43話 佐伯 九
◇
「初日からあんなに忙しくなるとは夢にも思わなかったわね……。でも、二人のお陰で無事に営業出来たわ!ホンッッットにありがとう!お疲れ様!!!」
閉店後、時刻は午後六時。沈みかける夕日の橙に染まった店内で、天井さんは惜しみない労いの言葉を掛けつつ、私達が座る席にアイスコーヒーを二つ運んでくれた。既に二人とも着替えは終わっており、後は帰るだけという状態だった。
「あ、ありがとうございます。頂きます!」
文字通り、乾ききった喉から手が出る勢いでグラスを取る私と、
「ありあと~~……ございましゅ……」
文字通り、乾ききっただけのさえちー。髪色と同じ青に染められた、少し厚手で長袖のスポーツウェアに身を包み、椅子の上で流動体の様にだらりと垂れている。
あのショーの後、自信と気力取り戻したさえちーは再びフロアに戻った。私と一緒に荒れ狂う戦場を一心不乱に駆け抜けて……今、絶賛燃え尽き中である。
「チカちゃん大丈夫!?……フルトンとウニクロのコラボは今日だけらしいし、多分明日からは楽になると思う。明日のシフトは二人共午後からだけど……疲れてたら遅く来ても、なんなら休んじゃってもいいからね!その分お給料減らしたりとかは無いから!」
「い、いえ!そういう訳には……」
「そうれすよぉ!わたしもしゅっきん……しむわぁす!!」
「呂律も回ってないわよ!?チカちゃんは特に無理しないでね!?」
アイスコーヒーで喉を潤わせた私たちはそのまま十分程度、店の中で休ませてもらった。
◇
「本当に大丈夫!?もう暗いし、車出すわよ!?」
体力も回復し、帰宅するべく店から出た私達。扉の前で天井さんが途轍もなく心配そうな顔を浮かべていた。
「大丈夫です!二人共同じ電車で帰りますし、人通りが少ない道は選びませんから」
冬になれば、更に暗くなるのが早い。退勤の度に送ってもらうのは流石に負担をかけすぎる。
それに、いざとなれば暴漢数十人程度なら一人で粉砕できる。私は勿論、さえちーを守り切るのも容易い。ちなみにシフトは、それぞれが一人の時には明るい内に帰れるよう組んでくれているらしい。心配性すぎて営業形態に支障をきたしているのではないだろうか。
「ホントに気を付けてね……?普段から露出の多い恰好は避けて、常に人のいる場所を歩くこと!!何かあったら迷わず周りに助けを求める事!いざとなったら迷わず相手の急所を突くこと!!それから……」
「大丈夫ですってば!最後の方は対人戦が前提になってませんか!?」
それから、再三繰り返される彼女の心配を跳ねのけ、何とか別れを告げて入り口の扉を閉めることに成功。
むしろ休憩前より疲れてしまった気もするが……とりあえず、私とさえちーは仄暗い道を歩き始める。
店から徒歩五分程で駅に到着。池袋線に乗り池袋へ。相変わらず都会の電車はいつの時間も混んでいる。乗降の流れの中、なんとか一人分の空席を見つけ、遠慮するさえちーを無理矢理座らせた。
「私は大丈夫!!大丈夫だから!」と散々遠慮していた彼女も、座るやいなやあっという間に「ぐぅ」と寝息を立ててしまった。……これはこれで物騒かもしれない。私が守護らねば。
「はぁ~………疲れたなぁ……」
夜でも眩しいくらいのネオンが車窓を流れている。扉に少し凭れつつ、健やかな寝顔を浮かべるさえちーを見て呟いた。
今日は疲れた。でも、今までの孤独な日雇いバイトとは違う。仲間と一緒に、補い合いつつ一日を終える。言葉とは裏腹に自然と顔が綻んでいた。
「うぉ~………わたしに……まかせてぇ……イバ……ちゃん……」
