第101話:新しい朝、あるいは日常のドリップ
嵐のあとの朝は、いつもより少しだけ静かで、いつもよりずっと眩しい。
昨夜の激闘が嘘のように澄み渡った青空の下、旭通り商店街には、穏やかな光と爽やかな風が吹き抜けていた。
完全に稼働を停止した『裏返しの歯車』の残骸は、朝日を浴びてただの古びたモニュメントのように佇んでいる。隣町との境界を隔てていたあの重苦しい歪みは、もうどこにも見当たらなかった。
「うう、腰が痛いニャ……。お兄ちゃん、アタシもう一歩も動けないニャ……」
店の軒先に置いた丸椅子に深く沈み込み、ミアが猫耳を力なくへにょりと伏せていた。昨夜、文字通り街中を縦横無尽に跳び回って戦った彼女は、今や完全にエネルギー切れだ。
「よく頑張ったな、ミア。ほら、特製のミルクティだ。ハチミツを多めに入れておいたぞ」
俺が淹れたての温かいカップを差し出すと、ミアの耳がピコッと跳ね起き、その顔に一気に満面の笑みが咲いた。
「お兄ちゃん、大好きニャ! これでアタシのライフは一瞬で全回復ニャ!」
「ふふ、ミアは本当に現金な子ね。でも、それだけ昨夜のスープが体中に染み渡っている証拠よ」
リザがエプロンの紐をきゅっと結び直しながら、テラス席へと歩み寄ってきた。碧眼に朝の光を宿した彼女は、徹夜明けとは思えないほど凛としていて、相変わらず王女としての気品に満ちあふれている。
「カイト、昨夜の『百年のスープ』は本当に奇跡の味だったわ。二つの街の歴史と、みんなの想いが、あの小さなお皿の中で完璧に調和していた。あれ以上の料理は、そう簡単には作れないわね」
「ああ。店主さんが残した最後のピースと、キョウコさんの想いが合わさったからこそ、できた味だ」
俺がドリップポットを傾けると、細いお湯の線がふっくらと膨らんだ珈琲の粉を優しく湿らせていく。ぽつり、ぽつりと落ちる琥珀色の雫が、昨日とは違う「本当の日常」の始まりを告げているようだった。
「……おいおい、感動の余韻に浸っているところを邪魔して悪いが、仕事はまだ山積みだぞ」
千影がノートPCを片手に、眉間にシワを寄せながら裏口から現れた。いつもの灰色の瞳には少しだけ疲労の色が滲んでいるものの、キーボードを叩く指先の速度は微塵も衰えていない。
「隣町の基幹システムは安定した。歪み(バグ)の消滅に伴い、消失していた地籍データやインフラの接続設定も完全自動修復されている。だが、問題はここからだ」
彼が画面を俺たちに見せる。そこには、復旧したネットワークを通じて、隣町からこちらへ向かってくる「異常な数の人流データ」がリアルタイムで示されていた。
「……これって、まさか?」
阿良多がメガネを指先で押し上げながら、驚きに目を見開く。
「そう。昨夜のスープの匂いに誘われて、そしてこの二つの街が再び繋がったことを本能的に察知した隣町の住人たちが、朝一番でこっちに向かって歩き始めているんだ。その数、ざっと見積もっても昨夜の十倍以上だよ」
その言葉を証明するかのように、まだ朝の七時だというのに、商店街の入り口から賑やかな話し声が聞こえ始めていた。
キョウコが、昨夜父親の遺恨から解放された穏やかな笑顔を浮かべ、トレンチコートを腕に抱えてやってくる。その表情は、憑き物が落ちたように本当に晴れやかだった。
「カイトさん、リザさん! 隣町の人たちがみんな『お腹が空いた』って言っています。十年前、お父さんと店主さんが仲違いしてからずっと、みんなまともなご飯の味を忘れていたみたいで……」
「ふっ、望むところだ。無敵の騎士たる私に、これ以上の戦場はない」
シルヴィアが背筋を伸ばし、愛刀を静かに鞘へと収めた。その凛とした立ち姿のまま、彼女はリザと俺を交互に見つめ、いたずらっぽく微笑む。
「リザ、カイト。お腹を空かせた迷える羊たちを救うのが、我々『夜鴉』の務めだろう? 調理場の防衛線は、この私が完璧に死守してみせよう」
「ええ、もちろんよ! 昨夜のスープが夜の終わりを告げるものなら、今朝の料理は、彼らの新しい一日を祝福するメニューにしましょう!」
リザが楽しそうに腕をまくり、調理台のコンロに火を点けた。カチリ、という小気味よい音が、静かな朝の商店街に響く。
「カイト、最高の珈琲で、私の新しいおもてなしに続いて naysa!」
「言われなくても、最高のやつを出すよ」
俺は笑顔でドリップポットを握り直した。
二つの街が一つに溶け合い、新しい匂いが旭通りを包み込んでいく。
夜鴉たちの、新しい朝の営業が今、始まった。




