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乙女ゲームのヒロインに転生したら寝取られた件について

作者: 鉄箱


――0――




 ハートフル→ロンリー☆オンリー


 あたしには、前世と呼ぶべき知識がある。

 正直なところ、自分自身が前世でどんな人間で、どんな暮らしをしていて、何歳でどんな風に死んだかなんてこれっぽっちも覚えていない。けれど今世で、高校入学前に制服を着て鏡を見たとき、このタイトルが頭の中を駆け巡った。


「ここ、乙女ゲームの世界だ」


 “ハートフル→ロンリー☆オンリー”

 初心者向けの乙女ゲームで、過激な表現が増えてきて、さらにその風潮に飽きてきた時代に一世風靡をもたらした、“超健全ゲーム”だ。

 かっこいい男の子たち。ライバルの悪役たちも、凄惨なことにはならない。バッドエンドもなくて、強いていうのなら誰とも付き合えない“友情エンド”がバッドエンドの代わり。そんな乙女ゲームをこれから始めたい人や、ヤンデレや過激なシーンに飽きてきた人たちに大ブームを起こさせたゲームに、前世のあたしはよほどハマっていたのだろう。

 瞼を閉じるだけで脳裏に展開されるフローチャート。設定集の端っこに書かれた原作者のメモ。エンディングロールに記された制作者の名前まで思い出せたときは、さすがに前世の自分にちょっとだけ引いた。

 だが、そんなことは些事だ。鏡に映る自分の姿は、もはや見間違えることなんてあり得ないと言い張れるほどに自己投影してきた、茶色のウェーブに鳶色の瞳、小柄な体格のゆるふわ女子。


 “ハートフル→ロンリー☆オンリー”のヒロイン、“三枝さえぐさ瀬奈せな”に間違いなかった。


「本当に、そうなんだ」


 思い浮かべるのは、攻略対象の魅力的な男子たち。




 孤高の王子――四十万しじま誠一朗。

 クールだけど心を許した人には柔らかい微笑みを見せる生徒会長。


 王子の右腕――獅堂邦一。

 笑顔の下ではいつも冷めている。だけど本当は誰よりも友達思いな副会長。


 バスケ部のエース――畑中真人。

 明るい笑顔とポジティブさが魅力のスポーツ男子。嘘をつけない一本気なひと。


 ヒロインの幼馴染み――たつみ恵吾。

 ぶっきらぼうだけど、気がついたら側にいてくれる不器用ツンデレ男子。


 図書館の守人――睦月要。

 隠しキャラで古典の先生。寡黙だけれども優しく、そして心に傷を負っている。




 あたしは、彼らの攻略方法をしっかりちゃっかり覚えていた。どうすれば仲良くなれるのか。どうすれば心を開いてくれるのか。どうすれば、あたしを見て、くれるのか。


 思わず、顔に熱が集まる。

 健全乙女ゲームだったから、逆ハーレムはない。けれど健全だったからこそ、友情エンドに向かう前に、最後まで個別エンディングへの分岐点が用意されていた。

 完全に、今世をゲームの世界と割り切れるほどお花畑な頭はしていない。と、思う。けれど、気になるじゃないか。あたしがもし本当にヒロインなら、あの感動のシーンや胸がときめく瞬間を間近で見ることができるのだから。


「それに、運良く付き合えちゃったりとかしたら……きゃぁーっ」


 考えるだけでも、胸がときめく。

 来週からは、もう、乙女ゲームの舞台でありプロローグを演出してくれる場所でもある“月雲つきぐも学園”での生活が始まると思うと、いてもたってもいられなかった。

 前世の自分がどんな人間かなんて、もはや関係ない。ただ前世の自分のおかげでかっこいい男の子たちと親密な関係になれる! ……かも、という状況にときめかないはずがない。

 あたしは前世の自分に最大限の感謝の黙祷を捧げると、待ち遠しい入学式を夢に見ながら制服を綺麗にたたんで、ベッドに飛び込んだ。






 この記憶があたしを幸せにしてくれる。

 そう、信じて疑うことなどないままに――。














乙女ゲームのヒロインに転生したら寝取られた件について













――1――




 期待と、同じだけの不安。それ以上の興奮を胸に望んだ入学式。

 幸い、前世はどうか知らないけれど、今世はコミュ障という訳でなければあがり症ということもない。ちょうどゲームの主人公も快活な性格だったこともあり、あたしは特に演技をしたりヒロインになりきったりすることもなく高校生活になじむことができた。


「おはよー」

「あ、瀬奈ちゃん! おはよー」


 隣の席の女の子。

 ゲームの中では奇妙なほどに情報通でヒロインをサポートしてくれた彼女も、この好感度もスチルもエフェクトもないリアルな世界では、ただの噂好きな女の子だ。


「美佳ちゃん美佳ちゃん、昨日のドラマ、見た?」

「見た見た! まさかこうちゃんがなぁー」


 長谷川美佳。

 黒髪三つ編み眼鏡の狙い澄ましたかのような委員長キャラ。ヒロインのサポートをはれるだけあって、性格がよくてあたしとも話が合う。彼女が高校生活で初めての友達になるのに、たいした時間はいらなかった。


「そうそう、聞いた? 瀬奈ちゃん」

「ん? なにを?」

「今日、転入生が来るんだって!」

「おおっ、そうなんだ!」


 来た。

 思わずそう、内心でガッツポーズを作る。


 物語のプロローグは、ヒロインの幼馴染みの転入からスタートする。

 昔なじみの男の子と再開したヒロインが、その出会いをきっかけに色んな男の子と知り合っていく、というものだ。

 今か今かと待ち続けたこの瞬間。あたしは隣に座る美佳ちゃんと一緒に逸る心を抑えつつ、おじいちゃん先生がHRを進行させる様を見つめる。


 そして。


「えーでは、皆さんの新しいクラスメートを、紹介しましょう」


 おじいちゃん先生に促されて、がっしりとした体つきの少年が教室に踏み込む。

 逆立たせた黒い髪。鋭い目つきと整った顔立ち。


「巽恵吾、です。よろしく」


 頭を下げて、上げた先。

 目を丸くしたあたしと目が合った恵吾君は、照れくさそうに視線を外してそっぽを向いた。


 ついに、始まる。

 あたしが二つ分の生涯で夢見た展開が、目の前に迫っている。そう考えただけで高鳴る鼓動をあたしは両手で包み込んで抑えて、小さく笑みをこぼした。
















――2――




 それからというもの、あたしは順調にイベントをこなしていった。




 主人公の幼馴染み、巽恵吾。

 もちろん設定だけなんてことはなく、あたしも普通に小さい頃に遊んだし、ご両親の離婚がきっかけで離ればなれになるときは大泣きしたのも、ちゃんと覚えている。

 そんな彼を攻略するポイントは、回顧だ。恵吾君は離婚でぐれて、一度道を踏み外す。昔抱いたヒロインへの恋心を今も抱いていいのか、不良同士の抗争で相手に、偶然とはいえ怪我を負わせてしまった過去が躊躇わせる。でもヒロインはすっかり雰囲気の変わってしまった彼に昔のように微笑みかけて、荒んでしまった彼の心を優しく包み込むのだ。


