二
苫屋は少しずつ作り替えられました。人里の者から色々と暮らしに役に立つ知恵を教えられ、また、仕立てのおあしで道具を購い、お姫様は自らの暮らしを豊かにしてゆかれたのでございました。
男は狩人として、夫婦の食事になるもののほかに獲物を捕らえて、里に売りに行きます。
男は何故だか惨めになってきました。お姫様がお姫様でなくなってきてしまいました。せっせと針仕事をして、苫屋の中を住みよく片付けていくので、ふっくらとしていた手が痩せ、荒れてきました。長い髪も、働くのに邪魔だからと腰の上のあたりで切り揃え、お売りになってしまわれました。
お姫様がきちんと畳みこんでいる袿を出して羽織り、しくしくと泣いているのを、狩りから早く帰った時に、男は覗き見てしましました。そう言えば、お姫様はお屋敷にいた時と違って朗らかにお笑いにならない、いつも真面目そうに針を動かしているか、ぼんやりとしているかのどちらかだと、男は気付きました。
夫婦になって、ともに暮らしていければ仕合せなのだと思っていたのに、どうしてこうなってしまったのだろう、と男は悩みました。
暗い顔をしている男にお姫様はどうしたのかと尋ねられました。
「われがお世話をすると言うたのに、お姫様はお働きになり、おやつれになった。働かなくてもよいのだよ」
「苫人の妻だもの。こうしているのが似合いでしょう。
まろは身繕いの道具を揃えただけでは不足じゃ。櫛や鏡のほかに、紅や白粉が欲しい。替えの衣が欲しい。これから寒うなるのだから、寝衾が欲しい。もっと薪を集めねばなるまい。苫屋の囲いをしっかりと作らねばいくら火を焚いても暖まらぬぞえ。それに心を落ち着ける香が欲しい。
吾主ひとりで、みな揃えられるのか。無理であろう。まろは飢えと寒さで死にたくない」
妻となりながら、お姫様は少しも心をお許しになっていないと、男は悟りました。そしてお姫様をこのようにしてしまったのは自分の所為なのだと思い知らされました。
お姫様は言い過ぎたかとかえりみられ、夫である男に仰言いました。
「縁あってこうして二人で過しているのだから、二人で力を合わせていくのが一番だと思わぬか」
男は肯きながらも、涙が止まりませんでした。
翌朝、涙が止まらぬまま山に行き、男は曇った目で歩いていたため、急な山道を転げ落ちてしまいました。
お姫様は男が帰ってこないので、どうしたことだろうと思われました。余程の山奥に入ってしまったのだろうか、それともゆうべの諍いから帰る気をなくしたのだろうか。心細くなるのをご自分でお叱りになられました。帰ってこないのならそれでいいではないか、気紛れでまろを攫い、妻とした男だもの、気紛れで妻を捨てるような男なのだと、お姫様は気を強く持とうとご自身に言い聞かせるのでした。
男が帰ってこないまま十日が経とうとしていました。やはり帰りを待つのは止めようとお姫様はお決めなさいました。人里に下りて長者の家を頼ろうかとお考えになっておりますと、苫屋の外から声を掛けてくる者がありました。
「誰か」
と尋られました。
「わたしは狐です。どうか入れてくださいまし」
お姫様がそっと板戸をお開けになってみますと、白い尻尾の狐がちょこんと座っておりました。あの時の狐か、思い起こしながら、お姫様は狐を苫屋にお入れになりました。
「ご恩返しをするのが遅れて申し訳ございません。子狐だったわたしはこのように大きくなりました。やっとあなた様をお助けすることができます。さあ、お屋敷に連れていって差し上げます」
「鄙に埋もれてしまったまろが帰って、お父上はお喜びになるであろうか」
「大丈夫です。きっとお喜びになりますから、わたしの背におつかまりください」
お姫様はしまい込んでいた袿と袴を出してお着替えなさいました。
「見苦しくはないだろうか」
「はい。前と変わらずお美しいです」
