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第2話 ゆりの絵

 終礼のチャイムが放課後を告げる。

 日菜子は、号令の直後に鞄を担ぎ上げる佳恋の姿を認めると、すぐさま呼び止めた。けれど聞こえていないのか──いや、明らかな無視だ、佳恋は教室を後にしようとする。

 小走りで駆け寄ろうとするが、その速足にはなぜか追いつけなかった。自信の荷物を慌てて掴むと佳恋の行く先についてゆく。

 転入してあまり経っていないというのにその足取りは確かだった。そして階段を二階分ほど上がると、一つの鉄の扉に行きつく。佳恋がその先にいるのは必至だった。


「……」


 日菜子は意を決してドアノブをひねると、錆のひっかりと風の勢いで重い扉を押し開ける。

 ここはこの学校で唯一の屋上だった。屋上は立ち入り禁止。

 しかし佳恋は金網に指を引っ掛けて学校のある街を静かに見下ろしていた。春の風に長い茶髪が煽られている。

 日菜子は眉根を寄せて、彼女に近づいた。

 けれど口を開いたのは佳恋が先だった。


「……なに」


 振り返る整った顔を凄ませている。

 今はもうこの世にいないゆりの面影がある。そんな彼女に対してつっけんどんな態度など取りたくはなかったが、目の前にいるのは月岡佳恋である。得体のしれない転入生だ。

 日菜子は眉頭に力を込めると、意を決して口を開いた。


「ちょっと話がしたいんだけど」

「あたしは何も話すことなんてないんだけど?」

「わたしはあるの」


 やはりゆりとは違う。ゆりはこれほど不愉快な口を利かないし、我も強くない。

 行ったり来たりの押し問答、どちらも譲らない平行線だ。


「ゆりのこと、聞きたいんだけど」


 日菜子の頑固さに佳恋はそっぽを向いて小さく舌打ちをすると、鞄を地面に落とした。ため息とともに金網に背中を預けてその場に座り込む。

 どうぞ、と言いたげな目つきに、日菜子は遠慮なく隣に膝を抱えた。


「……なんで屋上なの?」


 日菜子は背中に吹き付ける風を感じて、膝を抱える手に力を込める。

 階下は美術室、もう一つ下は日菜子たちの教室だ。二階は教員室で、一回は下駄箱。ここからは正門が見えるが大した光景でもない。それ以上に日菜子には『ゆりが飛び降りる場所』としての認識の方が強かった。

 佳恋は目を伏せ、小春日和な太陽に顔を向けて口を開く。


「特に意味はないわ。前の学校でも屋上が好きだったから、こっちでも屋上に立ち入ってみただけ」

「でも……!」

「でも?」


 まさか訊き返されるとは思わず、日菜子は勢いを失って体を丸めた。


「……何か、あるかもしれないじゃん」

「『何か』って何よ」

「ゆ……ゆりの何か」


 日菜子の脳裏に上下によぎる体がフラッシュバックする。

 わざわざ聞くなんて趣味が悪い。

 しかし佳恋は日菜子の予想外に、呆れた声を出した。


「な、なに?」

「あんた、まだ気づいてないの」


 馬鹿にされそうなので繰り返し尋ねはしなかったが、佳恋は人差し指をくるくると回して言う。


「ゆりは屋上なんかから飛び降りてない」


 風が吹き抜ける。

 日菜子は予想外の言葉に、沈黙を返した。疑問符すらも忘れて佳恋の発言を反芻する。


「少し考えたらわかるでしょ」


 佳恋は聞かせるようにため息を吐くと、すくっと立ち上がって屋上から見下ろした。頭頂部を金網に押し付けて、見ているのはゆりの落下した軌道だ。


「毎日四限目に、ゆりは落ちる。そのうちの水曜日、私たちの教室の上では……つまり美術室では授業が行われてる」


 佳恋が同意を求めるように視線を寄越してくるので、日菜子はぎこちなく頷いた。

 まだ新しい時間割を思えているわけではないが、週に一度だけ四限目に美術の授業が入っていることは知っている。足音が階上から響いてくるからだ。


「じゃあ、目撃者があたしたちのクラス以外にいてもいいとは思わない?」


 反論の余地もない完璧な推理だ。

 日菜子は佳恋に尋ねられることを恐れて俯いた。これ以上、ゆりについて聞かないで。しかし佳恋はそれを見抜いていながら尋ねてきた。そういう目をしていたのだ。


「ゆりは美術室から飛び降りている。そして美術室とゆりには関係がある。違う?」

「……」


 嘘はつけない。つまり頷く以外なかった。


 美術が選択授業となった日、ゆりが入り浸っていたあの場所に行かなくて済むことをどれだけ安堵したことか。ゆりの素敵な油絵を見て手を叩いた在りし日を思い出さすことがないと胸を撫でおろしたことか。