 このゲーム。実は、所謂ライバルキャラといえる女の子は一人しかいない。その一人以外はみんな、家庭環境や交友関係なんかが、恋の障害として立ちふさがる。

 そんな恵吾君のライバルキャラは、母親だ。恵吾君に喧嘩別れした父の姿を重ねている彼女は、恵吾君に対して素直になれない。そんな彼女を攻略することこそが、実は、恵吾君ルートの醍醐味だったらする。




「覚えてる? 恵吾君、あそこの山道で迷子になったの」

「……なんでそんなどうでもいいこと覚えてるんだよ」

「だって、あのときの恵吾君、すっごくおもしろかったんだもん! 忘れられないね、アレは」

「ちっ……ほんと、変わらないな。おまえ」

「恵吾君だって! 全然変わらないよ。あ、目つきは悪くなったかな?」

「くっ、ははっ……なんだよ、それ。でもそうか、変わらない、か」




 もっとも、あたしはまだそんなことはできない。

 これはルートを確定するイベントだから、さすがにここをどうにかするのは早すぎる。

 健全ゲームというだけあって、ヒロインに選ばれなかった男の子が抱える問題も、高校卒業してから、とか、社会人になってから、とか先送りはされるけれど、“後日談”的な部分でちゃんと解決できるようになっている設定だ。恵吾君には悪いけれど、ルート確定するかどうかわからない以上、ちょっと待ってもらおうかな。






 続いて、バスケ部のエース、畑中真人。

 襟足までの真っ赤なショートヘアを汗でぬらして、笑顔を輝かせるスポーツ少年。あたしにとっては、一つ上の先輩だ。嘘をつけない一本気な少年。そんな彼の攻略ポイントは、相談だ。彼の所属するバスケ部で、親友が怪我を理由に道を踏み外そうとしている。そのことを誰にも相談できず、一人で抱え込んでしまうことは、嘘をつけない彼にとって苦痛なことだった。そのことに悩み、葛藤する彼の姿を、ヒロインは校舎裏で偶然見かける。放って置けずに事情を聞くヒロインに、彼は接点の薄さも手伝ってヒロインに相談をするようになるのだ。その相談に適切な選択肢を選べ続けることにより、彼は親友と向き合うようになる。その課程で、真摯なヒロインに心惹かれていく、という流れだ。




「先輩は、やりたいことを我慢しちゃだめです」

「でも、おれ……」

「我慢して壊れちゃう先輩は、見たくないです。だから、迷ったら話してください。立ち上がれなくなったら教えてください。先輩の力に、ならせてください」

「セナ……あー、もう、なっさけねぇ! コーハイの女の子に、励まされちゃうなんてなぁ」




 もちろん、彼のライバルキャラは親友。

 彼の成功を妬む親友の男の子を、彼と一緒に説得するために駆け回るというのが、ルート確定のためのイベントだ。もちろん、申し訳ないけれどここは流させてもらう。






 その後は副会長――に、行く前に、先に図書館に向かうことにした。

 というのもこのゲームの隠しキャラの出現条件は、条件さえ知っていれば一週目でも出せる、というものなのだ。そう考えると生徒会の顧問でもある隠しキャラの先生から攻略した方が、生徒会の攻略がスムーズになったりする。もちろん、条件なんか丸暗記していた前世のあたし。その記憶を頼りに、図書館へと足を向けた。


 睦月要先生。

 橙色の左目を長く伸ばした白髪で隠し、銀縁の眼鏡をかけた寡黙な先生。彼を攻略するためのポイントは、安心だ。過去の経験が元で女性を、ひいては他人を信用できない。けれど幼い頃に抱いた夢に縛られ、教師でいることから逃れることができない。そんな彼にヒロインは、ただひたすら近くに座って、時折目が合ったときに微笑み返す。先生の難易度が高い理由は、心を許してくれるまではひたすら無言でなければならないということだ。声をかけたらアウト。焦りは禁物。人を警戒する動物を安心させるように、ひたすら待つ。そのヒロインの穏やかな空気に少しずつ心を開き、自分から話しかけてくれるのをとにかく待つ。先生があたしに話しかけてくれ始めてようやく、活路が見いだせるのだ。




「三枝は、騒がないんだな」

「? 図書館ですからね。あ、先生も、あんまり大きな声出しちゃだめですよ」

「……ああ、ああ、そうだな。先生、だからな」

「あっ、生意気なことをいいました……ごめんなさい」

「いい。気にするな。いや、違うな……そうしてくれた方が休まる」

「そうですか? よかったっ」




 睦月先生ルートの障害は、ずばり“過去”だ。

 昔、信じていた女性に裏切られてお金を持ち逃げされた。ショックで交通事故に遭い左目の視力を失ってから、少しずつ人間を信じられなくなっていったのだ。今はルートには入れないけれど、このままでも力になれたらいいな、とは思う。幼い頃からの夢だった、私塾を持って学びたい子供たちを学ばせるという在り方を、画面越しに見ていたあたしはひどく尊敬の念を抱いたことを覚えていた。






 生徒会長と副会長のルートは、表裏一体だ。

 幼い頃から要領がよかったために、彼――副会長、獅堂邦一は本当の自分を見抜かれることを望んでいる。そんな彼の攻略ポイントは、心配だ。心配し、相談され、頼られてきた副会長。そんな彼をゆっくりと支え、本音が言えるようにサポートする必要がある。最初から見抜いているように振る舞うのではない。とにかく、大人っぽい彼を等身大の少年として見続けるのがポイントだ。




「獅堂先輩っ。また、無理してる」

「? 何を言ってるのかな? ぼくは、無理なんか……」

「はい、アウト! いつもだったら軽く流すのに、ちょっとムッとしましたよね?」

「……はぁ、君にはかなわないな」

「じゃ、保健室行ってくださいね! 本当に、無茶ばっかりするんだもん」

「いいよ。ただちょっと疲れちゃったみたいだから――連れて行って、くれるかな?」




 見た目は好青年、実は腹黒、本当は甘えん坊。そんな彼を攻略する際の障害は、なんと生徒会長だったりする。幼い頃から要領がよすぎる親友を心配していた会長は、さりげなく副会長を守ろうとする。だから、副会長を攻略するためには、最低限必要なマナーと鍛え上げられた知力・魅力のパラメーターを武器に、生徒会長に「自分たちに近づいてきても大丈夫な人間」として認められる必要があるのだ。

