第6章「幼き日の記憶」
魔王ゼファルドの心には、ずっと忘れられない記憶があった。
それは、まだ彼が若く、魔王としての責務を強く自覚していなかった頃の出来事。
偶然の出会いが、彼の生き方を変えたのだ。
アストラル城の庭園。
夜の静けさの中、ゼファルドはベンチに腰かけていた。空には月が浮かび、銀色の光が畑を優しく照らしている。
「魔王様、どうされました?」
ヴァルターが近づいてきた。いつもの冷静な声音だったが、魔王の横顔を見て、彼は少し眉をひそめた。
「……あぁ、ヴァルターか。いや、ちょっと昔のことを思い出してな」
「昔のこと、ですか」
ゼファルドはしばし沈黙した後、ゆっくりと語り始めた。
―――
まだ彼が「魔王」と呼ばれる前。
お忍びで人間界を訪れた日のこと。
森の上を飛んでいると、木々の間で小さな人影が震えているのが見えた。
「君、どうした?」
降り立ったゼファルドは、幼い少年が涙目で立っているのを見つけた。
「ひ、人……?」少年は驚いたが、すぐに縋るように言った。
「会えてよかった……迷子になっちゃって……」
ゼファルドはしゃがみ込み、少年の目線に合わせた。
「村はどこだ? 送っていこう」
「……ほんとに?」
「あぁ。泣くな、きっと家族も心配している」
歩きながら、少年はゼファルドに問いかけた。
「ねぇ、お兄ちゃん。魔族って怖いの?」
「……そう聞いているのか?」
「んー、会ったことないからわからない。でも、悪い人ばっかりじゃないと思う。話してみないと分からないよ」
ゼファルドは一瞬言葉を失った。幼い少年の真っ直ぐな瞳に、何かが胸に突き刺さった。
「……そうだな。話してみなければ、何も分からない」
村に着くと、遠くから声が響いた。
「リオ! どこにいたの!」
家族が駆け寄ってきた。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「こちらこそ。元気でな」
ゼファルドが振り返ると、すでに少年の家族に囲まれていたリオの姿があった。
「お兄ちゃん?」母親が問い返すが、ゼファルドの姿はもうそこにはなかった。
―――
庭園に戻る。
「……それが、今の勇者リオだったのですか」ヴァルターの声が低く響いた。
「あぁ。本人は覚えていないだろうな」ゼファルドは苦笑を浮かべる。
「……もしその出会いがなければ、魔界と人間界はすでに戦争に突入していたかもしれません」
「かもな。でもあの子の言葉が、俺を変えたんだ」
ゼファルドは夜空を見上げ、そっと笑った。
「話してみないと分からない――。あの時のリオに教えられた言葉だ」
ヴァルターはしばらく沈黙し、やがて深く一礼した。
「魔王様、その信念を、私たちは支え続けましょう」
夜の風が、静かに二人を包み込んだ。
魔王ゼファルドの優しさの根源には、幼いリオとの偶然の出会いがあった。
「話してみないと分からない」――その言葉は、今もなお魔王の胸に強く刻まれている。
やがて再び二人が出会うとき、この記憶がどのように作用するのか。物語は静かにその時を待っていた。