電車の中で寝言まで出始めるさえちー。握った両の拳を弱弱しく突き上げ、涎を垂らしながら啖呵を切る。周囲の乗客は、その様子に思わず吹き出していた。
「うん。任せて良かったよ。ありがとう、さえちー」
人目も憚らず、私は右手の拳を、突き上げた彼女の拳に軽く突き合わせた。
それから暫く電車に揺られ、終点である池袋駅到着のアナウンスが流れる。最後まで眠り続けた彼女の肩を少しだけ揺らし「着いたよ」と小声で耳打ちする。
「んぇ?ついたぁ……?」寝起きの腑抜けきった声で呟くと、そのまま私に手を引かれ成すがままの状態で降車。
二人で改札を抜け東口へ。外はすっかり暗く、仕事帰りの男性や夕餉に向かう家族連れなどで街は日中と変わらない喧噪に包まれている。
「ふあわぁあぁ~~~~……すっごい寝ちゃった……。ありがとうイバちゃん、起こしてくれて。あのまま寝てたらどこに連れてかれてたか……」
「終点だから意地でも車掌さんに起こされてたよ」
「………あれ?っていうか、イバちゃんって與那森に通ってるんだよね?学校ってこの辺なの!?」
突如走る緊張感。マズイ。普通に池袋まで来てしまった。その辺の設定を全く詰めていない。
「が、学校は遠いんだけど、どうしても與那森に行きたくてさ!!『人と人との繋がりの中で社会性と自律性を育む』という教育理念に感動して………」
テンパった私は、ネットで調べた與那森高校の教育理念を完全詠唱しつつ誤魔化す。
「そうなんだ!大変だねぇ」
あっぶねぇ~~~………純粋な子で良かった………
もうこの話題に触れられ無いよう、私は思い出したかのように手を叩いて話題を変える。
「ってか、さえちーはどの辺に住んでるの!?もう暗いし、私、家の近くまで送ってくよ!」
「いやいや、大丈夫だよイバちゃん!一人で帰れるから……」
「ダメ!さえちー疲れてフラフラじゃん。こんな人混みの中歩いたら、転ぶわ迷うわ弾け飛ぶわで生きて帰れないよ!?」
「私ってフラフラで池袋歩いたら生きて帰れないの!?」
遠慮するさえちーを問い詰めて何とか同伴の許可を得た私は、ぴったり彼女の横に付いて帰路に着いた。
話を聞くと、どうやら私の住むアパートとそう離れてはいないらしい。飲食店街も近く、常に人通りがある道だ。これならよほど深夜でない限りは安全かもしれない。
「ねぇ、イバちゃん」
歩き始めてから暫く口を噤んでいたさえちーが、少し重苦しい口調で私を呼んだ。
「どうしたの?」
「…………今日は、ごめんね」
思いがけない一言に驚く。疲れているから喋らないだけかと思っていたけど、どうやらそれだけじゃないらしい。
「なんで謝るの?」
「……私、やっぱり全然仕事出来なくて。途中でフロアに戻った後も、ずっと皆に迷惑掛けてたし……」
背負っているリュックのハーネスを両手で強く握りしめ、私の顔を見ずにただ俯いている。
仕事が終わって今朝の様な明るさが戻ったと思っていたけど、やっぱり彼女の中では、靄が晴れないままだったのだろう。
「………さえちーはさ、全然分かってないよ」
「えっ?」
「今日一日で、さえちーが一番お客さんを笑顔にしてた。そんな凄い自分を無視して”迷惑かけてた”なんて、全然分かってない」腕を組みながら大袈裟に、説教気味に言う。
「………」
「さえちーのショー、ほんっっとに凄かった!あんなの見た事ないよ……。お客さんも、私達も口開きっぱなしだったし。………もしかしてさえちーって、プロのマジシャンとか?」
真剣な質問だったけど、彼女は頭を思い切り横に振りながら否定した。
「ぜっ、全然!!ただの趣味……っていうか」
「趣味!?いやいや……絶対趣味の範疇超えてたよ!?演出とか喋りとかもスムーズで完璧だったし……!」