 最終的には、副会長が会長に内心で芽生えていた劣等感を解消してあげて、目出度くハッピーエンド……なのだけれど、例のごとくそこまでは踏み込まないように気をつけさせてもらった。






 そうして、いよいよメイン攻略キャラだ。


 パッケージの表紙でもメインを飾るカリスマ生徒会長にして孤高の王子、四十万誠一朗。大企業の跡取り息子で、約束された成功の道を前になお努力を怠らない、自意識の高さ。もちろん、難易度は一番高いし、パラメーター上げも並のプレイではどうにもならない。

 だがそこは、記憶というアドバンテージがあるあたしにとって、簡単ではないけれどやってやれないことではない。

 会長を攻略するポイントは、対等だ。親が決めた婚約者も、右腕として信頼する親友も、教師たちですら自分の能力に追いつかないという現状に孤独を感じているという。だからヒロインは会長に並ぶ学力と体力と容姿を備えてなければならないのだ。

 あたしは持って生まれたスペックのおかげか、そこまで困ったことはない。もちろん、将来のために努力はしているけれど。運動はそこまで得意ではないけれど、そこはそれ。前世の知識があればどんなやっかいで面倒な選択肢があっても、なんの問題もなかったりする。




「俺は、完璧でなければならない。そうでなければ蹴落とされてしまう。でも君といると俺一人で気を張らなくてもいい。そんな、気がしてくるんだ」

「会長……」

「わかってるんだ。邦一も、俺に僅かだが劣等感を抱いてる。教師たちは俺を扱いきれず、親は俺をパーツのように見ていて、なにより超然とした許嫁が俺の立ち位置を脅かす。ここは、この世界は……息苦しい」

「なら、あたしにはき出してください。あたしと一緒にいるときだけでも、深呼吸してみてください。ほら、息苦しくなんかないですよ!」

「ああ……ああ、そうだな」




 会長を攻略するときだけは、所謂ライバルキャラというものが存在する。フランス人とイギリス人と日本人のクォーターにして、四十万財閥に次ぐ大企業、天川グループの令嬢、天川蜜あまかわみつ。癖のないブロンドのストレートロング、儚さを思わせる白い肌、吸い込まれるような黒曜石の瞳。美しく聡明であり、ヒロインの対となる存在として設定されたためか、快活なヒロインに対してクールに詰め寄る。

 誰よりも会長に恋い焦がれているからこそ、会長の隣に立てない自分に苛立ち、会長の隣に立ててしまったヒロインに嫉妬し、そしてなにより会長自身に強い劣等感を覚えていた。そんな彼女と敵対し、時に嫌がらせを受けながらも会長と力を合わせて乗り越える。それが、恋愛ルートへの確定であり、絆となるのだ。

 けれどあたしは、さすがにまだ恋心を寄せているわけでもない男性のために、その人を巡る諍いに身を投じたくなんかない。だから会長へは、最後の分岐点である文化祭イベントまで好感度を上げすぎないようにしなくてはならない。もちろん、会長に恋してしまったら、その分すっごく頑張らないとならないけれど。






「でも、まぁこれであとは調整だけ気をつければ、かな」


 あたしは攻略状況を記した日記帳片手に、自室のベッドの上でにんまり笑う。

 思いの外スムーズにことが進んだおかげで、文化祭まであと一ヶ月もある。ならその一ヶ月の間、仲良くなった男の子たちと遊んだりして、じっくりと恋愛相手を探していこう。 なにせ、あたしにとって一生の相手になり得るのだ。妥協だけはしたくない。











――/――






 未来に夢見て、ゆっくりと眠りにつく。

 もしもこの時、“違和感”に気がついていれば、なにかが変わったのかもしれない。

 だけれど、ここで気がつかなかった時点で、未来は確定してしまったのだろう。


 まるで本当に、ゲームの世界でのイベントのように。

 未来が、フラグという名のレールに、侵されていくように――。






――/――











――3――




 おかしい。


「どうしたの? 瀬奈ちゃん。悩み事?」

「ぁ……ううん、なんでもないの。それより美佳ちゃん、見たよ! この間、隣のクラスの風間君と歩いてたでしょ!」

「ふぇっ!? なななな、なんで知ってるの!?」

「駅前で歩いてたら、ねぇ?」

「ううぅ」


 とっさに、公式ファンブックに載っていた情報で場をしのぐ。

 その間になんとか表面上繕うことができたけれど、内心はまだ複雑に渦巻いていた。


 会長たち含めて全員と“友達”になることができてから、もう半月がたった。みんなギリギリとはいえ友達のラインを超えていないから修羅場なんか発生するわけでもなく、女の子とも普通に仲がいいから嫉妬で苛められることもない。なにもかもが順調に回っていて、あたしも、誰と恋仲になったらうれしいかなんて考える余裕もできてきた。

 けれど、ここ数日、なんだか妙なのだ。一緒に登校していた恵吾君とすれ違うようになったり、真人先輩が校舎裏のいつものところにいなかったり、先生が図書室にいなかったり、会長と副会長の間に会話がなかったり。べつに余計なフラグを立てたりなんかもしていないはずなのに、みんなとギクシャクし始めてしまったような、そんな気がしてならない。

