第53話:境界の境界線、あるいは二つの日常
「……カイト? 本当に、そこにいるのか?」
扉の向こうから響く声は、ノイズ混じりでありながら、間違いなく俺の記憶にある「親父」のそれだった。
三年間。
俺がこの箱庭に迷い込み、死線を潜り抜け、仲間たちと新しい居場所を見つけるまでの間、現実の世界ではそれだけの時間が流れていた。
俺を捜し続けてくれた人の温かさと、今この場所にいる仲間たちの存在が、俺の頭の中で激しく衝突する。
「阿良多、この扉を完全に開けたら、どうなる」
俺はドアノブを握ったまま、震える声で問いかけた。
「……僕の予測が正しければ、この扉を完全に解放した瞬間、二つの世界の『質量』が均一化しようとする。
つまり、このパッチワークの街の住人全員が、現実世界に『肉体を持った人間』として逆流することになる」
阿良多の言葉に、物置部屋の入り口に立っていたリザが、ハッと息を呑んだ。
いつの間にか、ミアやシルヴィア、そしてリィナを支えたルカも、静かに俺たちの背後に集まっていた。
「現実の世界に……みんなで行ける、ってことかニャ?」
ミアが、期待と不安の入り混じった瞳で俺を見つめる。
「……だが、都合の良いことばかりじゃない」
阿良多はタブレットの画面を俺たちに見せた。そこには、俺のポケットの中で熱を帯び続ける「鉄の棒」のエネルギー波形が、扉の向こう側と完全に同調している様子が映し出されていた。
「この街を維持しているのは、ユキちゃんが残した白銀のルールだ。
僕たちが現実世界へ移住すれば、この街の存在定義は空っぽになり、完全に消滅する。
……そして何より、現実世界には『魔法』も『システムの加護』もない。
リィナさんの体やルカくんの鍵の残滓が、向こうの物理法則に耐えられるかどうかは……五分五分だ」
部屋が、しんと静まり返った。
誰もが、この小さな街を愛していた。
不器用な手でコーヒーを淹れるシルヴィアも、美味そうに飯を食うミアも、ここが自分たちの「本当の家」だと感じ始めていたのだ。
だが、扉の向こうには、俺の帰りを三年間待ち続けた家族がいる。
「カイト」
リザが歩み寄り、俺の右手をそっと包み込んだ。
彼女の手は、いつだって俺の迷いを消し去ってくれる。
「あなたがどういう選択をしても、私たちは付いていくわ。
あなたが私たちの運命を変えてくれたの。今度は、私たちがあなたの背中を押す番よ。
……お父様に、会いに行きなさい」
リザの優しく、けれど気高い言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。
みんなを危険に晒すかもしれない。この街を失うかもしれない。
だけど、目の前にある「つながり」を無視して生きることは、俺たちの誇りが許さなかった。
「……親父。そこにいるんだろ」
俺は扉を、あと数センチだけ押し開けた。
「カイト! ああ、声が近くなった……! 今、警察や救助隊を呼ぶ!
そこはどこなんだ? 暗い地下室か何かか!?」
「違うんだ、親父。驚かないで聞いてくれ。
俺は今、最高の仲間たちと一緒にいる。……今から、そっちにみんなで帰る」
俺が決意を固め、ドアノブを限界まで回そうとした、その時だった。
カチャ、と。
物置部屋の片隅、カウンターの特等席に置いてあったはずの、ユキの「白花の鉢植え」。
その白い花びらが、突如としてパラパラと枯れ落ち、黒く変色し始めたのだ。
それと同時に、扉の隙間から差し込んでいた現実世界の夕暮れの光が、どす黒い「影」に塗りつぶされていく。
「……カイト……。逃げ……て……」
扉の向こうの親父の声が、急激に歪み、引き裂かれた。
代わりに聞こえてきたのは、複数の「人間の足音」、そして……衣服の擦れる音と、冷徹な機械の起動音だった。
「——対象、隔離フォルダ99の生存者『カイト』の接触を確認。
現実側より、これより『現実世界防衛組織』による、強制パージを実行する」
扉の向こうにいたのは、親父だけではなかった。
俺たちがシステムを破壊したことで、現実世界の側でも、この「バグ」を観測し、排除しようとする『人間たちの組織』が動き出していたのだ。
「しまっ……! 扉を閉めろ、カイトくん! 向こう側からハッキングが来ている!」
阿良多が叫ぶが、すでにドアノブは俺の手の力を無視して、内側へと猛烈な勢いで引き込まれ始めていた。
世界の境界線が、今度は「現実」という名の圧倒的な人間の悪意によって、内側からこじ開けられようとしていた。