そこで、漸く彼女の口元が少しだけ綻んだ。恥ずかしそうに下を向きながら、耳を赤くして言う。
「………昔から、何しても中途半端で、遅くて。いっつも周りの人怒らせてたんだ。でも、頭も悪いから頑張り方も分からなくて。さっきまで笑ってた人も、私が居るだけで嫌な顔にさせてた」
「そっ………それは、さえちーのせいじゃ無……」
「それがすっごい辛くて、悲しくて。だから……”私が居るから楽しかった”って言わせてやるって、腹いせみたいな理由で、ああいう手品とか大道芸みたいなのとか、皆が普段 現実では味わえないような事を覚えて……」
彼女がしきりに口にしていた非現実という言葉を、私は頭の中で反芻した。
と、そこまで喋ったところで彼女は、我に返ったように顔を上げる。これまでの発言を振り払うかの如く腕を広げて私の少し先を歩くと、貼り付けた笑顔で言った。
「でも結局、自分の”できなさ”を誤魔化して逃げてただけなんだけどね!こんなことばっかり出来るようになっても、仕事では何の役にも立たないし……!ごめん、イバちゃん。変な事いっぱい喋っちゃって!」
………烏滸がましいことを思った。私とさえちーは似ている。常に誰かと比較して、異なる事が過ちだと思っている。そんな経験が積み重なり、いつしか自分を信じられなくなって、居場所すら見失ってしまう。
鬱屈な自分が嫌いだった。何事にも疎い自分が嫌いだった。些細な事にも嫉妬して空回りする自分が嫌いだった。何より、自分の事すら信じられない自分が嫌いだった。
でも、今は違う。
弌茄君の言葉が一つずつ私に色を与えてくれたように。たった一言で、単純な私たちは彩られてしまうのかもしれない。……まぁ、私は彼以外にはガロン単位の染料を持ってこられても染まらないけど。
「……これ見て。さえちー」
「えっ?な、何?」
懐からスマホを取り出し、カメラロールを開く。
彼女に見せたのは、天井さんの店でショーが終わった直後に私が撮ったもの。
動物たちを模したボールを抱える子供達とお客さんが画面一杯に映っている。皆こちらに向かって満面の笑みを向け、無邪気にピースサインを取っていた。
「こ、これ……」
「”フロアに戻る”って言った後、さえちー名札取りに一回裏に行ったでしょ?……その時、一枚撮らせてもらったんだ。SNSとかに上げるつもりは全く無い……っていうか、そもそも私も天井さんのお店もSNSやってないから、完全に観賞用なんだけど」
「………」
「今日のお客さんたちは皆、さえちーが居たから笑顔になれたんだよ。こんなことなんかじゃない。今までさえちーが必死で探して身に着けた非現実が、私達全員を楽しませてくれた」
そのまま、スマホを差し出す。彼女は静かにそれを受け取ると、いつしか画面に釘付けになっていた。
「棚に上げたって、逃げたっていいじゃん!それが間違ってたか決めるのは他人じゃない。”役に立たない”?………どんな役か知らないけど、さえちーは今日めっっっちゃくちゃ輝いてた!私と天井さん、そして今日のお客さん全員が証人だよ。…………どう?さえちー。これでもまだ自分の事、好きになれないかな……?」
我ながら、”知ったような口を”と思う。でも最後の一言を聞いて、確かに彼女はハッとした。
それ以上野暮な事は喋らず、ただ彼女の言葉を待つ。いつしか周囲の喧噪など、微塵も耳に入らなくなっていた。
「ぅ………ん……うん……!ちょっとだけ………好きになれそう………かな………」
震えた声で、でも確かに私の耳に届くよう、少しだけ天邪鬼な言葉が返ってくる。
私は静かに肩を抱く。スマホが決して濡れないように、さえちーは右腕で顔を覆っていた。