 まじめに授業を聞くふりをしながら、斜め前の席に座る恵吾君の方を見る。板書しているのかいないのか、少なくとも寝てはいない。だが、どこか落ち着きないような気もする。


「聞いてみなきゃ、かな」


 小さくつぶやいた声は、幸い、誰にも聞かれなかった。

 だけれどその声は、あたしの胸に重く沈んで消えることもまた、なかった。












 放課後。

 帰り支度をして、風間君と帰るという美佳ちゃんと別れた後。


「なぁ、ちょっといいか?」


 声をかけようと思っていた相手に、先に声をかけられた。


「恵吾君? いいけど、あ、ここじゃまずい?」

「ああ。確か、三つとなりが空き教室だろ? そこでいいか?」

「うん。それじゃあ先生にプリントだけ渡してくるから、その後でもいい?」

「……か?」

「え?」

「いや、なんでもない。わかった、待ってる」


 そう言うと、恵吾君は踵を返して教室を出て行った。

 その様子にあたしは、僅かばかりの不安を覚える。恵吾君の顔はこわばっていて、まるで心を開いてくれる前のようにも見える。

 なんで? どうして? なにをしてしまった? なんて自問自答を繰り返しても、答えなんかいっこうに出てこない。

 そうすると足取りはどんどん重くなっていって、空き教室にたどり着く頃にはあたりは閑散としていた。


「すぅ、はぁ……」


 扉の前で大きく深呼吸をして、開ける。

 恵吾君は窓の外を向いて立っていた。


「ごめんね、遅くなっちゃった」

「いや、いい。それよりも大事な話があるんだ」

「う、うん。どうしたの? なにかあった?」


 恵吾君は、ゆっくりとあたしに振り返ると、見下ろすように睨み付ける。その瞳が無性に怖くて、あたしは思わず一歩後ずさりをした。


「俺は」


 言葉を止めて、一瞬、いつもの恵吾君の顔に戻る。そのことがなぜだか無性にうれしくて、あたしは胸をなで下ろした。


 けれど。




「俺は、瀬奈のことが好きだ。俺と付き合ってくれないか?」




 いわれた言葉に停止する。

 大事なフラグは立てていないのに、とか、それならなんであんなに怖い顔をしていたの? とか、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。けれどなんて考えようと時間は止まってくれないし、リセットもロードもさせてなんかくれない。


 ここは現実の世界で。

 恵吾君は、勇気を振り絞って告白をしてくれた。


 それならあたしは、真摯に答えなければならない。情けない答えになっても、思っていることを告げなければならない。


「ごめん、なさい」


 沈黙が降りる。

 つぶやいた言葉は、あたし自身の心に帳を落とした。


「あたしはまだ、誰かを好きとか、よくわからない。だから付き合ってって言われても、すぐに答えが出せない。だから! その、我がことながら本当に中途半端で申し訳ないんだけれど――もう少しだけ、考えさせてください」


 頭を下げる。

 我ながら最低の答えだ。ふるならふればいいのに、まだ選べないだなんて曖昧な言葉を使った。

 でも、嫌だったんだ。真摯な言葉をくれた彼に取り繕った言葉を返すのも、本心ではないことを言うのも。

 嫌われたかもしれない。軽蔑されたかもしれない。そう思うと頭を上げることができなかった。でもどこかでいつものように、ぶっきらぼうに笑ってくれる恵吾君の姿を期待してしまう自分の浅ましさが、なによりも嫌だった。


 なのに。


「くっ、はは」


 恵吾君の反応は。


「あっ、ははははははっ」


 あたしの予想なんか、軽々と超えて。


「で? ――他には誰をキープしてるんだ?」


 残酷に打ち壊した。


「――え? あうッ!?」


 恵吾君は思わず顔を上げたあたしに近寄ると、胸襟を掴んで壁に押しつける。その勢いが強すぎて、ブレザーのボタンがちぎれて飛んでいった。


「畑中先輩か? 獅堂先輩か? それとも、生徒会長サマか? なぁ、そういえばさっきは先生に会いに行ったんだよな? 愛しの睦月先生か? なぁ、おい!」

「ち、ちがっ、なんで!? あたしはべつに、だれとも」

「うるせぇッ!! いいわけなんか、聞きたくねぇんだよ!」

「つっ」


 見たこともない表情。

 目をぎらつかせて、どう猛に笑う顔。

 よりいっそう強く壁に押しつけられて、一瞬、息が止まる。


「そうだよな、何も言えねぇよなぁ! 他の女に逃げた親父みたいに、俺を無様に捨てるつもりなんだろ、なぁ!」

「けほっ、けほっ、ちが、ちがうよ、あたし、は」

「黙れ」

「うぁっ!」


 口をふさがれて、喋れなくなる。

 あたしはただ恵吾君の誤解を解くことに必死で、恵吾君に落ち着いてほしくて必死で、だからこそ余計に混乱していった。


「他の男に獲られるくらいなら――」


 恵吾君は右手であたしの胸襟を掴み、左手であたしの口元を抑えたまま、あたしの耳に顔を寄せる。


「――俺が、奪ってやる」


 そして。


「ッ!?」


 あたしの首に、歯を立てた。


「や、やだ、なんでッ」


 気がつけば、恵吾君の左手はあたしの口元から外れていて、ブレザーのリボンを引きちぎっていた。混乱する頭も、さすがにブラウスに手をかけられれば我に返る。


「嫌だ、こんなのやだよ、離して、離してよぉっ!」


 首元から聞こえるリップ音。

 恋人でもない男の人に暴行を振るわれる恐怖。

 リアルに男の人との経験がないせいか、恵吾君の存在がとても恐ろしいものに見えた。


「やだ、離して、やだぁッ!」


 火事場の馬鹿力というやつだろうか。思い切り押しのけると、恵吾君は僅かに離れた。そのすきに彼の腕から抜け出すと、教室から逃げ出す。


「ッ待て!」


 怖い。


「ちっ」


 怖い、怖い。


「逃げられると思うな!」


 怖い、怖い、怖い。


「く、ははっ、はははははっ!!!!」


 怖い、怖い、怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!!







 どこをどう走ったのか。

 あたしは、校舎裏で腰を下ろしていた。


「うっ、くっ、うぇ」


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 恵吾君は、本当にちっちゃい頃から知っている中だった。だからこそ余計に、彼があんな風に豹変してしまったことがわからなかったし、悲しい。


 座り込んで、どれほどの時間がたったのだろう。

 ふと空を見上げても、まだ夕暮れにもなっていない。案外、時間がたっていないのかもしれない。またあの“怖い恵吾君”に出くわしてしまうと思うと、心が冷えて動けなくなった。