狐はお姫様を背に乗せて、ふわりと空に舞い上がりました。狐は空を駆け、お屋敷にお姫様をお連れしました。
お屋敷の庭に降り立ち、狐は大きな声で知らせました。
「おおい、皆の者、お姫様のお戻りである」
その声にお屋敷の者が集まりました。お父上やご兄弟、使用人たちがお姫様の姿を認めて、喜びました。
「今までどうしておったのか」
お父上のもっともなご質問に、下働きの男衆の一人に攫われて山里で暮らしていたが、こうして以前に助けた子狐が成長し、ここまで連れてきてくれたと、お姫様は正直に答えられました。すっかりやつれて、髪も短くまとめられていたので、苦労したのだろうとお父上もご兄弟も涙を流されます。
まずはゆっくりと休むがよいと仰せになり、お姫様をお屋敷にお迎えします。狐に何か褒美を取らせようとお父上が仰せになりましたが、狐は断りました。
「お姫様から受けた恩をお返ししたまでのこと。これでご縁は終わりました。わたしは山に帰ります。どうかこれからもお姫様を大事になさってください」
狐は白い尻尾をくるりと振って、お屋敷から去っていきました。
「なんとやさしい狐であろう。そしてなんと潔い」
お姫様は手をお合わせになり、感謝なさいました。お父上もご兄弟もそれに倣われました。
深く事情は訊かずとも、男に攫われたのですから、夫婦としてお暮しになられていたのだろうとお父上はお察しになられます。
「姫を攫った男はどうしたのだ?」
「急に帰らなくなりました。日が経ち、もう逃げようと思い立ったところにあの狐が現れました」
「不思議な巡り合わせがあるものだ。まずは元の暮らしに戻ることだけを考えなさい」
「そのようにいたします」
苫屋に連れ去られても、気を強くお保ちであった気性のお陰でしょうか、お姫様はすぐに元のような朗らかさを取り戻されました。夫となった男は黙って帰らなくなったのだ、自分があの苫屋から姿を消しても驚きはしまいと、お姫様は苫屋での暮らしを忘れ去ろうとなさいました。何がお姫様を変え、どう男が思ったかなど、男の心の内の嘆きを知りようがございません。たとえいっときの仮初のものであっても、ただ自分を恋い慕い、大事に世話しようとした気持ちには偽りはなかったのであろうと、すこしあはれとお思いになるだけでございました。
一時行方が知れなくなり、その後お戻りなったと解りましたが、お姫様が大臣家の姫君の女房になるお話はなくなりました。もはや仕方のないこととお諦めなさいます。これからはご兄弟の妻問もあろうし、お父上も後妻を迎えるやも知れぬ、自分の身の置き所はどうしたらいいのだろうと、お姫様は真剣にお考えになられます。今更知らぬ顔をしてお婿を決めるのもお相手に対して心苦しい、家族の行く末を見定めたら、尼になり、あの山里に籠もろうかともお悩みになられます。
そうしてお床に着きますと、夢枕に白い尻尾の狐が現れました。
「折角お助け申し上げたのに、なにゆえまた山里に籠もろうなどとお考えになるのですか?」
お姫様はお答えします。
「今の暮らしを続けることで精一杯。これから新しい家族ができると想像すると、苫屋でのことを知られまいと苦しむかも知れぬ。怖いのです」
狐は尻尾を振ってお姫様を勇気付けようとしたようです。
「苫屋で弱ることなく、たつきの道をお探しになった方が不甲斐ない仰言りようをなさいますな。新しくお婿様をお迎えなさいませ。ご兄弟が結婚されたら、そのお嫁様とも仲良くしなさいませ。どうしてもうまくいかなければ、その時に尼になってお山に行けばよろしいのですよ。朗らかにしていらっしゃれば、福を呼び込む力が湧いてきます」
お姫様は肯かれました。
「そうしましょう。もし山に行きたくなったら、案内しておくれかい」
「もしそうなればお連れしましょう。でも、そんな日は来ないでしょう」
