第9話 主婦、街を目指す
「――それじゃあ、最寄りの街に行きましょう!」
はい、出ました。ルミナの唐突シリーズ。
この世界に来てから何回目だろう、彼女の無計画な号令。腰を抜かして涙目で斧を握りしめた私に、何を軽快に次の予定をブチ込もうとしてるんですか。スケジュール帳に「異世界散策」なんて項目、書いた覚えないからね!?
「ちょっと待って。街って言ったって……こんな山奥みたいなとこに、ほんとにあるの?」
思わず声が疑いに満ちる。だって周りを見てほしい。
背後は切り立った崖、眼下には底知れない湖、隣はついさっきまで謎のモンスター(ジェルムとか言ってたやつ)が徘徊していた森。電波どころか郵便配達員すら遭難しそうな僻地じゃないの。ここに“最寄りの街”とか無理ありすぎでしょ。
「ふふふ、甘く見ないでください!」
ルミナは空中でひらりと宙返りして、胸(?)を張る。いやそこは得意げになるポイントじゃない。
「ここは〈エリュシオン地方〉。そして、私たちが立っているのは、その中心に広がる【リヴェルシア都市圏】の外縁部なんです!」
「と、としけん!?」
あまりに予想外の単語に、思わず裏返った声が出る。
都市圏って言った? ここが? どこをどう見ればそうなるの。私の視界には崖、湖、森。観光資源ゼロ。むしろ「立ち入り禁止区域」って看板の方が似合うんだけど。
「リヴェルシアは交易都市なんです!」
ルミナは翼をきらきらと揺らし、講義を続ける。
「大陸の各地から船が集まり、人や物が交差する場所。わかりやすく言えば――海に面した、活気あふれる港町ですね!」
港町。
そう言われると、なんだか少しイメージしやすい。けど待て、つまり――。
「えーっと……海が近いってこと?」
「その通りです! ここから半日ほど歩けば港に出られます。そしてそこに広がるのがリヴェルシア。白壁の家々と青い屋根、海風を受けてはためく帆、石畳を行き交う商人たち……とっても素敵な場所ですよ!」
……イメージが浮かんできた。
丘陵地に階段状に並ぶ石造りの建物。広場の中央には水を跳ね上げる噴水。学生風の若者たちが歓声を上げながら駆けていく。潮の匂いと焼き魚の香りが入り混じる市場のざわめき。
……ちょっと、見てみたい。
いやいやいや、何を夢見心地になってる私。ここは旅行パンフじゃない。異世界なんだよ? 目的は観光じゃなくて帰還なんだから!
「ルミナ、確認させてもらうけど……その街に行けば、帰れる手段が見つかるの?」
「うーん、帰れるかどうかはすぐにはわかりません。でも!」
彼女は指をくるくる回して光を散らし、どや顔を決める。
「少なくとも物資は整います! 宿もあります! 食事も! それから……甘いお菓子も!」
「……甘いお菓子?」
「そうです! リヴェルシア名物 《マリン・シュガーパイ》! 海藻から抽出した塩と、港に届く砂糖を組み合わせた逸品なんです!」
お菓子か……。
頭の中にパイ生地の層がさくりと割れて、甘塩っぱさがじゅわっと広がる光景が浮かぶ。ぐらっと心が傾く。いやいや、ダメ。私はスイーツで釣られるタイプじゃ……ない……はず。名前からして絶対おいしいやつなのが悔しい。
「とにかく! 街に行けば休めるし、人の暮らしを見れば元気も出ますよ!」
ルミナがキラキラした目で推してくる。
私は大きくため息をついた。
……もう、こうなったら行くしかない。
腰を抜かして泣いたりツッコんだりしてばかりじゃ、いつまでたっても前に進めない。帰るためにも、まずはこの世界の“人間の生活圏”に入らないと。
湖面を吹き抜ける風が髪を揺らした。
見上げた空は高く澄み渡り、遠くに白い海鳥が旋回している。確かに海は近いのだろう。
未知の港町――リヴェルシア。
そこに行けば、何か答えが見つかるのだろうか。
ゴツすぎる巨大な斧を背負ったまま、不安と期待を抱えて一歩を踏み出した。