旅立ちの夜
「学校は明後日から春休み。王子様は家出のふりして、旅行に出掛ける……。そうするとおばあちゃんは、ウェーデル侯爵に『婚約についての手紙』を書くことができなくなっちゃう。だって、」
ルリーはそこで僕の方を振り返って、ニヤッといたずらっ子のように笑い、
「王子は、“モモとの婚約を知ったから家出した”……なんて、侯爵に聞かれたら、両家の関係が悪くなるでしょ?」
「…………」
なるほど、名案だ。
そうすれば間違いなく、僕とモモの婚約はなくなる……!
「その間に、モモと王子様のお友達は、公式に婚約。そして王子様は春休みが終わる頃、何食わぬ顔で帰ってくる。はい、めでたしめでたし、ってね! 当たりでしょ?」
彼女はそう言い切って、得意気に僕を見つめた。
そんなこと、思い付きもしなかった。
確かに誰も不幸せにならない、とてもいい考えだ。
――けれども、“当たり”ではない。
僕は、『帰ってくる』つもりでは、なかったから。
……けど…………。
「正解だよ」
僕はまた嘘をついた。
「それで、僕に何をさせたいの?」
「あなたね、甘いわ」
突然のズバッとした言い方に、思わず眉をひそめる。
ルリーは胸の前で腕を組み、
「旅行って、王の都の外へ行くのよね? それには“城下町”を通らなければいけないでしょ?」
王の都は、王城と、それを囲うように栄える城下町、この二つを合わせた場所のことを言う。
だからこの城から王の都の外へ行くには、必ず城下町を通らなけらばならない。
「市民はよほど詳しい人じゃない限り、あなたが正装以外の服を着ていたら、『王子様』だってわかんないと思うの」
ルリーはそこで、ぴんと人差し指を伸ばし、
「けれど城下町には、用事で来ている城の兵士や使用人がいるかもしれないでしょ。そこが問題よ、いつもの格好で行ったら、確実に気づかれるわ」
「だから……このマントと帽子?」
渡された服は、茶色のキャスケット帽に、短い緑のマントだった。
「私ね、そのマントを着て、こっそり街の方にもよく出入りしてるの」
そう言ったあと、ルリーは困ったように笑って、
「“こっそり”行ってるつもりなんだけど、みんな私だってわかってるのよね。……だから、そのマントと帽子の人が歩いてると、城の人は『ああ、またルリー姫がお忍びで遊んでる』……って思うわけ」
そう言いながら、ルリーは僕に帽子を被せる。
「つまり――それを着ていれば、誰にも気づかれず、王の都を出られるわ」
帽子は思いの外、ぴったりだった。
「ローズ」
「あら、シルク様、起きていらしたんですね」
午後九時、ローズは灯りを持って、僕の部屋に来た。
ベッドに腰かけている僕に微笑み、
「皆様、心配していらっしゃいましたよ。具合はいかがですか?」
「まあまあかな」
ローズの言葉に、僕はいつもと変わらない調子で答えるように努めた。
……出発は今夜、十二時。
鞄と服は、寝台の下に置いている。
そのとき、ふと思い立って、
「ローズ、ここ座ってよ」
ぽんぽんと、僕の隣を叩く。
「いえ、そんな……」
「いいからいいから」
「は……はい、じゃあ失礼しますね」
彼女はちょっと緊張した様子で、僕の隣に腰かけた。
「ローズは十二歳の頃、この城に来たよね」
「はい。銀の都から、母と共にこちらへ」
「大丈夫? いじめられたりしてない?」
「いえいえ、皆様優しい方ばかりですよ。シルク様も」
ローズはふふ、と柔らかく笑う。
「そっか、よかった」
……あれ、僕、なんでこんなこと言ってるんだろう。
……なんで……?
「シルク様、何故突然そのようなことを?」
「んー……何でもない。話したかっただけ」
もういいよ、と言って、僕は布団に潜った。
そうですか、とローズは微笑み、
「お大事になさってくださいね」
「うん、よく寝ておくよ」
「それでは、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
パタリと、扉が閉じられる。
その気持ちは、僕が他のことでいっぱいじゃなかったら、気づくことができたかもしれない。
バルコニーから、近くの木につかまり、そのままするすると地面へ降りる。
城門へ向かって歩きながら、帽子を深くかぶり直す。
風に、僕の目の色と同じ、緑のマントが揺れた。
「――どこへ行くつもりなの?」
「『翠の都』だよ」
ローズが部屋に来る前、ルリーに尋ねられたとき、僕はそう答えた。
このレインルイン王国には、トライアングルのような形の国土に、四つの大きな都市がある。
内陸側の東の『翠の都』。
山脈側の北の『銀の都』。
海岸側の西の『碧の都』。
そして、国の中央にあるのがこの『王の都』だ。
翠の都は、『緑の大魔導師』の護る都市。
金の大魔導師ルルードは、彼なら僕にかかっているらしい魔術を解けると言っていた。
だから、直接彼に会い、それを尋ねてみるつもりだった。
「けど、街をじっくり見たことはないんだ」
「綺麗な街よ。人も優しいし、町外れの村では養鶏が盛んで、料理が美味しいわ。あと、宝石も採れるの」
ルリーは答えながら、楽しそうだった。
振り返ると、夜空に映える、白く美しい城がそこにあった。
足を進めるたび、その姿は小さくなっていく。
「――じゃあね」
僕の旅立ちを、月だけが見ていた。
第一章 終




