48話 赤頭市狼
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俺の人生に、起伏は要らない。有象無象に紛れて生を全うし、最低限の欲だけ満たせればそれでいい。
俺はモブ……いや、視聴者だ。或いは読者、或いは目撃者、或いは……まぁ、そんな事はどうでもいい。とにかく俺は、誰の人生にも過干渉はせず、ただ物陰から覗いて楽しむ悪趣味に興じていられれば、満足だった。赤頭市狼という人間は、ただそれだけのつまらない男だ。
だが、ここ最近はそれが崩れつつある。原因は、我が親友である吉井弌茄とその想い人の銀砂聖海、そして突如現れた謎の編入生、井原ヒロの存在である。
井原は圧倒的な顔面偏差値と異常なまでの身体的スペックで瞬く間にスクールカーストを駆け上り、あろうことか吉井積年の想い人である銀砂を寝取った。あれから、吉井は魂の抜かれた様な学生生活を送っている。
……今までの俺であれば、それもまた一興。むしろ予想外の展開は視聴者としては垂涎だ。親友として当たり障りない慰めと励ましを投げて、あとはひっそりと行く末を見守る。それが俺の人間観察の鉄板。
しかし、あの日。吉井が銀砂に想いを伝えようとした日。彼の告白を遮って走り去った銀砂の背中を、失意に塗れた顔で眺める吉井に、俺は窓から身を乗り出して叱咤した。その後あえなく撃沈してしまった彼に対し、俺は柄にもなく献身的に、過剰と言っていい程の慰めの言葉を並べた。
いつぞや井原ヒロが椅子から落ちそうになった時、それを助けた吉井に苛立ちを覚えた。井原が少しでも痛い目を見れば良いと思ってしまったのだ。それから、あの男を目に映すたび……もっと言えば、銀砂でさえも、見る度に心には暗雲が立ち込める。
どうやら俺は、かなり厄介な視聴者だったらしい。自分の意見で作品の良し悪しが変わると思っている。
たった一人の親友の恋が、たった一人の間男によって壊された事に対して………俺は明確な憤りを感じていたのだ。
◇
「井原君!!また明日ー!!」
「こっち向いて井原君!!」
「井原君バイバーイ!!」
火曜日の放課後。今日もクラスの女子達はハートの浮かんだ瞳で井原ヒロに黄色い声を送る。対する井原はそれらには一瞥もくれず、淡々と帰り支度を済ませていた。
「井原君、一緒に帰ろ?」
そこに、銀砂聖海が現れた。他の女子達には一切興味の無さそうな井原だが、何故か銀砂に対しては編入初日から態度が違う。始めから狙っていたのか……?
「いや、今日はバイトなんだ。悪いけど先に帰っててくれ」
「今から?大変だね。……分かった。じゃあね、井原君」
名残惜しそうな顔で、銀砂はカバンを持ち教室から出て行く。
……最後まで、吉井の事は見もせずに。
「………」
吉井の気も知らないで……いや、知っていてなお見せつけているのだ。……なんて女だ。ポッと出のイケメンに釣られて、本気でお前に惚れてる幼馴染をあっさり捨てやがって。
前の席に座る吉井を見る。彼もまた、淡々とカバンに教科書類を詰めていた。井原達の会話も当然聞こえていただろう。今でこそ表情にはあまり出さなくなったが、振られてから暫くの間は、仲睦まじい二人の姿を見る度に絶望に暮れた顔を浮かべていた。
「吉井」
後ろから呼び掛けると、彼は手を止めて振り返った。
「どうした?赤頭」
「………今日、ファミレスにでも寄らねぇか?ドリンクバーぐらいなら奢ってやるからよ」
哀れみから出た提案ではない。あくまでも友人としての他愛ない飯の誘いだ。
数秒、考える素振りを見せてから吉井は答える。
「悪い、俺ちょっと用事あるんだ」
「用事?買い物か?」
「いや……ちょっとな」その直後、彼は目を逸らし、言い淀んだ。
「珍しく勿体ぶるな。ドリンクバー無料のファミレスよりも魅力的な用事なのか?」
「魅力的なんかじゃないけど………その、禊というか……」
いまいち要領を得ない回答に、逆に興味が湧いてしまう。
「はぁ?何言ってんだお前?」
「と、とにかく!今日はすまん赤頭!誘ってくれてありがとう!」そう言って、カバンを手に取り教室から発とうとする吉井。俺は思わず彼の右腕を掴んでいた。
「いやいや!ちょっと待て!金が無いならそう言えよ。なんだったら飯も少しくらいなら奢るぞ?」
「違うんだ!!俺みたいなやつは”放課後にレストラン”みたいな楽しい学生生活を送っちゃダメなんだ!!日に四十八キロの険しい山道を歩く苦行を千日間続ける様な禊が必要なんだ!!」
「千日回峰行!!?それ多分、千三百年でニ人くらいしか達成してねぇ修行だろ!!?」
「なら俺で三人目だ!!!許せ赤頭!!!気を付けて帰れよ!!!」
