例の流行病について
気づいていただろうか。
コロナという流行病が世界を覆い尽くしたあの時、人々はもうひとつの病にも侵されていた。
それは目に見える咳でもなく、熱でもなく、匂いを失うことでもなかった。
もっと静かに、もっと巧妙に、そしてもっと甘美に、心を支配するものだった。
そう、バズりという病である。
誰もが家に閉じ込められ、窓の外の景色すら希薄になった日々。
人は孤独を持て余し、やり場のない不安を抱えていた。
その不安を和らげるように、人はスマホを手にした。
ほんの数秒の動画、短い言葉の断片、わずかな画像。
それらはあっという間に拡散し、見知らぬ誰かに届いた。
最初は救いだった。
顔を合わせられない代わりに、誰かとつながっている感覚を与えてくれた。
「大丈夫だよ」「一緒に頑張ろう」という言葉が光のように拡がっていった。
しかし、その光はやがて形を変える。
「誰よりも注目されたい」「自分の声をもっと広げたい」
そうした欲望が混じり始めたのだ。
バズりは奇妙な感染症だった。
一度その甘美な刺激を味わった者は、もっと強く、もっと速く拡がる言葉を求めるようになる。
昨日の一万のいいねは、今日はもう物足りない。
賞賛の声が途切れれば、心は急速に渇いていく。
そしてまた新しい毒を求め、さらに過激な行為を繰り返す。
人々は舞台に立つ役者になった。
現実の生活は閉ざされても、画面の中ではいくらでも演じられる。
真実である必要はなかった。
嘘でも、誇張でも、皮肉でも、人々の目を引けばそれでよかった。
気がつけば世界は、無数の主演俳優で埋め尽くされていた。
だが舞台の裏は、いつも静かで暗い。
光を浴びたあとに訪れる虚無は、誰もが知っていた。
にもかかわらず、人はまた舞台に戻ろうとした。
注目を浴びた一瞬の熱狂を忘れることができなかったからだ。
コロナはやがて収束を迎えた。
マスクは外され、街に笑顔が戻り、会話のざわめきがよみがえった。
けれどバズりの病は収束しなかった。
むしろ、より深く人々の生活に根を下ろしていた。
それは今も静かに続いている。
誰もが自分の物語を切り取って差し出し、いいねの数で価値を測り、数字で存在を確かめる。
誰もが「自分こそが主人公だ」と信じたまま。
──そして気づかぬうちに、他者の舞台を観る観客であると同時に、誰かに観られる役者でもある自分を、手放せなくなってしまったのだ。
バズりという病は、コロナよりも根深い。
なぜならそれは人の心の奥底、孤独と虚栄の隙間に棲みついてしまったからである。
そして今日もまた、世界は静かに感染を広げている。
誰かが「投稿」ボタンを押す、その一瞬ごとに。