 しかし無情にも佳恋は、視線だけで美術室への案内を促してきた。







「ゆりは美術部員だったの」


 絵に描いたような優等生だった。

 昨年度は学級委員長も務め、定期試験ではいつも廊下に名前が張り出されていた。言わずもがな美人で……そして趣味だという絵すらも上手だった。


「コンクールに出す話が出たの」

「ゆりの絵を?」

「そう」


 日菜子は首を縦に振った。

 よく覚えている。

 それは水辺で戯れる少女たちの絵。木漏れ日はうっとりとするほどで、少女たちの風が吹けば飛んでいきそうな軽やかさも見事だった。

 誰もがコンクールの入賞を間違いないと評し、ゆりに参加するように言ったのだ。


「でもゆりは出さなかったの」

「なんで?」

「……多分、これ以上目立ちたくなかったんだと思う」


 ゆりの素晴らしい一作は、その次の週には茶色い染みができていた。誰が見てもお茶を零されたことは明らかだったが、顧問は油絵だからまだ修正が効くだろうと助言した。しかしゆりはそれを拒んだ。

 この絵はそういう運命だったのだと。


「あまりこういうことは言いたくないんだけど……あれはゆりがやったんだと思ってる」

「わざと自分の絵にお茶を零したって?」


 佳恋の眉根が寄る。けれど日菜子にはそうとしか思えなかった。

 この学校にいる誰一人として、百合を妬むことができるほど近づくことはできなかった。女子校に咲く、高根の花だったのだから。


「でも──……」


 佳恋が何かを言い淀んだ。

 佳恋が見ていたゆりの姿とは大きく違いがあるのだろう。けれどこれがこの学校でのゆりの姿だ。

 日菜子はぴたりと歩みを止めた。

 画材独特の匂いが扉越しにでもひどく漂ってきている。美術室は中等部高等部兼用だ。日菜子は高等学校からの入学だったので、結局一年しか使用していないが、中等部からだったゆりは四年間、この美術室で絵を描き続けていたのだろうと思う。

 日菜子は室内が暗いことを確認しつつ、その引き戸に手を掛けた。重い音を立てて扉は開かれ、画材の匂いがぐんと増す。


「入っちゃっていいの?」


 廊下で腕組み、立ち入ろうとしない佳恋を振り返る。日菜子は迷いなく頷いた。


「いいんじゃない? 部活やってるかと思ったんだけど、今日は活動してなかったみたいだし」


 きれいな板張りの床は絵の具で汚れている。きっと水で濡らした雑巾でこすっても落ちない、年季の入ったものだ。

 落ちかけた日光だけが差す美術室をゆったりと見回す。不規則に並べられた机、数の足りない椅子、目の前の黒板には授業の内容と思われるポスターが張られていた。


「ねえ」


 佳恋に呼びかけられ、日菜子は教室後方へと目を向ける。

 佳恋の目線の先には大きなキャンパスがいくつも立てかけられており、授業で作成されたものとは違うことが明らかだ。つまり美術部で描かれたもの。


「ゆりのはある?」

「多分ない」


 日菜子は即答した。


「なんで?」


 そしてすぐに目を丸くした。

 佳恋が突然、察しが悪くなったように思えたからだ。少し考えたらわかる話、ゆりがこの学校から除籍されたときに自宅に回収されたからに決まっている。

 けれど佳恋は愛想のない顔で首を傾げていた。


「わからないの?」

「わからないわよ。ゆりの絵は一体どこにあるの」

「ゆ……ゆりのお家でしょ?」


 できる限り気に障らないように言ったつもりだったのだが。


「はあ?」


 佳恋はキレた。美しい顔に睨まれ、日菜子は身を縮こまらせる。


「『はあ?』ってなに。普通の事でしょ?」

「普通じゃないから聞いてるんじゃない」


 佳恋は一つ、大きな舌打ちをすると、人差し指を床に向けて指した。


「ここにも」


 そして次はゆりの家の方角へ。


「もちろんあそこにもなかった」


 日菜子は目を瞠る。


「ゆりの絵はどこ?」


 そんなの。


「し……知らないよ。ゆりの絵がお家にもないなんて今初めて知ったのに、私が在処を知ってるはずがないじゃん」


 見透かす目が日菜子の体を貫いてゆく。

 けれども知らないものは知らないのだ。ないのなら、おそらく別のどこかにあって、どこかの誰かがどんな理由かは知らないが、勝手に持ち出すなどしたのだ。


「すっとぼけてんじゃないでしょうね」


 さすがにこうも疑われると、普段怒らない日菜子も腹が立つというものだ。ふつふつと胃から湧き上がってくる熱いものをぐっと抑えながら、佳恋に負けず睨みつけた。


「知らないってば」

「ゆりの絵について、あんなに詳しかったのに?」

「あれはあの時、あの場所に居合わせてたからだよ!」


 徐々に歯止めが利かなくなってくる。

 疑いの目に、日菜子は目尻に涙を滲ませた。


「居合わせてた? それは不思議ね。だってあんた──」

「──あの」


 追及の言葉がぴたりと止まる。

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