「セナ?」


 そんなとき。

 聞こえた声に肩をふるわせる。おそるおそる横を見ると、そこには見知った顔があった。


「まさ、と、せんぱい?」

「そうだよ、セナ。なにかあったか?」


 真人先輩は、恵吾君みたいに怖い顔になっていなかった。


「ともだち、と、喧嘩しちゃったんです」

「ともだち?」


 でも。


「ふぅん、そっか」


 違和感が。


「先輩?」


 心から、拭えない。


「その友達ってさぁ」

「っ」


 あごを捕まれて、立たされて、そのまま横を向かされる。


「首にキスマークつけさせてあげるような、友達なんだ?」


 その冷たく感情の感じられない声に、耳を疑う。

 いつも明るくて、たまにちょっと頼られて、元気をくれる先輩。その先輩が、あたしが聞いたことのないような声でそう言い放った。


「っ」


 フラッシュバック。

 あたしに迫る恵吾君の恐ろしい手を思い出して、思わず逃げ出そうとする。けれど真人先輩はバスケ部のエースだ。逃げられるはずなんかなかった。


「や、やだっ!」


 それはさっきまでの光景のリピートか。

 冷たいコンクリートの壁に押しつけられた。今度は、真人先輩の左手があたしの両手を頭上で拘束しているから、先ほどに比べて自由がきかない。


「真人先輩、なんでっ」

「なんでもなにもねーよ。ただ他の男に体開いてるなら、おれにもいいだろ?」

「なっ、そんなこと、してない!」


 真人先輩は、無表情だった。

 いつも表情を豊かに変えていた真人先輩が、恐ろしいほどに感情を消している。




「友達と喧嘩しただけで、キスマークつけて? なんだよ、“具合”でもよくなかったか?」

「っ」




 ―― 一瞬、本当に何を言われたのか理解できなかった。


「他の男になんか渡さない。おれだけしか見られないようにしてやる」

「や、やだ、やだ、やだやだやだっ、こん、こんな、こんなのやだよぉッ!!」


 真人先輩の右手が、あたしのブラウスを無理矢理引きちぎる。ボタンがはじけてどこかに飛んでいくと、インナーシャツが真人先輩の眼前に晒された。


「助けて! 誰か!」

「だまれ」


 右手で口をふさがれて、両足の間に真人先輩の左足を割り込まれ、キスマークと歯形がついた首筋を舐められる。それだけで不快感が背筋を走り、涙があふれ出る。


 怖くて、怖くて、怖くて。

 なんとしても逃げなければならないと、もう、それだけを考えて。


「ぐあっ!?」


 思い切り、真人先輩の手に噛みついた。


「っ」


 拘束から抜け出して、真人先輩の向こうずねを思い切り蹴る。

 うずくまる真人先輩を振り返ることなく、あたしは一目散に逃げ出した。校舎に入り、廊下を走り、恐怖から逃げ回る。








 ――半月前までは、普通の日だった。

 ――半月前までは、みんな楽しく笑っていた。

 ――半月前までは、ただ、ただ、心躍る毎日だった。








「なんでっ」


 頬が熱い。


「なんでっ!」


 視界がぼやけて、前が見られなくなる。


「どうして……っ!」


 そうしてあたしは、図書室に飛び込み、扉の前で座り込んでいた。


「どうして、なんて、考えるまでもないよね……」


 ただ、素敵な出会いがほしかった。

 ただ、素敵な恋が、してみたかった。


 偶然手に入れたゲームの知識。

 前世という名の、知らない人間の記録。

 あたしはふってわいたそれに興奮して、喜んで、利用した。選択肢通りに選んで、自分のためにすぐにでも救える人を救わないで、見捨ててきた。


 だからきっと、罰が当たったんだ。

 ゲームと現実を混合させて、人の気持ちをもてあそんだ罰が。


「あたしは、どうすればいいんだろう」


 謝って、身体を差し出す?

 そう考えると、恵吾君の、真人先輩の恐ろしい手が脳裏によみがえって、身体が震える。あの手に乱暴されると思うと、心の奥が強く痛んだ。


「どうすればいい? 償えばいい」

「っ」


 顔を上げると、そこにはやはり、不自然なほどに表情をなくした睦月先生がいた。睦月先生はあたしの手を取ると、図書室から出て歩き出す。


「やはりおまえも同じだ。あの女と同じ――売女ばいため」


 捕まれた手首が、ぎしりと痛む。

 それでももうあたしには、抵抗する気力がなかった。














「入れ」


 身体を押されて入れられたのは、案の定というか予想通りというか、生徒会室だった。

 睦月先生は扉の外に立って動かないようだ。見張り、だろうか。睦月先生は他の先生方からの信頼も厚い。きっと、ここで行われることは誰の耳にも入らないし、誰も助けになんか来ない。


「ずいぶんな姿じゃないか。お楽しみ中だったか?」

「信じたくなかったけど、やっぱり、ぼくたちを裏切ったんだね」

「幼馴染みにバスケ部のエースに教師。それから俺たち二人。平等に粉をかけて、楽しかったか?」


 獅堂先輩はあたしの後ろに回り込み、背後から両手を掴んで拘束した。会長は、そんなあたしに近づいて、あごを持つ。


「邦一と話したんだ」

「もうぼくたちは、君を手放せない。ならいっそ、僕と誠一朗の“共有財産”にしようってね」

「もうどこの誰に開いた身体かは知らないが、どうでもいい。俺たちが染め上げてやろう」


 反応を返さないあたしに、会長は不機嫌そうに舌を打つ。それから、力任せにインナーシャツを引きちぎった。


「ごめ、ん、なさい」

「なんだ? 今更、なんのつもりだ?」


 あたしに向かって、優しくはにかんでくれた会長の顔が醜くゆがむ。

 ならあたしは、それを受け止めなければならない。会長たちをそうしたのはあたしで、あたしが悪いのなら償わなければならない。


「傷つけて、ごめん、なさい」


 獅堂先輩の手が、震えている。

 怒りだろうか。悲しみだろうか。憎んでくれたらいいって思えるほど、悲劇のヒロインみたいにぶれない。今だって怖くてしょうがないし、泣き出したいし、逃げ出したい。


「邦一。ここまできたら引き返せないんだ。俺は、瀬奈のすべてを奪う」

「ぼくもだよ。ぼくも、同じだ」


 会長の手が風に晒されたあたしの下着に伸びる。これからされることを考えると逃げ出してしまいたかった。現に今も涙をこらえることができていない。あたしは今きっと、すごく情けない顔で泣いている。


 ああ、やっぱり嫌だなぁ。

 心で思うくらいは、許されるかな?

 許されるとか、考えちゃだめかな。

 だってあたしは、悪いことをしたんだ。


 悪いことをしたら、償わなければならない。

 そんな言葉で、あたしは自分の恐怖心を覆い隠す。


 そして――。




「ぐあっ!?」




 ――悲鳴が聞こえた。


 人が倒れる音。

 扉が開く音。


「なっ、どうしてこんな――あぐっ」


 獅堂先輩が投げ飛ばされて。


「ちっ」

「逃げられるとでも?」

「ぐがっ!?」


 同じように、会長も投げ飛ばされた。


「電話をしても返事がないからなにかと思えば――四十万財閥の跡取りともあろうものが、地に落ちたわね。密室で婦女暴行未遂? 恥を知りなさい!」


 腰まで届く、美しいブロンドのロングヘア。

 澄んだ声はいっそ静謐さを覚えさせるのに、どこか触れがたい荘厳さも抱いている。


 そう、あたしは――このひとを、識っている。


「来て。うちの者を呼んであるから、今のうちにここを離れましょう」

「え、あ、わっ」


 手を引かれて、足早に歩く。

 扉の前で倒れて呻いている睦月先生の様子が気になったが、今はこの状況についていくのでいっぱいいっぱいだった。














 そうしてあたしが連れてこられたのは、保健室だった。真っ白なベッドに腰掛けて、彼女に渡されたブレザーを羽織る。少し待つと、彼女はホットココアを持ってきてくれた。


「さて、自己紹介をしましょうか」


 彼女はそう、黒曜石のような澄んだ瞳を緩ませて、あたしに声をかけてくれる。床に膝立ちしてあたしを下からのぞき込むように座ってくれたのは、あたしに気を遣ってくれているからだろう。

