56話 待ち侘びた答え
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来る土曜日。私は早朝五時に起床し、全ての身支度を済ませ、リビングにて正座をしつつ出発の刻を待っていた。
弌茄君からの告白の返事という人生最大の正念場、"緊張で眠れず準備もロクに出来なかった"など愚行も愚行。正妻を志す者の沙汰ではない。
私はしっかり就寝前に三十キロのジョギングと各セット七百回以上の全身トレーニングを行い、疲労で脳を叩きのめして強制睡眠へと洒落込んだ。これぞ未来の正妻。真のヒロイン。盛大な拍手をありがとう。
……と、その時。スマホに設定していた午前九時三十分のアラームがけたたましく室内に響き渡る。固く瞑っていた双眸を開き、傍らにあるそれを手に取って通知を止めた。
「……よし………!!!」
正座から静かに立ち上がる。
あまりの緊張で私服選びに手間取り、漁り散らかした衣服で足の踏み場も無くなってしまったリビングと、あまりの緊張で委縮してしまった胃にむりやり流し込んだ寒天ゼリーの空容器のみが置かれたテーブルをそのままに、私は自宅アパートを発つのだった。
◇
南池袋公園へは、自宅から徒歩五分程度の距離だった。周囲に聳えるビル群に囲われるように佇む広々とした敷地内には、青々とした芝生が敷き詰められており……田舎者の私からすれば、喧噪と森閑の織りなすちぐはぐな光景が何となく可笑しかった。
土曜は親が仕事の家族も多いのだろう。昼前なのも相まって子供の数もまばらで、ベンチに腰掛け一息つくご老人や、スポーツウェアに身を包み周囲をジョギングする青年達がちらほら散見する程度だった。
かくいう私は……公園内にあるオシャレなカフェの前、更に端っこの方に一人ぽつんと立ちながら、約束の時間を待っていた。現在九時四十分。微妙に早く着きすぎてしまった。始めて来る公園だけど、緊張で散策する余裕なんてないし……
「ヒナタさん!!」
待ち合わせ時間までのもどかしさと緊張に悶えていた矢先、前方から私を呼ぶ声がした。反射的に顔を上げると、なんと弌茄君がこちらへ小走りで向かってきていた。
突然の登場に驚き、困惑し、緊張が跳ねあがり、感情が乱れた結果……何故か私は崩れてもいない前髪にサッと手を伸ばし、分け目を明後日の方向に流しながら顔を背けてしまう。何やってんだ私!親戚の集まりで恥ずかしがる思春期か!そこは満面の笑みで”弌茄君!”だろ!
「あっ……い、弌茄君……!」
脳内で光速の反省会を済ませ、辛うじて彼の名前を呼ぶ。
「は、早いね?まだニ十分くらいあるけど……」
「いやいや!!俺のが遅れて着いちゃったし……!!呼び出しておいてごめん!!」
顔の前で手を合わせながら深々と謝罪する弌茄君。私は慌てて腰を屈め、彼の顔を覗き込む。
「か、勝手に私が早く家出ちゃっただけだから!謝らないで………っていうか、弌茄君………な、何で、その……………スーツなの?」
何故か弌茄君は、長閑な公園の雰囲気にまるで似つかわしくないバッチバチのスーツ姿で現れたのだ。
私服……なワケないよね。何度か学校の外で合ってるけどスーツ着てる所なんて見た事無いし。え、本当に何で!?いや滅茶苦茶似合ってるし一眼レフでも持ってきて擦り切れるくらい写真撮りたいけど………それはそれとして何で!!?
「………大事な話だから、ちゃんとした服装で伝えたくて……」
「っ……!だ、大事な………話……?」
……そうだ。この待ち合わせは、先日私がした告白に対する彼の答えを聞くためのもの。
…………にしてもスーツ!!?それは、えっと……どっち!!?”YES”の誠意なのか”NO”の誠意なのか皆目見当つかないよ!!どちらかと言うと”NO”寄りの服装じゃない!!?私、誠意を込めたスーツ姿で丁重にフラれる可能性あるの!!?勘弁してよ!!!
