第10話 主婦、半日の草原行軍
歩くって言ったけど、一体どれくらいの距離を歩くんだろうか。
そういえばさっき何食わぬ顔で「半日」って言ってなかった…?
冷静に考えてやばくない?
一時間や二時間ならまだしも、半日て……
さ、旅はこれからですよ!とでも言いたげに軽々と言ったルミナのその一言が、私の足にずしんと重くのしかかった。
「……ねえルミナ。歩きで半日って、冷静に考えて拷問じゃない?」
口をついて出た悲鳴は、もはや理性よりも筋肉からの叫びだ。
私はスポーツ少女でもなければ、休日にハイキングを楽しむような健康派でもない。普段の移動手段は、自転車かバス。最大の運動といえばスーパーの特売日にカートを押してダッシュするくらいだ。
「大丈夫です、サナ様ならきっとできます。途中で景色を楽しみながら、ゆっくり歩きましょう」
ルミナが相変わらず天真爛漫な声で宥めてくる。
いやいやいや! “景色を楽しむ”って、それ運動会で先生が言う『気持ちで負けないように!』レベルの精神論だから! 足の疲労は精神じゃ誤魔化せないんだよ!?
「景色で誤魔化さないで! こっちは“帰りたい病”と“半日歩きたくない病”を併発してるんですけど!」
私は必死に食い下がるが、足は止まらない。止められない理由がある。
――旦那のことだ。
三年前に患ったあの病。医者が静かに告げた「再発の可能性があります」という言葉。
ルミナが見せてきたあの水晶玉。私の脳裏に、何度もその映像がよみがえる。
あれが作り物なら笑って済ませられた。でも、あまりにも現実味があった。あの手のぬくもりを私は今でも覚えている。どうしても頭の中で旦那のことを反芻してしまうのは、それを二度と失いたくはなかったからだ。
「……はぁ、歩くしかないのかぁ」
ため息混じりにつぶやくと、ルミナがくるりと振り返り、金色の羽をきらめかせながら小首をかしげる。
「サナ様、旦那さまのことを考えてますね?」
「……図星。だから無理にでも頑張ろうと思ってるけど、足が拒否反応してるの!」
私は足元を見下ろし、革のブーツに包まれた足を恨めしくにらむ。心と体の板挟み。主婦の運命って重い。
…にしても、この斧重くない…?半日歩くにしては主にすぎるんだけど。
ちょっとルミナ!どうにかできないのこれ!
私がぶんぶん斧を振って抗議すると、ルミナは「あっ」と手を打った。
「そうでした! 言い忘れてました。神器は召喚物ですから、サナ様の意思で自由に収納したり、大きさや形状を変えられるんですよ」
「は? なにそのゲームの便利機能! もっと早く言いなさいよ!」
「えへへ……つい説明を忘れてました」
「ついで済ませるな!」
ぷんすか怒っていると、ルミナは嬉しそうにくるくる回りながら指導モードに入った。
「では、試してみましょう。まずは“消えろ”とか“仕舞え”とか、サナ様の頭の中で強く念じてみてください」
「念じるって……そんな中二病みたいな……」
ぼやきつつ、私は恐る恐る「仕舞え……!」と心で叫んだ。
すると――
ドゥンッ、と低い音とともに斧が光の粒子になって霧散し、私の手からすっと消えた。
重さが一気に消え、両腕が軽く跳ね上がる。
「おおお!? 腕が! 自由だぁぁぁ!!」
「成功です! では、今度は逆に“出ろ”と念じてみましょう」
「え、もう一回やるの? ……出ろぉ!」
すると今度は、光が逆流するように集まり、斧が手元にズシンと現れる。
その重量感に「ぐえっ」と声が漏れた。
「うわぁ……召喚のクセに、重量はしっかりあるんだ……」
「形状も自由ですよ。片手サイズの小斧や、飾りのペンダントにだって変えられます」
「ペンダント!? なんでそんなオシャレ仕様!?」
「神器は所有者の魂と繋がっていますから、扱いやすい形に変化させられるんです」
半信半疑で「軽くなれ!」と念じてみると、ズズッと斧が縮んでいき、片手で振れる小斧サイズに変わった。
試しに「もっと軽く!」と念じたら――指先サイズのキーホルダーになってぶら下がった。
「え、なにこれ……めっちゃかわいいんだけど!? ギャップ萌えすぎない!?」
「ふふっ。これで半日歩くのも安心ですね」
「いや、安心っていうか、これ最初から教えてよ! 私ずっと“主婦が巨大バトルアックス担いで行軍”スタイルになると覚悟してたんだから!」
そんな私の愚痴をよそに、道は緩やかに林を抜け、視界が一気に開けていった。
――そして、目の前に広がったのは、息を呑むほど壮大な草原だった。
どこまでも続く緑の大地。陽光を浴びた草は風に波打ち、まるで海のうねりのようにきらめく。一本一本の葉先が銀色の輝きを放ち、それらが揃って揺れると、草原全体が巨大な生き物のように呼吸しているかのように見えた。
遠くには空を突き刺すような巨樹がそびえ立ち、幹は岩山のように太く、枝は雲を支えているようだ。
空は吸い込まれるほどの青。帆を張った船のような雲が流れ、群れをなす鳥たちが白い弧を描きながら飛んでいく。
「……なにこれ、ポスター? いや、ゲームのオープニング映像でしょ?」
私は立ち止まり、口を半開きにして見とれてしまった。
さっきも思ったけど、現実でこんな景色に出会ったことはない。旅行パンフレットですら盛りすぎだろってレベルだ。
「アルヴェリア大陸の心臓部に近づいているんです」
ルミナの声は風に溶け、草のざわめきと重なって、不思議な残響を残す。
「心臓部って……バイオハザード的な意味じゃないよね? ゾンビとか出ないよね?」
「違います。もっと根源的な……命の流れが集まる場所です。サナ様がこちらに“選ばれた”理由も、そこに関わっているんですよ」
心臓がひゅっと縮む。
――選ばれた理由。
「……つまり、私が“救世の僧侶”とか呼ばれてる理由?」
「はい。旦那さまの寿命とも関係していますが……それだけではありません」
「え、まだ裏があるの? 私の脳みそ、キャパオーバーなんだけど」
私は半泣きで抗議する。ところがルミナはにこにこと羽ばたきながら、意味深な笑みを浮かべ続けるだけだ。
「詳しくは、これからきちんとお話しします。ですが……サナ様が選ばれたのは偶然ではない、ということだけは覚えておいてください」
その言葉と同時に、草原を渡る風が頬を撫でた。甘い草花の香り、土の匂い、遠くの鳥の声。あまりにも美しい景色と、あまりにも現実離れした説明。
でも不思議なことに、その二つが重なった瞬間、私の胸に小さなざわめきが生まれた。
「……半日歩くとかほんとにしんどいけど」
私は小さくつぶやく。
「でも……それで旦那が救えるなら、歩くしかないんだよね」
足取りは重い。けれど、その重さの下に確かな動機があった。