10 桜庭尋
「町内に悪雄魂が出た。従って今日の英雄学は実習授業だ」
溝口のその一言で、英雄学の生徒は険しい表情を浮かべた。現在時刻は午前十時三十分。
二限目の開始の合図が鳴ったにも関わらず、溝口が一向に教室に現れないことに生徒は疑問を持ち、各々言い知れぬ不安を抱える事になっていた。もちろん、水姫も。
そして、もう待ちきれないとでもいう様に涼太が立ち上がり、桃耶がそれに続いて、力登はため息を漏らし、三人が教室を出て溝口を探しに行こうとした矢先、彼は現れて開口一番そう言った。
悪雄魂が町中に現れた。そして、人質を取った、と。
「悪雄魂の特徴は長身の女性、スーツを着ていて赤い爪をしている。人質は小学五年生の男の子。あまりの恐怖によって気を失っているらしい」
溝口は一口にそう言い切ると、一度だけ息を吐き、そして教室内を見渡した。朝方悪雄魂を兄弟で何とかしようと決意したばかりの時にこれだ。涼太は水姫に視線をやると、密かに力強く頷いた。これはチャンスだ。水姫にかっこいい所を見せて、自分を認めてもらうための、重要な局面。
「悪雄魂は人質を取りつつ各所を移動中。狙いは英雄魂だ。そこで、言い方は悪いがお前たちに囮として散ってもらい、悪雄魂を捕らえてもらいたい」
教室内が一瞬にしてざわめいた。箱庭の中の英雄。未発達に等しい者も居るというのに、あえて囮として町中に解き放つということが、どれだけ危険な事か。
悪雄魂の説明を受けた後の彼ら彼女からしたら、抗議の余地は充分にあった。
しかし、溝口は有無を言わせぬ雰囲気で咳ばらいをすると、入り口に向かって生徒たちを急かす。
「時間がない。放っておくと人質がどうなるか分からないからな。抗議はまた後で聞こう。その誇り高い魂を掲げて、励め。……検討を祈る」
言うなり、彼は足早に教室を去っていった。一足早く町に繰り出し、生徒たちの動向を見張るのだろう。ただの監視員として。
漠然とした不安に刈り取られながら、水姫は恐る恐る涼太を見た。
もちろん彼は、何のためらいもなく一番に駆けだしていた。
自分は英雄魂として生を受けた。もちろん、それは事実であり、彼自身も受け入れている。誇り高きその前世と、転生をした今の身体を使い、将来社会的に役に立つことは確約されている。
だけど、英雄学での実習授業で活躍できるかどうかは、別だった。
英雄魂という種類に分類されるだけで箔はついたも同然。だがしかし、それを生かすことが出来るかと問われれば少々首を捻る。
英雄学の実習授業は英雄魂ならではの能力を駆使して、町に蔓延る犯罪者や悪雄魂を捕まえることが主だ。
しかし、自分の能力はたいして役に立たないものであるし、いつもサポートに回っていることが多い。
だからこそ、前回の授業も水姫と一緒に行動を共にした。
率先して動いたって、危険な場面に会っても対処できないのが彼自身であるから。それならば、初心者の水姫について回り、彼女の力になった方がいい。
そして今回も、そうしようと思った。
しかし、桜庭尋はどうしてか単独行動で動いてしまっていた。
駆け出した涼太についていき、気づけば一人で町中を走り回っていた。
「はっ……はあ……」
息を切らして商店街の中を駆ける。コンビニの隅、住宅街の木々の隙間、公園の遊具。気づくところに必死に目をこらして悪雄魂を探すも、誰もいない。ただ道行く人が、学生の走り回る姿に興味深そうに見ているだけだ。
いつもは単独行動なんて絶対にしないのに。
そう毒づきつつも、動く足は止まらない。
原因はきっと、人質にある。
――人質は小学五年生の男の子。
溝口がそう言ったとき、尋は胸がぎゅっと締め付けられたかのような幻覚に陥った。小さな少年が、危険な人間に人質にされている。恐怖で震えるばかりか、気を失ってしまうほどに、心が叫んでいる。
そう思うと、どうにも切なくて、いてもたってもいられなかった。
「はあ……いったん、落ち着こう」
闇雲に探し回っても時間を無駄にするだけだ。ここは悪雄魂が行きそうな場所に目星をつけるのもいい。
尋は辺りを見渡して、場所を確認する。
いつの間にやら学校に戻ってきてしまったらしく、近くで龍を象った門がそびえているのが見えた。
向かいには大きな交差点、そして後ろにはコンビニと、駐車場。奥に行けば店が連なり、活気に溢れた場所となる。
そして、そこの一角に小さな路地裏があるのを尋は思い出す。
なんとも典型的な場所ではあるが、昼間から目立つ場所に居るとも思えない。尋は急いで路地裏を目指した。
手には小さなごみを隠し持ちながら、少しだけ怯えたように。
そして、路地裏に悪雄魂は居た。
長い黒髪、真っ黒でピンと張り詰めた質のいいスーツ、そして闇より深い色の眼球。
その女性こそ、悪雄魂に違いない。
尋は確信を持って近づく。
路地裏の奥、突き当りで悪雄魂は何やらぼそぼそと話をしていた。段々と近くなるその様子に、人質である小学生の姿もくっきりと浮かび上がった。
気を失っていると聞いたが、どうやら意識は戻ったらしく、ぼんやりとした瞳で悪雄魂の顔を見つめていた。
だが、そこで尋は一度立ち止まる。少し、様子が可笑しくないか。
赤いマニキュアが塗りたくられたその爪を輝かせて、悪雄魂は少年の首に腕を巻いていた。抱きしめるように、まるで母親のように向かい合っている。そして、少年に何か囁いている。少年の虚ろな目が瞬きすらせず悪雄魂を見つめている。小さな口からは、黒い煙のようなものが吐き出されていた。悪雄魂特有のそれに、尋は走り出した。
「そこを離れろッッ!」
自らも想像のつかない大声を出して二人に近づいたが、悪雄魂がこちらに気付いた時にはすでに遅かった。
少年の虚ろな目が、真っ黒に染まる。純情、清らかさ。そんなものは知らないとでもいうように、尋に向けられた目は深く、どうしようもない。
悪雄魂に、染められてしまった。
愕然と立ち尽くす尋を他所に、悪雄魂は舌なめずりをして、尋を見た。
「英雄魂、見つけた」
一言、そう呟いただけで、少年を他所に悪雄魂は尋の背後に回り込み、あっという間に首を締めあげた。恐るべき俊敏な動きと力に、尋はついて行けず、されるがまま。
首に絡みつく腕を放そうにもびくともしない。ああ、こんな時力登くんだったらあっという間にくぐり抜けられるんだろうな。
そんな事を考えて、やはり尋は後悔した。
やっぱり、俺はこんな危険な場所に出るべきじゃない。だって、何の役にも立たないんだから。
手から零れ落ちたごみくずがまるで自分のようで見ていられない。
今度は、尋が人質になる番だった。




