第93話:八日目の朝、あるいは最初の来客
「新しい、住人……? カイト、一体誰が来るっていうんだニャ?」
八日目の朝、午前九時。
開店準備を進める喫茶『夜鴉』の厨房で、ミアがいつもよりせわしなく耳(のあった場所)を動かしながら、俺の顔を覗き込んできた。
前夜、地下四階の『最初のシステム』が告げた不気味な予言。
街の記憶を守り抜き、すべての呪いを解いたはずの俺たちの日常に、新たな波乱の予兆が満ちていた。
「分からない。でも、店主さんがわざわざホログラムを残すほどの相手だ。ただの常連客じゃないことだけは確かだよ」
俺はカウンターの上で、いつものように珈琲豆の選別をしながら答えた。
指先は冷静に動いているが、胸の奥では、未知の存在に対する心地よい緊張感がじわじわと広がっている。
どんな相手が来ようとも、今の俺たちには、それを迎え入れるだけの揺るぎない絆がある。
「フン、誰が来ようと同じことよ。この店の秩序を乱す者なら、私が王家の法をもって叩き直してあげるわ」
リザが新調した真っ白なエプロンの紐をキリッと結び直し、不敵に碧眼を輝かせた。
その言葉とは裏腹に、彼女はカウンターの隅に、新しい客のための『特製ウェルカム・クッキー』の皿をそっと用意している。
冷徹な王女の仮面の下にある、彼女なりの不器用な優しさと歓迎の意思。そのギャップが、相変わらずたまらなく魅力的だった。
「我が主。外の路地、および商店街の境界に異常な魔力の反応はありませぬ。
ですが……先ほどから、一人の『奇妙な人物』が、この店の前を何度も往復しておりますな」
シルヴィアが窓の外の様子を窺いながら、錆びついた太刀の柄にそっと手を添えた。
彼女の放つ、一ミリの隙もない騎士としての戦闘美。
だがその視線は、不審者を警戒するだけでなく、どこか「新しい出会い」を待ち望むような純粋な好奇心にも揺れていた。
「カイトくん、千影! 地下四階の歯車から、現実の戸籍ネットワークへ『データの上書き』が実行された!」
店内の隅でノートPCを叩いていた阿良多が、声を裏返らせて叫んだ。
「架空の人物じゃない。この飯塚市の、まさにこの商店街の住所に、一人の人間の存在が『最初からそこにいた』かのように滑り込んできたんだ……っ!」
「ほう……。メビウスのやり口に似ているが、もっと洗練されているね」
千影が珈琲を口に含みながら、冷ややかに画面を覗き込む。
「僕のフロント企業の防壁すら無効化して、その人物の『過去の履歴』が現実の街に書き換えられていく。
……来るよ、カイト。僕たちの日常を新しく塗り替える、最初のピースだ」
ルカとリィナの兄妹が、俺の背後に隠れて息を呑む。
その瞬間。
カランコロン、と、現実世界の爽やかな朝の光を割って、店の扉のベルが静かに鳴り響いた。
入ってきたのは、仕立てのいい黒いトレンチコートを羽織った、長い黒髪の女性だった。
彼女は店内に一歩足を踏み入れると、どこか懐かしそうに、だけど酷く厳粛な目でぐるりと店内を見回した。
そして、カウンターの奥にいる俺の顔を真っ直ぐに見つめ、その美しい唇を開いた。
「お初にお目にかかります、現在のマスター。……いいえ、初めましてではないかしら」
彼女はコートのポケットから、古びた『一本の鍵』を取り出し、カウンターの上に静かに置いた。
それは、十年前の写真の中で、店主さんと親父が持っていた、あの地下四階のマスターキーと『対』になるデザインの鍵だった。
「私の名前は、夜瀬キョウコ。十年前、あなたの父親と、あの店主と共に、この店の『最初のシステム』を設計した……三人目の開発者の娘です」
彼女の言葉が、店内の空気を一瞬で凍りつかせた。
切り抜かれた写真の空白。メビウスが隠し続けていた、最後のミッシングリンク。
かつてこの街を仮想の迷宮へと変えようとした男の血脈が、今、本物の現実となって俺たちの前に現れたのだ。
「父が遺した最後のバグ……それをあなたたちが解いたことで、私の元にあるこの『対の鍵』が起動しました。
カイトさん、あなたたちに、この商店街が隠し持っている『本当の役割』をお伝えしに参りました」
日常を勝ち取った夜鴉たちの前に、突如として現れた創世の末裔。
彼女がもたらすのは、新たなる救済か、それとも破滅の始まりか。
喫茶『夜鴉』の扉の向こうで、百年の因縁に隠された『本当の真実』の歯車が、今、凄まじい音を立てて回り始めようとしていた。