い、いや。決めつけるのは早い。こっちはあれだけ熱烈な告白をしてるんだ。一緒に危機を乗り切り夜の街を駆け抜けた思い出だってある。
「きっ……ききき……聞か……聞かせて………!!その、大事な……話……」
ガチガチに震える唇を何とか駆使して言葉を紡ぐ。それを聞いた弌茄君は改めて姿勢を正し、数度の深呼吸をした後で、硬く目を瞑った。
「…………じゃあ、ヒナタさん。聞いてくれ」
「う、うん……!」
彼の顔から眼が離れず、必然的に視線が合う。
覚悟を決めた様な、精悍で澄んだ瞳に思わず心臓が跳ね、息を呑んでしまった。………あぁ、やっぱり弌茄君……私の告白を、受け入れてくれたんだ……
そして、彼は私を熱く見つめた後……視線を足元へと移した。
「良い地面だ……」
「………ん?」
確かに、灰白色の石畳で舗装された良い地面ではあるけれども……何で急に地面を褒め始めたんだろう……
「乾いた石畳、穏やかな静寂、耳元を通り過ぎる追い風……!膝と肘の調子も万全……」
「え、ちょっと……弌茄君?」
呼吸を整え、何かしらのトップアスリートの様に手足を脱力させつつ空間と肉体のコンディションを確認し始める弌茄君。
……何か猛烈に嫌な予感がする。
「ヒナタさん………聞いてくれ、そして見ていてくれ……!!!」
「ん?……み、見る!?どういうこと!?」
違うよね!!?見るって……花束とかだよね!?……アレじゃないよね!!?肘と膝のコンディション確認も、跪いて花束渡すためのやつだよね!?日本古来より伝わる最上の謝意を込めた礼式じゃないよね!!!?
「シュッ………シュッッ………」
完璧な九十度に肘曲げながらピンッピンに指が伸びた両手を額のあたりにシュッシュ言いながら突き出してるけど違うよね!?空中に投げた花束を上空に向かって押し上げて『いやいや、これがホンマのブーケトスってやかましわ!!』っていうレベル2くらいのコントする為の素振りだよね!!?
「これが俺の………」
私は思わず目の前で両手を固く結んで祈り始めていた。
「ヒナタさん!!!」
「はっ……はい!!!!」
頼む!!告白の返事であれ!!花束であれ!!!せめて花束を用いたコントであれ!!!!
「先日は誠に……申し訳ありませんでしたあぁあぁぁぁあ!!!!」
耳を劈く謝罪の叫びと共に、弌茄君は凄まじい勢いで地に跪き、石畳と接吻させた額の傍にハの字に開いた両手を添える。屈曲した背中は美しい流線型を描き、後方から吹きすさぶ追い風の抵抗を一切受ける事無く……否、最早”風”そのものと言って差し支えない。
それほどまでに、彼の姿は自然と一体化していた。
「やっぱり土下座じゃん!!!もうええわ!!!!!」
何度目かも分からない弌茄君の圧倒的完成度の土下座姿に、私は図らずもレベル2のコントを繰り広げてしまうのだった。
◇
「ちょ、弌茄君……!?いきなり何してんの……!!?」
慌てて駆け寄る私をよそに、弌茄君は未だ石畳と額による熱烈でディープな接吻を続けながら呻く。
「あんな醜態を晒して、ヒナタさんや警察の方にも迷惑を掛けて………!どうしようもないゴミ野郎だ俺は………!!何とお詫びを申し上げていいやら………」
醜態……とは、恐らくあのロボ状態の事だろう。警察の方との一悶着も、やはり覚えているらしい。
……弌茄君の性格上、謝罪が先に口を衝くのは納得かもしれない。そこを失念していた。
告白の返事が飛び出すものと緊張していた私は、弌茄君の相変わらず病的なまでの誠意を目の当たりにして腰が抜ける程の脱力感を隠せずにいた。
「そ、そんなの気にしないでよ!全然迷惑だなんて思ってないから私……!」
”警察の方は思ってるだろうけど……”とは言えなかった。
「少なくとも、私に土下座なんてしなくていいから!だからほら、顔上げて……立って弌茄君!」
地中に根でも張っているのかと疑うほど地面に密着して離れない彼の右腕を掴んで何とか引き剥がし、無理矢理上体を起こす。露わになった彼の表情は、誇張抜きで”この世の終わり”の様な絶望感に染まっていた。
「ほら見て!!全っ然気にしてないよ私!ほら!!」
何とか弌茄君の罪悪感を減らそうと、大袈裟に腕を広げながら馬鹿みたいなニッコリ顔をしてみせる。……反応が無い。今度は両腕を胸の前でグルグル回しながら小躍りしてみる。これも駄目。
他にもタップダンスやロボットダンスやブレイクダンスを繰り広げてみたが……やはり彼の表情から淀みは消えなかった。ついでに、私達の攻防を見た通行人達の表情にも明らかな淀みが浮かんでいた。でもそんなこと気にしてられない。……私が弌茄君から聞きたいのは謝罪じゃなく………
