着想中毒
クラシック音楽を私はあまりよく知らない。それどころか、音楽というものを分かってはいない。単なる素人の聞き手として好きなだけであるかも知れない。
ピアノもいい。バイオリンもいい。それらに決して詳しいわけではないが、その他の楽器はもっと知らない。だから、オーケストラは豪華すぎてますますよく分からない。
youtubeの動画配信で、初めて耳にする曲も多い。私にとってクラシック音楽とは、あまりにも膨大なライブラリであって、その中での私などまるで風に彷徨う一片の木の葉のようであって、ただ広大無辺の叡智の空をひらひらと飛ぶでもなく浮くでもなく漂っているだけである。
それでも、音楽は私に何かをもたらしてくれる。それは生活への安らぎであったり、素人ながら書いている詩や小説への着想であったり、まだ知覚しえない生きるための何かの感触であったりする。
特に、詩作への影響は大きい。いくつかは、それなしでは出来なかったともいえるのだから、いまやクラシック音楽は私にとって欠かせないものとなっている。
しかし、なんでもいいわけでもないようで、こころに留まる曲と留まらない曲がある。あるピアニストが作曲した曲がやたらと気に入って、アルバムを購入して車内でかけっぱなしにしているかと思うと、有名古典曲であっても一度聞くだけでもう興味のないものもある。
我がまま勝手な聞き手である私が思うクラシック音楽の魅力とは、背景にある伝統的な時間の流れと、その中で流れている人類にもたらされた叡智という名の情熱の気配であろう。
その気配を感じる時、私の中で着想が生まれ、もどかしく拙い詩が生まれる。 その着想に浸るとき、私は悠久の流れの中に泳ぎ回る大魚の尻尾の先に触れるような感覚に陥る。透明な青い時間の流れの中を時折巨大な背中を水面に見せる堂々としたそれは、その身の中に真っ赤な灼熱の心臓をどっくどっくと脈打たせている。つかの間、私にその血液が流れ込むような眩暈を送り込み、気が付けば着想という鱗一枚を残して泳ぎ去ってしまう。
私は、その鱗を手に取り眺め、口にして味わう。その時、私と先人たち――あるいはシューベルト、あるいはリスト、あるいはグノー……――との間に細い透明な糸のような何かが繋がっているような希望を感じる。
芸術の深淵を覗くようなその瞬間、私は胸が詰まるような焦りに襲われて、この温度が消えないうちに何とか言葉にしようと足掻く。そうしてその感覚の何分の一か、いや何十分の一かをやっと言葉にし終えると、少し安心を感じるのだが、それとて次の着想への準備にしか過ぎない。
何時の間にか、私は着想中毒になっているようである。しかも、着想の持たらし手は、そこら中に居る。
奇跡の集合である季節そのもの、その季節と季節の間のまだ名のない日々、動かしがたいものを易々と動かす水の流れ、姿なき透明な神と死神の二つの顔を持つ大気、そして神秘に満ちたクラッシック音楽。
様々な着想が私へと届く。私は誰にも頼まれていないのに、それらをどうにかしようとしている。これがやむおえない自分を承認しようとする欲求なのか、それとも連続する突発的な芸術的な衝動なのか、それとも社会生活からはみ出た自分自身に対する誤魔化しなのか、それともその全てなのかは、私には分からないけれど、一つ言えることは、クラッシック音楽とは、ある種類の人間にとっては中毒性を持つ伝統的美であるということである。それを聴くだけで飽き足らない者は、もはやその中毒者になっているといえる。
着想をそのまま持っておいて、頭やこころの中で転がして、やがて育つのを待てば何か生まれるかもしれない。でも面倒なら捨てても構わない。どうするのかはあなた次第であるから、私の構うところではない。そういうことも自由であろう。
2022/1/19 誤字修正