6 乙姫として
慣れというのは恐ろしいものだ。良くも悪くも、その環境に折り合いをつけて、受け入れることを自然と身に着けてしまう。
水姫は何度目か分からない一人ぼっちの昼食に、最初のような寂しさもたいして感じることなく、黙々とお弁当を広げていた。
定番になってしまった校庭の桜の木のもとで、座り込み、一人優雅に過ごす。桜は散ってしまったものの、居心地の良さは変わらなかった。
今日の献立は甘い卵焼きに、ほうれん草とベーコンの和え物。小さな唐揚げとプチトマトといった、カラフルなメニューに水姫の食は進む。
ご飯に大好きなゆかりのふりかけをかけて、もぐもぐとリスのように口を動かす。美味しいものを食べていると、どうしてこんなに幸せを感じるんだろう。生きててよかった。そんな大げさな言葉さえ、食事をしていると簡単に出てきてしまう。まあ、一人という状況なのは変わらないが。
力登の協力もあって、クラスメイトとはそれなりに話せる仲にはなった。しかし、その後の展開は期待できなかった。
水姫の乙姫である記憶が戻ったことで、心にわだかまりがある。おかげで、どうにも器用に生きられない水姫は、当初あんなに悩んでいた友人関係にもういいやと投げ捨て、今は乙姫としての記憶、感情を整理するのに必死だった。
「浦島太郎と、乙姫ねえ……」
あの英雄学を受けた日、一気に記憶を取り戻した彼女は、毎日のように乙姫の時、彼とどう過ごしていたか思い出すようになった。
それは、彼の気障な言い回しだったり、自分が彼に翻弄されていたことだったり、自分が竜宮城の姫として退屈していたことだったり。
そして、自分が犯してはならない罪を犯していたことだったり。
――乙姫なんて、嘘だ。
今朝がた、玉手箱が使える状況にあるにもかかわらず、ただ怯えているばかりだった水姫を鬼柳はそう攻めた。
水姫は、その言葉に衝撃を受け、そして。
今一番悩んでいることに、直結させた。
「この玉手箱を使えばよかった。それは分かってる」
誰も聞いていないのに、懺悔のように呟いた水姫の眉間は、しわを寄せて、悔しそうな顔をしていた。
記憶を取り戻した今、新たな問題が立ちはだかる。
それは、水姫としての悩みではなかった。
生前の、乙姫としての後悔。玉手箱の使用を簡単に出来ない、大きな問題。
その悩みは、時間が経つにつれて、水姫を深く蝕んでいって、今では俯くばかりだ。
「姫!!大丈夫!?」
唐突に声をかけられ、何だなんだと顔を上げると、目の前で焦ったようにあわあわと手を振る涼太と、それを宥める尋がいた。
「涼太先輩に、桜庭先輩、どうしたんですか?」
「どうしたも何も!姫、今朝悪雄魂に襲われたんでしょ!?大丈夫!?怪我はない?」
「ええ、それは大丈夫です。桃耶先輩と鬼柳先輩が助けてくれましたから」
「でも!知らないうちに怪我してるかもよ!」
「こら、涼太、水姫ちゃんは大丈夫って言ってるんだから」
「でも!怪我して血が出てたらどうするの!その流れた血がもったいないよ!俺が舐めたい!」
「あんたは吸血鬼か!」
心配して駆けつけてきてくれたのかなと思いきやこれである。呆れるほかないだろう。
尋は涼太の言葉に若干引きつつ、それでも水姫への気遣いを忘れなかった。優しい笑顔で水姫に視線を合わせると、頭を撫でられる。
「えっと」
「無理はしないでね、水姫ちゃん。俺たち、本当に心配だったんだから」
「はい、ありがとうございます」
「ちょっと尋!俺も姫を撫でたい!撫で繰り回したい!」
「やめてください変態」
「ドSな姫も最高!」
この妙なテンションにも慣れてしまったのだから、本当に恐ろしい。
「なんかさ、本当は姫が心配で心配で、教室押しかけようと思ったんだけど」
「やめてくださいよ……」
「見計らったように先生たちが俺を取り押さえてきたんだよねー。で、苦手な課題を押し付けられちゃって」
「ひぃひぃ言ってたもんね」
その様子がありありと想像できる水姫は苦笑した。教室に押しかけようとしただけで取り押さえられるって、要注意人物として見られているのでは。
「尋もグルだっただろ!」
「だって、そのせいで水姫ちゃんに心労が増えたら本末転倒でしょ」
「そんなまさか!姫は俺が来て嬉しいでしょ!?」
「いえ全然」
「即答だった!」
その場に崩れ落ちる涼太を横目に、尋はまあまあ、と慰めるつもりなどみじんも感じさせない声音で水姫の隣に座る。そして、彼女が抱えた玉手箱に目を向ける。
無意識にきつく抱きしめているのか、その手には力が込められている。お弁当は広げたままなのに、そっちのけで玉手箱を抱きしめている。
涼太を見て、笑っているのに、手が震えている。
尋は水姫の様子に気付くと、さりげなく背中をポンポンと優しく叩いた。驚いた水姫は尋の顔を凝視するが、鉄壁の笑顔に何も言えなくなる。そして、抱きしめた玉手箱を見つめて、次に涼太に視線を移した。その横顔は、竜宮水姫ではなく、乙姫のそれだった。
「涼太先輩」
「ん、どうしたの?」
いつも通り明るい笑顔。黙ってれば王子様にも見える整った顔立ち。爽やかな目元。それら全てが、昔と何も変わっていない。
水姫は、玉手箱をひと撫でして、口を開く。
「あの時…………」
だけど、続きは言えなかった。乙姫として、彼女の記憶の中で一番辛い思い出が、水姫を臆病にする。どうしても言えない。
やっぱり何でもないです、と首を振って水姫は弁当を片付け始めた。元気づけてくれた尋に申し訳ないとは思うけれど、勇気が足りなかった。
どうしても、謝れない。
――あなたの時間を操作して、ごめんなさい。浦島太郎の人生を、台無しにしてしまって、ごめんなさい。
なんて。
絶対に、言えない。




