1 夢
ぶくぶくと、泡がはじけていく。水の中で呼吸するというのは、こういう事か、とぼんやり考えていると、目の前の男は嬉しそうな顔を見せていた。
この人誰だろう、と思うより先に自分らしき女が何かを手渡していて、それに気を取られた。
袴を着た男性は、端正な顔立ちをしている。それは分かる。
だけど、肝心の顔が見えない。何処かで見た事があるはずなのに。
そのまま自分が手渡した箱に視線を移すと、それも何処かで見た事がある気がする。
流れるような青い景色の中、頭痛に似たものを覚えた。
なんだろう、これ。デジャヴという奴だろうか。
――いいですか、絶対に、開けてはなりませんよ
――分かった、守るよ、絶対に
――だから、またね。俺の、
――ひめ
ハッとなって目を開ける。今何時だろうと慌てて起き上がり、時計を見ると、まだ六時だった。七時にセットした時計が、鳴る事を待ちわびているかのように、ベッドの隅でコチコチと音を立てていた。
変な夢を見た気がする。
ぼんやりとしている頭を抱えて、少しだけ今しがた見ていた夢に考えを巡らせた。
見知らぬ男と、自分のような女が、和服を着て、何か話し合う様子。真っ青な水の中で、息をして、何かを渡していた。
訳も分からない内容に、しかし夢だから何でもありかと一人納得して、予定より早い起床にため息をつく。
大事な日だから、寝坊するよりかはマシだが、早く起きて後々式の途中で寝てしまったらどうしよう、と不安になる。だが今更寝なおすというのも気が引けるし、彼女はベッドから下りた。
「あー、制服、どこやったかしら」
ぼさぼさの髪をとりあえず手櫛で整えて、クローゼットの中をまさぐる。やがてビニールに包まれた何かを探り当てると、彼女は満足げに取り出した。
ビニールを破って中身の物を広げると、巷で可愛いと噂の高校の制服が出てくる。
クッキーのような色合いのブレザーに、胸元には赤のリボン。下のスカートは同じく赤色のチェック柄で長さも程よく、元気なイメージが強い。
「うん、可愛い」
この制服が着たくて必死に勉強したのは、記憶に新しい。彼女はウキウキ顔で制服に袖を通し、やがて身だしなみを整えると、下の階に降りた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、今日は早いのね。もしかして楽しみで寝れなかった?」
「まさか。ちょっと変な夢見て起きちゃっただけよ」
あくびをかみ殺すように言うと、そんな様子を見た母は苦笑して、朝食であるスクランブルエッグと、トーストをテーブルの上に置いた。
「あれ、もう朝ごはん出来てるの?」
「何だか水姫が早く起きてくる気がしたのよね。大当たりでびっくりだわ」
ふふ、と笑う母に水姫は驚きを隠せない。昔からこの穏やかな母には自分の気持ちが筒抜けになっている気がしていたが、今まさにそれを強く感じる。まあ、悪い気はしないので問題ないが。
水姫はへえ、と相槌を打って顔と手を洗うと、ややスッキリした表情で座り、手を合わせる。
「いただきます」
並べられたものはありきたりなメニューだし、会話だってどこにでも転がっているようなものばかり。
それでも水姫はこの何でもないようなシーンにこれ以上ないくらい幸せを感じる。どういう訳か、水姫は幼い頃から平凡な事が幸せであると感じとっていた。何の変哲もない、だがしかしそんな風に過ごせることこそ素晴らしいと。
まさかこの時の水姫は、その平凡が終わりを告げようとしているなんて知らずに、朝食を手早く食べ終えた。
女子というのは準備に時間がかかるもので、水姫もその一人。早く起きたのは一体何だったんだと、ため息をつくような時間をかけて学校に行く準備を終えると、既に7時半を回っていた。
慌てて真新しいローファーを履き、玄関に立つと、母は忙しい中駆け寄って来る。
「もう行くの?」
「うん、少し余裕を持って行こうと思って」
「そう、分かったわ。……いってらっしゃい」
「行ってきます」
鞄を肩にかけて、綺麗に整えた髪を気にしながら水姫はドアノブに手をかける。
すると、母が呼びとめて、何かを言いたそうに眉を寄せていた。
「……どうしたの?」
煮え切らない態度に、首を傾げて促すと、母は何処か慈しむような、しかし寂しげな目をして口を開くのだ。
「頑張ってね。水姫は、私の誇りなんだから」
「え?……うん?頑張る」
何を頑張るのか分からないが、どう返していいかも分からずそのまま返事をする。それよりも、母が彼女の事を誇りだなんて気恥かしい事を言うものだから、手を振って急いで外に出る。鍵を閉めると、自然と大きく呼吸をしていた。
「どうしたんだろ」
家の前に小さく貼られた石造りのネームプレートを見る。
“竜宮”と書かれたそれは、水姫の名字で、母が名前負けするわーとのんびり言っていたのを思い出す。 そんな母が、自分を誇り、だなんて。
恥ずかしいような、嬉しいような。そんな感情を振り払って、胸を張り、気合いを入れ直す。
真新しい制服に身を包んだ彼女は、愛らしいリボンを揺らして、意気込んだように歩きだす。
向かうは、私立御伽学園高校の入学式だ。