「………やっぱり、ヒナタさんは優しい」
ここで漸く弌茄君が口を開いた。
「でも、だからこそ俺みたいな情けない奴に……君と友達でいる資格なんてないんだ……!!頼むヒナタさん!!続けさせてくれ!!」
「土下座を!!?もうそれ多分中毒か何かだよ!!!土下座の中毒って何!!?」
今一度地に跪こうとする彼の身体を何とか押し返しつつ、私は彼に語り掛け続ける。
「あと、前にも”資格”って言ってたけど!!……それは誰から貰えるの!?弌茄君が勝手に決めないでよ!!私が”良い”って言ってるんだから”良い”の!!ごちゃごちゃ言わずに黙って私と仲良くしてれば良いの!!!」
”もうヒナタさんに迷惑はかけない”。あの日、階段の踊り場でした約束も相まって、弌茄君は自責の念に駆られているのだろう。
「………”前にも”?」
「そうだよ!前にも資格がどうとかって…………………あっ」
違う。約束も資格の話も、その時弌茄君と話していたのは兄の方だった。完全に墓穴を掘ってしまった。
「だぁーーーーーーっっ!!!!」
「うぉっ!!ビックリした………な、何!?」
弌茄君の脳裏に浮かぶ疑念を吹き飛ばすかのように、思い切り怒声を上げる。あまりにもゴリ押しな記憶消去術は功を奏し、彼はそれ以上会話の齟齬に言及しなかった。
「と、とにかく!!弌茄君が謝る必要なんてない!分かった!!?」
「でっ……でも……」
「次は耳元で今の五倍叫ぶよ?」
「………わ、分かった。もう言いません……」
観念し、身体の力を抜く弌茄君。私も押さえつけていた手を離し、互いに向き合う。
「ごめんヒナタさん………俺、正気を失ってた」
「それは本当にそうだけど、気にしないで弌茄君」
漸く彼と目が合う。まだ罪悪感は残っているようだけど、私の説得は受け入れてくれたようだ。
………なら、本題はここからだ。私は一つ呼吸を置いて彼に問う。
「…………………で?」
「えっ」
「で?その…………次は?」
「つ、次?」
「まだ私に………言う事、あるんでしょ?」
告白の返事。土下座されたりダンスしたり叫んだりと紆余曲折あったが、今日はそれを聞きに来たんだ。
しかし、弌茄君は呆けたような顔で口を閉じている。………焦らすねぇ~~~~!!随分焦らすね弌茄君、勿体ぶっちゃってさぁ!!!さては最初に土下座して私にツッコませる事で緊張ほぐそうとしたなぁ~~~?!このこの~~~~っ!!!
「言う事……?ヒナタさんに……?」
脳内で大パレードを繰り広げている最中も、彼は未だにとぼけ続けている。
照れといじらしさを感じた私は、肘で彼を小突く様な仕草をしながら続きを促す。
「ほら、こないだの事。まだ……あるでしょ?言う事というか、”答え”というか……」
「答え……」
そこから、弌茄君は長考する。十秒、三十秒、一分、二分………そして、約五分。
その間流れる恐ろしいほどの沈黙に、流石の私も不安を覚えて口を開く。
「あ、あの………あるよね?答え……」
「…………ごめん、ヒナタさん。ちょっと……その……な、何のことか分からない……」
瞬間、背筋が凍りつく。弌茄君の表情に微塵の嘘も感じなかったからだ。
「え……?い、弌茄君………その………その、さ……」
散々盛り上がって、舞い上がって、緊張し続けていた裏で……確かに恐れていた事実。それを確認するための言葉を吐き出すのに、無限に思える様な一瞬を要した。
「お………覚えてない………の……?弌茄君が、ロボみたいになる直前の……事………」
私の問いに、彼は突然ハッとした表情を浮かべる。そして口元を抑えながら自然と呟いた。
「そ、そういえば俺………何であんな事になったんだっけ………?あれ?………~~~!!…………だ、ダメだ………!!思い出せない………」
頭を抱え、苦悶に顔を歪ませながら記憶を辿るが……結局答えは出なかった。額に冷汗をかきながら、彼は私に近づいて問い返す。
「ヒナタさん………あの日の夜、俺に何があった!?何かとんでもない事が起きた気がするんだが………全く思い出せないんだ………!!!」
引き続き、彼の表情は恐ろしい程に真剣で……その言葉は一言一句真実だと確信した。
とんでもないことをしでかした張本人である私は、
「ほ………………ほゅ……………」
今まで発した事の無い腑抜けた鳴き声を残して、膝から崩れ落ちるのだった。




