性で紅朗を嗅ぎ分け、そして出た結果はソーラの言葉通り。彼女らは紅朗の言葉を信じる事にした。
ただソーラが気になるのは、ロレインカムに到着した時、感情がまるで揺れなかった事だ。記憶喪失のようなものと本人が言った通り、それに似た状態に陥り、紅朗の質問から鑑みて、常識のほぼ全てを失ったと見て良いだろう。それは彼の身体反応から判断出来る。だがその上で、ロレインカムの街並みや人並みを見た時、紅朗は有り得ない程の無感情だった。
種族も金銭も知らないのに、町も人も見慣れたような顔で、見飽きたような顔で、少しだけ呆れも見せていた。それはどういうことだろうか。
「ま、悪い奴じゃない事は確かじゃないか? 師匠とやらの話してた時は、本当に楽しそうに話していたよ。村の子供達を思い出すなぁ。元気してるかな」
テーラの言葉通り、紅朗は時折、子供のように行動をとる。先のテーラが言った師匠の話もあるが、特に顕著なのがギルドでの事だろう。確かに、法的には悪い事はしていない。だがそれはあくまで法的な話のみで、道徳的には良くない行為である事は間違いないのだ。
しかしあの時、紅朗には罪悪感など微塵も感じていなかった。まるで日常の一幕、階段を下りるような感覚でガルゲルの膝を砕いたのだ。それは彼の体臭や心音がはっきりと示している。ロレインカムに到着した時のように、まったく揺らぎもしていなかった。
そこから考えるに、彼は、恐らく善悪の区別がついていないんじゃないか、とソーラは思う。それこそ、子供のように。
金に無頓着なのも、それを示唆するように思えてくる。ソーラの傍らには紅朗から渡された金貨の入った革袋。金の配分は食事を終えてから話し合い、取りあえずの取り分は三分割にして渡す、という事に決まった。それもソーラが言い出したのでは無く、驚く事に紅朗からの申し出だ。本来であればソーラ達の取り分は半分、いや三分の一でも取り過ぎだと彼女は思う。魔力を取引にしただけの話なのだから、彼が金を払うべきはソーラだけだろう。にも関わらず、考慮したのかしていないのか、彼はテーラの分も含めて三分割にした。
その事が、彼が金銭に頓着しないのは、精神的に子供だから、というソーラの思考に拍車をかける。
だとするのならば……
「早まった、かしらね……」
取引をした事は失敗だったのか。子供のような無邪気さで、Cランカー冒険者を一笑に伏す力を振り回す男。そこから導き出されるソーラの未来予想図は、碌でもないビジョンしか浮かばなかった。
子供は時に、大人が思いもしない事を仕出かすものである。それがただの妄想でしかない事を、彼女は願うばかりだった。
これで一日目という名の説明会は終了。次回から紅朗が動き回ります。