 明るい声。優しい態度。柔らかな瞳。たったそれだけのことで、あたしの心が暖かく揺さぶられる。


「私は二年の天川蜜。蜜先輩って、呼んでくれていいから、ね?」

「あ、え、ええっと――瀬奈。三枝瀬奈、です」

「瀬奈、ね。可愛らしい名前ね」

「あ、ありがとう、ございます。蜜先輩」


 蜜先輩はそう、あたしの手を握って微笑んでくれた。

 言葉はゆっくりと。ゆっくり、染みこむように優しさをくれる。




 ――あたしは、償わなければならないのに。




「瀬奈?」

「っ、だめ!!」


 優しくされたら、だめなんだ。

 自分勝手な理由で友達を傷つけて、まるで“彼らの方が悪い”だなんて振る舞うことはできない。


「っ……」

「あ、ごめんなさ、い」


 けれど、思わず振り払った蜜先輩の手を見て揺らぐ。

 また傷つけた。優しさを拒んだから? また、人のせいにしてひとを傷つけて、あたしはなにがしたいんだろう。悔しさに歪む視界を誤魔化すようにぬぐって、声を上げないように唇をかむ。全部、あたしが間違えたから悪いのに、蜜先輩にこんなひどい八つ当たりまでして。


「瀬奈」


 けれど、蜜先輩はあたしを怒ることも蔑むこともなく、立ち上がってあたしの頭を抱きしめる。


「ひとはね、我慢すればするほど淀んでしまうの。どんなに綺麗な湖でも、汚泥をはき出さなければそのうち昏く濁ってしまう。だから貴女が貴女のしたいように、貴女の選びたい選択肢を選ぶために、そのわだかまりははき出しなさい」


 ゆっくり、ゆっくり、蜜先輩はあたしに言葉を投げかけてくれる。痛みを共感するように、小さな子供に諭すように、暖かい気持ちで包み込むようにあたしを抱きしめてくれた。


「できる? 瀬奈。焦らなくてもいい。私は、いくらでも待ってあげる」

「みつ、せん、ぱい」


 溢れ出さないように。

 こぼれ落ちないように。

 何重にも何重にも封印して心に沈めた感情おもいが、浮上する。


 だめなのに。

 他の誰が嘆いても、あたしだけは嘆いちゃいけないのに。


「あた、し、あたしは……っ!」


 感情が、心の枷を突き破って溢れ出た。


「恋とか、よく、わかんなくて!」

「うん」

「ただ、すてきな恋が、ふぇ、ああ、してみたくて!」

「うん」

「みんなと、仲良くなれた! なれる手段を識ってた! だからみんなと仲良くなって、友達になって、でも、恋ってどんなものなのかぜんぜんわかんなくて!」


 どきどきして、その人のことしか考えられなくなって、夢中になる。

 そんな風に恋の定義をあげればあげるほど、恋をする自分の姿が想像できなくなっていった。みんなと一緒にいるとすっごく楽しいし、頼ってもらえることがうれしくて仕方がなかった。けれどいざ“恋愛ルート確定イベント”を起こせる状態にまでなってみて、急激に怖くなったのだ。


 恋愛って、本当にこれでいいの?

 進んでしまって、選んでしまって、本当にいいの?

 そんな声が自分の中で囁かれるたびに、あたしは臆病になっていった。


「助けられる! ともだちを、助けられるのにっ! その選択肢を選んでしまうことがこわかった!」

「うん」

「だから、見捨てたんだ! あ、あたしは、あたしのこころだけがかわいくてっ、ふ、うぁ」

「いいよ。泣いても、良いんだよ」

「あ、ぁ、ぁぁあ、っ……うぁぁぁぁぁあぁああああああああああっ!!!!!!」


 蜜先輩の胸にしがみつくように、赤ちゃんみたいにみっともなく泣き叫ぶ。蜜先輩が優しく背中をさする手が暖かくて、そのことが余計にあたしの涙腺を緩めた。











「蜜、先輩」


 子供みたいに泣き疲れて、あたしはベッドに横になった。蜜先輩はそんなあたしに添い寝をするように横に寝てくれていて、また、未だにあたしの頭を抱え込んで抱きしめてくれている。


「うん? どうしたの?」

「なんで、こんなにあたしに、良くしてくれているんですか?」


 流されてしまった面があるのは否めないが、やはり、落ち着いてきたら疑問に思う。

 ゲームの中での彼女は、高すぎるハードルを前に背伸びをしてしまう等身大の女の子だった。好きな人のために努力を重ねて、それでも追いつくことができずに劣等感を抱いてしまう。そんな、一途な人だったように覚えている。

 もちろん、もうゲームと現実を混同したりしない。けれどどうしても気になってしまう。他のみんなはゲームの設定とそんなに変わらない人生を歩んできたはずなのに、どうしてこの人はゲームのように“会長最優先”ではないのだろう、と。


「……その様子なら、私の立場は知っているのかしら?」

「は、はい。四十万会長の、許嫁……です、よね」

「ええ、そう」


 蜜先輩はそこで一息置くと、ゆっくりと話し始めてくれた。


「小さい頃に決められた結婚の約束。自我を覚えたときにはもう、私の未来は決定していたわ。確かに、誠一朗さんは素敵な方だし、恋をしたらきっと誰もが祝福してくれるような関係になる。でもね、ずぅっと思っていたの」



 ――“本当に、それでいいの?”って。



 会長ルートで判明することだが、この婚姻には大きな利益が動いていた。

 金融・貿易関連で国際的に規模を広げている四十万財閥と、総合商社という分類で他方に進出し、四十万と肩を並べるほど膨れあがった天川グループ。二つの大企業のトップが婚姻関係を結び親類となるということには、それはそれは大きな意味がある。

 だからこそ会長は、そのプレッシャーに押しつぶされそうになっていた、という側面もあったのだ。


 ここはゲームの世界なんかじゃなくて、現実だ。

 現実だからこそ、蜜先輩は疑問を抱くことができたのだろう。


 未来が、選ぶまもなく決まってしまっているということに。


「そうやって、小さい頃はずっと迷っていた。でもね、そんな時だったの。偶然旅先でこの地を訪れたとき、私は帽子をかぶって男の子みたいに変装して、その先で小さな女の子に出会った」