俺の制止を鬼のような形相で振り切り、そのまま吉井は教室を後にしてしまった。
ぽつりと残された俺は呆然としながらも……嵐の様に過ぎ去った訳の分からない彼の話の内容を、脳の中で反芻していた。
「どうしちまったんだアイツ……」
ずれた眼鏡を戻し、呟く。
何の脈絡も無く、あまりにも突飛で稚拙な会話。飯の誘いを断るのに、わざわざあんな嘘過ぎる言い訳を並べるか?……しかし、奴の表情は”マジ”だった。マジで千日回峰行を成し遂げんとしているような……。
そもそも、アイツは基本的に嘘が吐けない。会話に余計な小細工も持ち込まない。YESであるなら端的に、NOであるなら克明に理由を伝えて拒否をする。コミュニケーション全般にストレスを感じている俺にとって吉井との会話は純粋に楽しく、一種の娯楽でさえあった。
そんな奴が、あれほどトチ狂った妄言を並べ、話の途中で逃げるように立ち去ってしまった。……らしくない。やはりどこかおかしい。
「………」
観察するだけで、人の心には疎いと自負する俺でさえ吉井の心中は察するに余りある。想い人を寝取られ、自ら仕掛けた勝負にも惨敗し、更に忌むべき間男は銀砂だけでなく学年中の女子から持て囃されている。俺の前では気丈に振舞っているが、アイツの精神は目に見えない所で着実に蝕まれているに違いない。突飛な作り話を口にしたのも、その影響だろう。
俺はふと井原を見る。奴は既に帰り支度を終え、椅子を机の下に入れている最中だった。
沸々と、怒りにも近い靄が心に立ち込める。思わず奴の顔を睨みつけてしまっていた。
「………何?」
出口に向かう井原が、俺を通り過ぎる瞬間にそう言って足を止めた。視線がかち合う。俺はそれでも敵意を隠さない。
「別に。なんでもねぇよ」
「そうか」無機質な答えを返し、再び井原は歩き出す。
………言いたい事は、それこそ山の様にある。だがここで食って掛かるのは、吉井に不利を押し付ける事はあっても利は齎さない。出過ぎた真似だ。アイツを案じるなら、俺は余計な感情を押し殺さなければならない。
「吉井は……」
しかし、厄介な俺は思わず口にしていた。ドアに手を掛けた井原が動きを止め、振り返る。
「吉井は、良い奴だ」
「………」
「アイツの中で、俺達はただの人間だ。趣味が違っても立場が違っても思想が違っても、きっと人種や宗派が違ったとしても、アイツにとっては全員同じに見えてる。だから遠慮なくズカズカ人の心に入り込んで余計な心配ばっかりしやがる。………馬鹿なんだよ。だから俺はアイツを気に入ってる」
「………そうか」
「お前に対しても同じだ。俺は吉井から、お前に対する恨み言を聞いた事が無い。想像出来るだろ?あの日、教室で吉井に助けられたお前なら」
「………」井原は再び口を閉じる。
「こないだ階段の踊り場でしてた話も、吉井がお前に食って掛かった訳じゃないんだろ?最後らへんだけ話の内容聞こえちまってたんだが、アイツ曰く“迷惑をかけたヒナタさん"……ってのは、お前の妹か?」
「っ……そ、そうだ」
「どういう経緯で知り合ったかは分からんが……どうせ謝らなくても良いような事でわざわざ呼び出されて、肉親だからって理由で謝られでもしたんだろ。アイツ、お前を呼び出すまで日中ずっと”俺はとんでもないことを……ヒナタさん……”とかブツブツ言ってたぞ」
しかも踊り場から去る時、アイツの顔には笑みが浮かんでいた。どういう事の顛末があったのかは知らないが、とても間男に向けるような表情ではなかった。
「吉井は、ただ馬鹿で明るくて人が好いだけなんだよ。何の恨みがあってお前らが、自分らのイチャつきをひけらかしてるのかは知らんが………あまりアイツを苦しめてくれるな。飯の誘いを断られるのは、俺も少し寂しいんでな」
「………」
井原は視線を落とす。そして数秒の沈黙の後、弱々しく口を開いた。
「………るよ」
「え?」
「……分かってるよ。どれだけお人好しでどれだけ明るいかなんて。どれだけ……苦しんでるかって事も」
「………井原……?」
それ以上何か言い掛けて、彼は言葉を呑む。再び前を向き直り、扉を開いて歩き出した。
「親友、なんだな」
「あ?……あぁ、俺と吉井の事か?当たり前だろ。じゃなきゃこんなに首突っ込むかよ」
「………弌茄君を、よろしくね」
振り返ることなく、やけに和らいだ声で言って……井原は俺の視界から消えた。消える直前に見た彼の横顔、その口元は微かに、綻んでいるかのように見えた。
再び、ぽつり残された俺。
さきほどまで胸に抱いていた怒りは何故か凪いだように静まり、代わりに、僅かな疑念が芽生え始めていた。
「弌茄……君………?」