お姫様は夢から覚め、狐の言うとおりだと、晴れわたった青空のような心持ちになられました。
丁度、大臣家に出入りをしている文官の貴族の中で、お裁縫の得意なお姫様にお会いしたいと願っている者がおりました。大臣家の姫君の女房になる話が立ち消えとなってしまいましたので、どうやったらお会いできるだろうか、直接そのお屋敷に文を遣わすしかないのだろうかとお迷いになっておいででした。内裏でお仕事の際に、お姫様のお父上をお見掛けしました。文官はお父上にお声を掛けました。お姫様に文を差し上げたい、衣の襲などお詳しいらしいので、季節に相応しい衣装についてぜひお伺いしたいのですと申し上げました。お父上は衣装のことだけではないとお感じでしたが、文官の申し込みを快諾なさいました。
こうして、お姫様の許に文官からのお文が届けられるようになりました。お姫様は文官の文から真面目な人柄が察せられ、好ましいとお感じになり、お返事をなさいました。何回かの文の遣り取りが続き、お姫様は文官とお会いするとお決めになられたのでした。
お姫様はお屋敷に訪ねてきた文官に、自らの身の上に起こったことを包み隠さずお話しされました。狐との夢でのお話も。
「それは不思議な出来事ですね。でも、あなたとお話していると本当のことと思います。隠し事をなさらぬあなたを嫌いにはなれません。もっとあなたを知りたいと思います」
文官の申し出にお姫様は安心しましたし、相手をもっと知りたいと思われたのはお姫様も同様でございました。
やがて、お姫様は文官と夫婦になられました。仲睦まじくお過ごしになり、すぐにお子も授かりました。朗らかにしていれば、福を呼び込むのは真のことと、夫婦ともども狐に感謝の気持ちを忘れずにいらっしゃいました。
一方、山道から転げ落ちた男は命は助かりましたが、大怪我を負い、しばらく動けませんでした。近くを通りかかったほかの狩人に助けてもらい、怪我の手当てをしてもらいました。なんとか体が動くようになったのは一月も経った頃でした。お姫様はどうしたろうか、飢えていないだろうかと、体を引きずるようにして苫屋に帰ると、誰もいません。お姫様は出ていってしまわれたのだと、男はまた泣き出しました。お世話をすると申し上げたのに、それすら遂げられないのでは見捨てられても仕方がないのかと思いましたが、一体どこにお姫様は消えてしまわれたのでしょう。男は人里に下りて、長者の家を訪ねましたが、仕立て物を届けてもらった後は顔を出さなくなったから、男と住まいを変えたとばかり思っていたと言われました。
男はしばらく山に籠もって嘆きながら暮らしていました。思い切って男は京の都のお姫様の住んでいたお屋敷に行ってみました。お屋敷の者に見つからないように顔を隠すようにして、そおっと忍んで行きました。
垣根の間から覗いて見ると、お姫様が若い男と一緒に端近に座っておりました。若い男は貴族のようでした。ああ、お姫様はあの若い貴族と今はご一緒なのだ、そしてお姫様は乳飲み子をお抱きになっておいでだ、われとめおとであったのになんということか、と男はその場に踏み込んでいこうかと、かっとなってしまいました。
その時、何か楽しいことがあったのか、乳飲み子が可愛らしい声で笑いました。お姫様もつられたように朗らかにお笑いになりました。
その様子に、男は自分と暮らしていた頃は、お姫様はあのように仕合せそうに笑ったことがないと気付きました。
お姫様の仕合せを望むのなら、黙って自分が山に帰るしかないと男は寂しく肩を落としました。自分がいくらお世話をしようとしても無理があったのだ、お姫様は山でのお暮しではこのようにお過しにはなれないのだ、と二度と都に立ち寄りませんでした。
狐が恩を返したばかりでなく、お姫様の生来持つお心の強さと朗らかさが福を招いたと語り伝えられております。