 ――『ねえ、そんなところでなにをしてるの?』

 ――『にげてる』

 ――『おにごっこ?』

 ――『ちがう。みんなみんな、がんじがらめで、いやだ』

 ――『そっか。じゃあ、いやなことはあたしがはんぶんもらってあげる!』

 ――『え?』

 ――『ともだちなら、いやなことははんぶんっこ! うれしいこともかなしいことも、たのしいこともくるしいことも、ぜんぶはんぶんにしちゃえばいいんだよ! ね?』

 ――『わたしが、ともだち?』

 ――『あ? ともだち、だめ?』

 ――『……いや、うれしい』




 子供同士のつたない会話。

 単純で、だからこそ心に響く言葉があると、蜜先輩はあたしに告げる。

 けれどそのあたしはそのエピソードに衝撃を受けて、色々と慌てていた。


 なにせ、その幼い子供とのエピソードは……“あたしも覚えて”いたのだから。


「それからすぅっと、肩が軽くなったわ。分け合える人がいる。遠く離れていても、分かち合った人がいた。たったそれだけのことで私は救われた。そんな貴女を入学式で見かけたときは、心が躍ったわ。いつ話しかけよう。覚えてくれているかな? そんなことをずっと考えていたのよ、私」


 救われた。

 その言葉が、あたしの心に染みこむ。あたしはここに居てもいい。ここに居ても、大丈夫なんだ。そんな感情が胸の奥からこぼれ落ちる。


「だから、今度は私に分け合わせて? 貴女の、“つらいよ”っていう叫び声を、私にもちょうだい。ね? 瀬奈」

「は、い、はい。はいっ、はい! ――ありがとう、“みつくん”」


 幼い頃の呼び名で呼ぶと、あたしを抱きしめる手が強くなる。

 そうしてあたしは、もう一度、声を上げて泣いた。






 泣いて、きっとまた寝てしまう。

 そうやって起きたら、今度こそ“これから”のことを考えよう。


 あたしにできることを、“友達”と一緒に探しながら――。












――/――






 蜘蛛は、糸を張り巡らせて手繰り寄せるように獲物を狙う。

 もしも蜘蛛の糸に少しでも触れてしまえば、もう、逃げることは叶わない。


 憐れな蝶は手繰り寄せられる。

 その大きなあぎとの内側に、少しずつ少しずつ手繰り寄せられて。




 そうしていずれ――食べられて、しまうのだ。






――/――











――4――




 泣き疲れて眠る瀬奈の頬に、優しく口づける。眠る彼女に悪戯をするのは気が引けるが、ようやく手に入ったのだ。これくらいは、許して欲しい。

 なんて、私は、誰に言い訳する必要もないのに独りごちた。


「ごめんね、瀬奈。私はもう――貴女を離してあげられないの」


 暖かな彼女の身体を抱きしめると、電撃のような快楽が背筋を上る。

 私は、思わずこぼれ出る笑みを抑えきれる自信がなくて、ただ声を殺して笑った。






 私には、生まれたときからもう一つの生涯の“記録”があった。

 仏教で言うところの輪廻転生というものであろうか。男か女かもわからない他人の記録は、望む望まない関係なく私を早熟にさせた。

 ただでさえスペックの高い肉体と頭脳を、大人の要領の良さでフル回転させる。たったそれだけのことで私は私の持つ“記録”にあった“天川蜜”よりも遙かに優秀な存在となり、神童として持て囃されるようになる。


 家庭教師を早々に超え。

 大人と論議しても勝ち。

 音楽も書道や茶道なんかも、武道や運動ですら一度、多くても二度練習すれば他人以上にできるようになった。


 やろうとさえすれば、できないことなんか一つもない。

 欲しいものがあれば、手に入らないものなんて一つもない。


 私は誰よりも優秀になって、それなのに気がつけば“記録”にあった“ゲーム”の通りに世界は進行していった。


 そう、何もかもが計画通り。

 だから、狂わずに進んでいく世界にどうしようもなく息苦しさを覚えて、私は顔を合わせたばかりの四十万誠一朗に服を借りて抜け出したのだ。


 そこで私は、運命の邂逅を果たす。

 なぜか、私が唯一予測できない少女――この世界の主軸と言うべき少女に、出会った。

 読めない行動。明るく快活に笑う少女のことがどうしても忘れられなくなってしまってしまった。


 それからというもの、私は私の世界が広がっていくような感覚を覚えた。

 あの街に留まりたいという我が儘がついぞ通ることがなかったように、この世界は“彼女”さえ絡めば予想のつかないことばかりになった。


 だから私は決めたのだ。

 どんな手を使ってもかまわない。

 どんな運命だろうとねじ伏せて。

 ――彼女を、三枝瀬奈を手に入れよう、と。








 目標ができてからの私は、これまでとは比べものにもならない速度で知識を、技術を吸収していった。


 どうやって私のものにする? 一番確実な方法は、きっと一つだけ。私以外を頼れなくしてしまえば良い。そのためにはまず、私の婚約者を追い詰める必要があった。私の挙動の一つ一つに彼が劣等感を抱いて止まないように。彼が、私の“何気ない”行動によって思い通りに動くように。

 準備期間では全力でありとあらゆる力を吸収し、その力を存分に振るうことができる下地を作る。そうして万全の体制を作り、彼女が私と同じ高校に通うよう誘導まで配下の手を使い成し遂げ。運命の入学式に臨んだ。


 そうして動向を探るうちに、瀬奈の行動にある一つの違和感を覚える。

 まるで未来を知っているかのような手腕で、次々と“攻略対象”と仲良くなっていく。まるで私にように“記録”を持っているかのように。


「ああ、でも、まさか」


 すぐに確認したいという気持ちを抑え、少しずつ情報を集める。

 そうすることで私はようやく、確信を得ることができた。彼女もまた私と同じ苦しみを抱えていて――そんな事情さえ、分かち合ってくれていたと知って、私は思わず歓喜した。

 そして、私は彼女が“記録”を持っているからこそ成功する手段を思いついた。といっても、元からの計画の細部を練り直すだけ。コンプレックスを刺激して誠一朗に彼女を追い詰めさせるのではなく――うるさい虫たち全員に、“頑張って”もらうことにしたという、ただそれだけのことだった。


