45話 二人なら
「クッ……ソが………テメェ……!!今、何しやがった………!!」
自分の身に何が起こったのか理解できていない大男は、ただ確かな怒りのみを発しながら身体を起こす。
「け、喧嘩はやめましょう!!痛いの嫌だし怖いし!!ね!!?」
「舐めやがって………!!絶対殺す!!」
再び拳を握りながら、弌茄君に攻撃をしかける大男。しかし彼は身を軽く捩り飄々と拳を躱す。
矢継ぎ早に右、左と交互に繰り出される殴打を最小限の動きで避け続け、痺れを切らした大男は遂に足をも繰り出し始めた。
「このっ……!!!」
「うわぁっ!!!危ねぇっ!!」
地面に手を突きながら右足で大きな弧を描く。不意に放たれた顎下、死角からの攻撃。それでも弌茄君には当たらない。まるで全方向に視界が広がっているかのように、身を仰け反らせて回避。
次第に息を切らしていく男とは対照的に、弌茄君の顔には汗一滴たりとも滲んでいなかった。
「クソッ!!!おい、テメェらも来い!!」後ろを振り返り、傍観しているだけの二人に向かって声を荒げる大男。もはや意地になっている様子だ。
「あっ………あぁ……!!」
揃ってハッとした表情を浮かべ、二人は大男を挟む様に並び弌茄君の前へと立ちはだかる。
数的不利な状況に立たされても、彼の表情は変わらない。
「あの、もう本当にやめましょう!?もう夜遅いし、寒いし……」
「……マジで舐めてんなコイツ……!!」
「だろ!?逃げてるだけの癖にベラベラ喋りやがって……!!全員で潰すぞ!!」
男の号令と共に、三人はバラけて弌茄君を取り囲む。
三対一。先ほどの大立ち回りを見た後だけど、この状況は無勢過ぎる。いくら弌茄君でも全員を相手にする余裕なんて……
と、思慮する内に自然と足が動いていた。再び弌茄君の下へと駆けだしていたのだ。
しかし、そんな私を彼は目の端で捉える。
「下がってろ!」
これまで聞いた事の無い程低く、鋭い声色で言う。思わず心臓が跳ね、その場に立ち止まってしまった。
「危ないから、下がっててくれ」私に生じた困惑と不安を感じ取ったのか、柔和な声色に戻る。
「だ、ダメだよ!!私のせいで怪我なんてして欲しくない……!!」
「こっちのセリフだ。俺もお前に怪我させたくない。頼む」
「そんな事……言われても……!」依然、間に入ろうとする私に、弌茄君は微笑んだ。
「大丈夫。すぐ終わる」
その一言に、金髪の男が反応した。
「すぐ終わる……?俺らの事言ってんのか!?」
「えっ!?あ、いや!!そ……そういうわけではなくてですね………!!あははは……」
食い気味の指摘に、弌茄君は肩を跳ねさせながら否定する。しかしその様子が返って男達の苛立ちを増幅させてしまったらしい。
始めは乗り気でなかった様子の取り巻き二人も、徐々に顔に血が昇っていくのが分かる。
「………あー……久々にこんなムカついたわ。……マジでぶっ殺す」
「最初に痛めつけるのは俺だ。お前ら二人は俺の気が済んだ後にしろ」
「わーってるよ。……いつもそうだろ?」
直後、三人は地を蹴った。
正面は大男。形振り構わず拳を振るい、再び彼を追いつめる。その隙に後方の死角から二人の男が掴みかかる。身体を取り押さえて身動きを止める算段なのだろう。私は当然それを弌茄君に伝えるべく口を開いた。
「後っ……」
しかし、声より先に彼は動いた。二人の手が身体に触れる瞬間、弌茄君は咄嗟に身を捩って後方を振り向く。予想だにしなかった反応に怯んだ男達だが、その隙を彼は逃さない。
最小限の動きで拳を二度振るう。軌道は二人の男それぞれの顎を掠めた。その直後、彼らはまるで電源を切られたかのように動きを止め……膝から崩れ落ちてしまった。
「……………は、はぁ!?おい!!どうしたお前ら!!?あ、当たってなかっただろ!?」
何が起きたのか全く理解できない様子で、大男はやり場のない拳を振り上げたまま声を荒げる。
「………」
