花の名前の侍女
時は過ぎ、夕方。
寮で寝泊まりしている二人とは別れ、僕は城の方に戻っていた。
カーテン越しに射し込む夕日が、白を基調とした部屋を暖かい色に染めている。
入浴を済ませた後、天蓋付きの豪華な寝台に寝転んだ。
お日様の匂いのする寝具と、身体のほてりが冷めていく感覚がとても心地良い。
侍女が夕食に呼びに来るまで暇だし、このまま少し眠ろうかな……。
「……あ、そうだ、論文」
ふと、サリーから出された宿題を思いだし、のそのそと体を起こす。
ふかふかの絨毯の上を歩き、机上の鞄から一冊の参考書を引っ張り出した。
それを持って再び寝台に飛び込み、『魔物の生態について』という小見出しのページを開いた。
『――魔物は、作り出した魔法使いの命令通りに行動します。
しかし作者の魔法使いが亡くなると、しだいに魔力は薄れ、魔物は自我を持つようになります。
近年、大魔導師ロディ・ルインに作られた大量の魔物が、野生化し攻撃的になり、人間や動植物を脅かしていることは、国内に限らず他国にも危害を及ぼす大きな問題です――』
読みながら、論文に使えそうな部分に鉛筆で印をつけていく。
大魔導師ロディ・ルイン……要するに、魔王のことだ。
魔物の作成方法を知っているのも、彼しかいなかった。
彼が亡くなった現在では、他の魔導師の手により魔物が増えることはないが……。
(魔物たちが勝手に増殖して都外が大変なことになってるって、父上が言っていたな……)
僕も、何か出来ることがあればいいのに。
そんなことを悶々と考えながら、次のページを捲ろうとしたとき、コンコン、と軽いノックの音が聞こえた。
「シルク様、ご夕食の時間です」
語尾に音符がついたような、明るいトーンの声。
(あれ、まだ時間があると思ってたけど……)
枕元の時計を確認しながら、首を捻る。
今日は晩餐で何かあるのかな。
それらは一先ず置いておき、ドアに「入って良いよ」と答えると、「失礼いたします」と、ガチャリとドアが開いた。
そこにいたのは、メイド用の黒いスカートと白いエプロンをまとった、明るい茶色のふわふわした髪の女の子だった。
彼女はローズ・ホワイト、いつも夕食の時間を知らせに来てくれる侍女だ。
ローズは、ペコリとお辞儀をし、
「こんばんは、シルク様。本日も学校お疲れ様でした」
ふわりと微笑む彼女に、僕も自然と笑顔になる。
「今日は夕食の時間が早いんだね」
教科書を閉じ、寝台から降りながら何気なく言うと、机の上の花瓶を見ていたローズは、思い出したように僕を振り返った。
「あっ、それが……本日の晩餐、隣国フロスティーヌの第一王子様も参加されることになったのです」
「えっ?」
思わず教科書を落とした。
その角は、一直線に、靴下のみを履いた足に直撃する。
「あっ、わっ、大丈夫ですか?!」
一連を見届けたローズはこちらに駆け寄り、驚きと心配の色が混ざった目で、僕を見つめた。
その瞳は、この地方では珍しい紫色。
彼女の背丈は僕より少し低いくらいなので、僕からだと彼女の長いまつげや綺麗な肌も、近距離でよりはっきりと見ることができる。
やっぱり、侍女だけでいるなんてもったいないな……。
……とかいう観察をして現実逃避をしてみても、やっぱり足は痛い。
すごく痛い。
「ああ、シルク様、泣かないで……!」
「ううっ……もう僕行きたくない……足痛いもん……」
「そ、そんなあ……今日の夕食にはシルク様のお好きな鶏の唐揚げも出ると、料理長さんがおっしゃっていましたよ!」
「え、そうなの……? じゃあがんばろうかな……」
あの鶏肉料理の最高傑作とも言える美味な一品を思いだし、一瞬で足の痛みなんか忘れて、わくわくしながら宴会用の服を受け取った。
いつもより装飾の多いきらびやかな服に着替え、ローズに髪を整えてもらう。
そして部屋を出るときにはもう、何故正装に着替えたかなんていう理由は、完全に忘却していたのだった。
外はもう暗くなり、月が上りかけていた。
長く静かな廊下は、晩餐が行われる広間に近づくにつれて、だんだんとざわめいてくる。
目的の扉にもう少しで着く、というとき、そこにいつもより見張りの兵士が多いことに気がついた。
そこでやっと、今日は隣国の王子が来ていたことを思い出した。
「アイルス王子は何故、今この国に?」
「へ?……ああ、そうでした、フロスティーヌの王子様がいらっしゃっているんでしたね」
ローズは思い出したように言ってから、へへへとはにかむ。
どうやら彼女も忘れていたようだ。
何となく嬉しい。
「隣国フロスティーヌには、お城が二つあることはご存じでしょうか?」
「ああ、知ってるよ」
フロスティーヌは、この国の北部にある山脈の、さらに北側に位置する雪国だ。
国土はこの国の約二倍。
国内には、山脈の麓に一つと、山上に一つ、王家の所有する城が建っている。
そしてフロスティーヌ王国の王家は、季節により住む城を変えていた。
「もう新芽も吹きましたから、フロスティーヌの国王様は、再び山上の城の方へ戻られることをお決めになったそうなのです。その移動の際、王子様は交流も兼ねて異国へ預けられる習慣がありまして……」
「そうか、その『異国』が、今回はこのレインルインなんだね」
なるほど、と納得して、扉を見つめる。
その行事の話は耳にしたことがあったが、この国に王子が来るのは、僕が生まれてからは初めてだ。
このレインルインの他にも、フロスティーヌと仲の良い国はたくさんある。
……というより、百年前に国同士の争いが無くなった今では、そんなの選び放題だ。
そうこうしているうちに、目的の扉の前についた。
「では、いってらっしゃいませ」
そう言ってお辞儀をするローズに、頷き返して微笑む。
そして、重い扉を押した。