 幼い頃の出来事以来、私にとって変装とは趣味のようなものだ。

 名を変え、姿を変え、口調を変え、印象を変える。そうやって私は己の“記録”を利用して、彼らに近づいた。








 ――巽恵吾。

 彼のトラウマは結局のところ、男女関係にある。そこを刺激してやれば、それだけで良い。



「ほら、また別の男の子」

「ねぇ、いいの? 今彼女、人気のない教室から二人出てきた」

「あーあ、置いてかれちゃうよ? ほら、彼女、人気者だから」



 最初のうちは煩わしそうにしていた彼も、コンプレックスを刺激し続けてやるとおもしろいくらいに豹変した。

 まるで、世界で一番自分が可哀想などと、酔いながら。







 ――畑中真人。

 嘘をつけないと言うことは、折り合いをつける気がないと言うこと。人の気持ちを無視して自分の気持ちを一番に考える。それでは生きていけないと知りながら己の我が儘を貫こうとして、苦しむ。



「あれ? 今日は彼女、一緒じゃないんですか?」

「もしかして、もう逃げられたんですか?」

「しょうがないですよ。人間、本音だけでは生きられないですし」

「え? そりゃあだって、面倒な事情を抱える人なんか適当にあしらって、もっといい男になびくのは仕方がないんじゃないですか? 建前ですよ、建前」



 結局彼は、己を肯定されたいだけなのだ。

 自分の生き方を自分で決められず、間違っていることを自分で認められず、だからこそ第三者を巻き込んで自分は正しいと言ってもらって、結果的に選択の責任を負わせる。身体ばかりが大きくなって心が成長しないから、不用意な言葉で友達を傷つけて、道を踏み外させたのだから。







 ――睦月要。

 教師でありながら女性を避ける彼の態度は、歪んでいる。騙される方が悪いとは言わない。だが騙されたことから、失敗から何も学ばないのは害悪だ。逃げ続けるだけの彼に、教師という役職は相応しくない。



「先生って、お金持ちなんですか?」

「えー、そうですよ! 女の子はみーんな、玉の輿に憧れてますって」

「ほら、先生と一緒に居るあの子だって、そうじゃないですか? 一緒に良く居るのは、獅堂先輩に四十万先輩。二人とも、すっごくお金持ち」

「いいなぁ。私も彼女みたいに、“うまく”やりたいなぁ」

「で、せんせーは、なんていって絆されちゃったんですか? ふふっ」



 彼は女性を避けるのではなく、女性を知るべきだった。

 心の傷がなんだと誤魔化して女性から逃げ続けるから、たったこれだけの情報を心に染みこませてやるだけで動揺する。

 もう、後戻りができないほどに。







 ――獅堂邦一。

 彼が欲しいのは逃げ場だ。自分は劣等感を抱いている。だからもう頑張らなくても良いんだという、優しさという名の免罪符。彼はそんなものを、他人に求めている。



「やっぱり、四十万くんといるときって、彼女、落ち着いた表情してる」

「四十万のくんの側が一番安心するんだろうね」

「ああでも、友達の男の子と居るときも安らいでるなぁ」

「あと睦月先生や畑中くんといるときも! にこにこしてるよね」

「え? 獅堂君といるとき? ちょっと緊張してる……ああほら、獅堂君ってかっこいいからだよ!」



 劣等感に苛まれて、他人を免罪符にすることもできない。べったりと瀬奈に依存することしかできない男を蹴り落とすことは、思いの外容易かった。これでもう、彼の中で信頼できる人は一人しか居ない。

 同じく醜悪な劣等感で汚れ、落ちていく憐れな男にしか頼れなくなるのだ。たった一人の友達を守る自分を、悲劇という名のフィルターで覆いながら。







 ――四十万誠一朗。

 彼は常に求められる立場の人間だった。“記録”では求めることができず、高すぎる能力故に孤立してしまったが、この世界では違う。

 私という自分よりも遙かに上位な存在を前に、彼は常に苛まれてきた。自分の立場が追われる恐怖。私によって自分自身が飲み込まれる恐怖。対等な相手を自分から探そうとなんかせずに、子供みたいに我が儘を言って孤独をこじらせてきた。そんな彼を揺るがすには、たった一言で良い。



「三枝瀬奈ちゃん、いつも頑張っているわよね。私も、彼女と友達になりたいな」



 他ならぬ私自身から放たれる、偽りなき言葉。

 内心で私に認められさえすれば自分が追われることなどないと考えている誠一朗は、他の誰よりも強く私に、天川蜜に認められようとしていた。

 そんな目標ともいえる人物が、自分を認めるよりも先に、“自分よりも下の立場の人間”を褒める。それは確かに、彼の高すぎるプライドに大きな亀裂を加えた。

 あとは、いろいろな噂を聞きつけた彼の大事な右腕が、勝手に火をつけてくれるのを待つだけ。









 全員が爆発するよう、行為を目撃するように誘導すれば準備は完了だ。

 爆発して、瀬奈が逃げ出す。逃げられた男は私の専属のSPに命じてその場から退場させる。

 そして私の瀬奈の心が折れてしまうぎりぎりのタイミングで、見事に救い出した。




 このあたりのタイミングは、賭だった。

 そしてその賭に私は勝利して、今、こうして瀬奈を手に入れることができたのだ。




 きっと彼らは、話し合いを望むであろう瀬奈を許すことしかできないだろう。

 この界隈で誰よりも強い力を持つ私に悪事を目撃されて、正気に戻らない人間なんかいない。

 もう自分の悲劇に酔うことも、前のような関係に図々しく戻ることもできない。ただ現状を享受して、離れていくことしかできないのだ。


「ん、うぅん」


 ――寝返りを打つ瀬奈を、優しく抱き留める。


「大丈夫よ、瀬奈」


 彼女の柔らかな頬に手を添えると、安心したように身じろぎするのをやめた。


「瀬奈は私が、守るから」






 ――だからもう、逃がさないわ。愛しい愛しい私の瀬奈。



















――了――

 タイトルは第三者視点で。


 乙女ゲームのヒロインに転生したら、(転生したヒロイン自身が)寝取られた件について




◇◆◇




 一度、乙女ゲームものを書いてみたくてこうなりました。

 お読みいただき、ありがとうございました。


 ちなみに、このエンディングは選択肢を間違え続けた結果だったりします。

 伏線にヒロインが気がついていれば、回避できたりとか。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] ……こわっ。 まあ、あの攻略対象どもとくっつくよりは蜜先輩の方が上手くいきそうですが……ヤンデレだなぁ……。
[良い点] やっぱゲーム感覚になってしまうのは仕方ない。主人公も結果的に見れば悪いことしてるけど、本気で恋愛しようとしてるのが伝わる。ルート選んでくのが本当の恋愛でいいのかって所もグッと来ました。
[良い点] 読み易い文章と斬新な物語、素晴らしいです。 [一言] すごく面白かったです。
2017/03/24 00:07 モロヘイヤ
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