弌茄君は拳を敢えて外したのだ。正確に言えば、顎に攻撃を掠める事で脳震盪を起こし、気絶させた。
敢えて言おう。私じゃなきゃ見逃しちゃうねと。
「なっ……何だ……!?お前、マジで何なんだよ……!!」当初の威勢は消え去り、大男は当惑した声を上げる。
「…………お前らみてぇな小悪党の考えなんざ見え見えなんだよ。二人がかりで身体押さえてタコ殴りにでもするつもりだったんだろ?」
正面に立つ男の下にゆらりと近づく。その目から普段の温厚さは跡形も無く消え去っており、ただ冷たく、静謐な鋭さを孕んでいた。
「クッ……クソッ!!何なんだテメェ!!く、来るな!!!」
「……三人がかりで女の子怖がらせる様な奴らに、もう容赦なんてしねぇぞ俺は」
次の瞬間、弌茄君は右拳を叩きこむ。一切の無駄がない軌道と、残像すら生じ得る速度で繰り出された殴打は大男の顔面、鼻先からおよそ数ミリ程度の距離で静止した。
重く固まった空気が斬り裂かれ、風圧となって男に襲い掛かる。髪は激しく靡き、首につけていたチェーンは千切れんばかりに暴れ出す。その衝撃に、大男の身体は吹き飛ばされるが如く後方へ倒れた。
「ハァッ……ハァッ………!!」
痛みはないだろう。しかし今の一瞬で圧倒的な力の差と悍ましい程のプレッシャーを見に浴びた大男は、真っ青な顔でただ呼吸を繰り返すだけ。
「”殺す”だの”死ね”だの散々言ってたが…………本当に死にかけるのはどんな気分だ?」
無表情のまま淡々と尋ねる。返事はないが、その表情が全てを語っていた。
弌茄君の言葉は即ち、今の拳に明確な”殺意”が乗っていた事を暗示している。それを理解した男は大量の冷汗を浮かべたまま、白目を剥き気絶してしまった。
「…………ん!?あれ、ち、ちょっと!?どうしました!?え!?」
「気絶……してるみたいだね。ホントに殺されると思って……」
「そっ……そんな訳ないじゃん!!冗談だよ!!!ちょっとビックリさせるつもりで……」
ピクリとも動かない大男を見て露骨に慌てふためく弌茄君。横から声を掛けると、先程までとは別人の様に情けない困り顔を浮かべていた。
「………こ、この人達……どうしよう……」
「え!?ど、どうするって……」
「このまま放っといたら危ないよな!?財布とかケータイとか盗まれたりしたらさぁ!?」
暴漢モブ達の身を極限まで案じる弌茄君。何故たった今 拳の風圧だけで意識を飛ばした人間の身をそこまで案じられるのか。
呆れにも近い感情を抱きながらも……オロオロと狼狽え続ける彼を見ている内に、自然と口角が上がっていた。
「っていうか……こんな所、もし警察の人とかに見られたら事件になっちゃうんじゃ……!ヒ、ヒナタさん!どっかに隠れて!共犯扱いされるかもしんない!!」
咄嗟に私の肩を掴んで訴えかける弌茄君。
しかし私はその要求に応じず、むしろその手を取って強く握りこんだ。
「じゃあ………逃げよっか!」
「えっ!?」
そのまま彼の腕を引っ張って走りだす。アスファルトに斃れる三人の暴漢達を過ぎ去り、再び大通りへ。
行き交う往来を掻き分けて進む。横断歩道を食い気味に渡り、いつもの角は曲がらず一直線に。これでもう、帰路からは逸脱してしまった。
「ちょ、ちょっと待っ……!!」
後ろから動揺に満ちた声が聞こえるが、振り返らなかった。
激しく地を蹴り、喧噪を背にして、眩いネオンと清爽な夜風を身に浴びながらただ闇雲に東京を走る。
彼を引っ張る手が、次第に軽くなっていく。困惑して身を委ねていた弌茄君も、いつしか私の歩幅に合わせて走ってくれていた。
「ど、どこ行くの!!?」
「んー?………分かんない!!!」
「えぇぇっ!!?」
節操の無い都会の景色は、既に異世界へと姿を変えていた。踏んだ事の無い石畳を渡り、見た事も無い地名を目にする。ナビも付けず、ただ先へ。
闇に塗れた夜道でも、不思議と全く怖くない。弌茄君と二人なら……どこにだって行ける気がした。




