4 浦島桃耶
浦島桃耶の朝は早い。
早朝五時に起床し、布団を丁寧にたたむと、制服に着替える。全身鏡で身だしなみを整えるとすぐにリビングへと向かい、顔を洗う。ややスッキリした表情で柔いタオルを使い、顔を拭く。次にしゃこしゃこと音を鳴らして歯磨きを終える。やがて母が桃耶のためだけに作った朝食を用意して、桃耶は椅子に座った。いつも早い彼のために、母は毎日誰よりも早く起きることを心がけてくれていた。とても助かることである。
涼太と父の家中に響き渡るいびきをBGMに、桃耶は慎ましやかな朝食を終えた。母はいつもの調子でのんびりと食器を洗っており、それに合わせるかのように、桃耶も朝の日課である新聞を読みふける。
何でもない日常。桃耶の、一日の中で最も平和な時間。
「桃耶、今日は何か気になるニュース、あるかい?」
「ええ。先日起きた震災の復興支援がかなり進んでいるようです。英雄魂も黙っていられませんね」
桃太郎の魂を持つ桃耶は、将来英雄魂として社会的に活躍するのは当然の未来だ。そして彼は、それを納得して今から社会勉強に勤しんでいる。
「まあ。早く元通りになるといいねえ。心配だわ」
「そうですね。母上も、地震が来たらすぐに机の下に潜ってくださいね」
「もちろんよぉ」
のほほんと答えた母に、本当に大丈夫かと心配になる。しかし彼女も普通ではない。いざとなれば、何かしら起こして逃げるだろう。
桃耶は少しだけ不安になったが、それを振り払う様に立ち上がって、時計を見る。時刻は六時過ぎ。そろそろ出る時間だ。
と、珍しく二階からどすどすと煩い足音が聞こえてくる。それを耳にするなり、桃耶は眉間にしわを寄せて、鞄を手に取り、玄関に向かった。すると、すでに二階から下りてきた足音の人物が桃耶を呼び止めた。現れたのは、髪をぼさぼさにして、目をたるませた男、桃耶達の父だった。
「お、何だなんだ、桃耶は今日も早いな」
「父上が遅いだけですよ。遅刻しても知りませんから」
言いながら桃耶は靴を履く。すると、のんびりしている母が慌てた様に玄関にやってきて、いつもの麻袋を持ってきた。
「桃耶、これを忘れてはいけないよ」
「ああ、そうでした。ありがとうございます」
麻袋を受け取った桃耶は、中身を確認すると、両親に笑みを浮かべて、一礼する。相変わらずの礼儀正しさに、二人は破顔して、見送りをする。温かい家庭でよかったと、以前力登が言っていたのを思い出して、本当にその通りだと思う。
「行ってきます」
朝六時半。浦島桃耶は部活の朝練のため、きび団子を抱えて今日も登校した。
「鬼柳。おはよう」
登校途中、桃耶は前方に知り合いを見つけて、少し駆け足で近づく。桃耶の声に気付いた鬼柳なる人物は、一度立ち止まって振り返ると、射貫くような目で桃耶の顔を一瞥するなり、正面を向いて再び歩き出す。
そして、桃耶が隣に来たのを見計らって、小さな声を出す。
「……おはよう」
「ん」
澄んだその声に、いつもの如く小さな相槌を打つ。鬼柳は頷いて歩く足を少しだけ緩めた。
ショートボブの黒髪に、透けるような白い肌。吊り上がった目は刃のように鋭く、見るものを怯えさせることもある。薄い唇や、線の細いその体躯は、美少女と言って差し支えないが、いかんせんコミュニケーションをとるのがあまり得意ではない。そのうえ目つきが悪いせいで、人と話すのは困難だと本人は言っている。
そんな中、桃耶は昔からの付き合いで、鬼柳とは仲がいい。同じ剣道部になって、こうして朝練の時は一緒に登校するのだから、それなりに関係は築けているといってもいいだろう。
「今日は、勝負の日」
「ああ、そうでしたね。確か五十対五十一、でしたっけ」
「そう。私が一本負けてる。だけど、絶対勝つ」
「期待して待ってますよ」
剣道部は根っからの実力主義で、部長や副部長になるにも、専用の試合を何度も設けて回数を重ね、交代の時期までに多く勝ちを取ったものがやることになっている。言い換えれば、一年生でも部長になれるチャンスはあるということだ。
そして剣道部内でのトップが桃耶と鬼柳で、二人は最近、部長の座を巡って何度も勝負をしている。しかし一向に差がつかず、二人はずっと闘志を燃やしているという状態だ。現在の部長は呆れかえり、二人でやれば、という話も持ち上がっている。しかし、実力でのし上がってきた二人からしたら、これは見逃せない出来事で、部長の座はやれない。
「私もあなたも部長になりたい。そしてそのたびに周りが焚きつけられてやる気を出すのなら、それは好都合というものです」
「……私は、そこまで考えてない。ただ、勝ちたいだけ」
貴方だけに。
語尾にそんな言葉が聞こえたような気がして、桃耶は苦笑した。そこまで言われても、部長の座を譲る気はない。結局、彼女は桃耶に負ける運命なのだと思い知らせなければならない。
「おや、頭に桜が」
桃耶がさりげなく鬼柳の頭に触れ、桜を払う。すると、鬼柳は驚いた顔をして立ち止まった。いつもすたすたと速足で歩く彼女にしては珍しいその行動に、桃耶は首を傾げる。
だが、鬼柳はどうしてか怒ったように目を更に吊り上げて、いつも以上の速足で桃耶を置いていく。
「どうしたのですか、鬼柳」
「……なんでも、ない」
まさか彼女の顔が真っ赤になっているとは知らず、桃耶はそうですかと相槌を打った。鬼柳のおかしな行動はいつも通りとでも言いたげに。
顔を真っ赤にしたまま、桃耶を追いつけさせないような歩き方で鬼柳は目の前に迫った学校を目指す。まさか桃耶が気遣って一定の距離を保ってくれているとはつゆ知らず、二人はやがて校門をくぐった。
しかし、そのあまりある足の速さも瞬時に落ちる。何故なら校内から悲鳴が上がったからだ。
「キャアアアアア!」
甲高いその声に二人は顔を見合わせ、即座に駆け足でその悲鳴のもとへ向かう。ポーカーフェイスの鬼柳は表情に変化こそないものの、額から冷や汗を流している。一体校内で何があったのか。気が気でならない。
一方桃耶は悲鳴があがったその声に聞き覚えがある気がして、焦っていた。もしかして、なんて考えが浮かび、無理やり振り払う。
「やめて、来ないで!」
絶叫に近いその声が再び上がったとき、二人は声の出所を掴み、方向転換した。一階の職員室から、左に向かい、二階に上がる。あがってすぐの音楽室に、その声の主はいた。
眼球を真っ黒に染めた男が包丁を手に女生徒を襲い掛かろうとしている。そして、相対する女生徒は、大事そうに小さな箱を抱えていた。
「姫……、一体どうして」
思わず漏れたその声に鬼柳がいち早く気づいて、目の前で怯え切った女生徒を睨む。なるほど、あれがかの有名な乙姫の生まれ変わり。そして、浦島三兄弟にとって欠かせない存在。
「竜宮水姫……」
水姫は玉手箱を持って、腰を抜かしていた。




