プロローグ
惨劇が、目の前に広がっていた。
闇夜の角まで見抜いてやると言わんばかりに瞼を開けた、満月の夜だったのを覚えている。
月に照らされた大地が、辺り一面てらてらと輝いていた事を鮮明に覚えている。
錆びた鉄のような香りが鼻腔を侵し、その感覚はまるで粘膜に張り付くかのようで、肌にこびり付くかのようで、臭気も粘性を帯びるのだと初めて知った。艶めかしく輝く海に点在する小島のような物体は、肉の欠片か、脂肪の塊か。腸の形を初めて知った。肝臓の色を初めて見た。小学校の教科書に載っていた胃の絵がデフォルメにデフォルメを重ねたものだと初めて理解した。
そして俺は――あぁ、克明に憶えていた。
海の真ん中に積み上げられた肉の山。その前に、女が立っていた。月光を艶やかに反射する長い黒髪。柔らかそうな肢体は海と同じくてらてらと輝き、手には大鉈。今でも色鮮やかに思い出せる。小説の一文に良くある、まるで昨日の事のようだ、という言葉を拝借させて頂くのならば、其れはまるで今現在の事のように思い映る。
後々になって聞けば、この女は快楽殺人鬼だったそうだ。何が原因でオツムのネジが外れたかは知らない。凶行に走った原因も理由もどうでも良い。此処で大事な事は、その殺人鬼の遊び場に俺が出くわしてしまった事だ。そして此処で、俺の人生の大半は決まってしまったと言っても良いのだろう。
生きたいと思った。逃げなければと思った。当時は小学三年生。9才か10才か。大鉈を持った成人女性に敵う筈も無い。リーチも殺傷能力も、思う事さえ馬鹿々々しいぐらいに段違いだ。だが、足は動かなかった。体が石のように硬直して動いてはくれなかった。怖かったから、もあるだろう。恐ろしかったから、と言っても良い。
だがそれ以上に俺は、凶行に走り、全身を鮮血で塗りたくった彼女を、美しいと思ってしまった。見入ってしまい――魅入ってしまったからだ。
獣のような彼女。鬼のような彼女。なのにその浮かべる笑顔は赤子を見る母のように柔らかく、不安の無い少女のように安らかで――
鮮明に恐怖を思い出す。克明に恐慌が湧き上がる。目の前の彼女よりも、惨劇を産み出した彼女に惹かれている自分自身が、俺自身がこの世の誰よりも恐ろしかった。
家に帰れば父が居る。毎日頑張って仕事をして、たまに酔っ払って酒臭い体で抱き締めてくれる父が居る。家には母が居る。毎日美味しいご飯を作ってくれて、良い事をすればスーパーでお菓子を買ってくれる母が居る。たまに会う爺ちゃんや婆ちゃんは会う度にお小遣いをくれて、将棋や編み物を教わった事もあった。玩具も買ってもらった事もある。もうすぐ妹が出来るらしい。今日テストで百点取った。父が髪の毛を気にして、玩具を買ってもらえるかも、母のお腹が膨らんできた、爺ちゃんと釣りに行く約束が、同級生のたけし君とケンカして、太ったのと聞いたら母が怒って、今度一人で爺ちゃんと婆ちゃんの家に泊まりに父の腕は太くて先生に褒められて今日のおやつは美味しくて昨日初めて爺ちゃんの王を取って玩具はゲーム機が妹の名前はたけし君とみほちゃんに先生へ爺ちゃんが婆ちゃんの父も母を――
「あらぁ、どうしたの坊や」
――あぁ、生きたいなぁ。