24話 いばらのように
「ちょっ………何言っ………」
動揺する天井さんをよそに、蹲っている弌茄君の耳元に近づく。
潜めた声に吐息を混ぜ、鼓膜を超えて脳まで直接届かせる様に、語り掛ける。
「さっき弌茄君、私経由で兄と聖海ちゃんが知り合ったんじゃないかって言ってたよね?……逆だよ。兄がすっっっっっごく彼女さんと仲良しだと聞いて……私もお友達になりたくて……」
「ゥゥッッッ」
「あ、でも聖海ちゃん……弌茄君の事も楽しそうに話してたよぉ……?とても仲の良いお友達だ……って」
「グゥゥゥッッッ」
「聖海ちゃん、普段はダウナーで天然だけど……きっとお兄ちゃんの前では弌茄君の前でさえ見せたことの無い笑顔を見せてるんだろうね………」
「ガァァアッッッ」
「そしてきっと彼に見せる表情は笑顔だけでなく、まるで熟れた果実の様に蕩けた……」
「やめなさいって!!!!」
天井さんが突然、スパァン!!!!!と、後ろから思い切りデカいスリッパで私の頭部をぶっ叩く。
……そこで漸く正気を取り戻した私は数秒遅れて、この短時間での己の行動と言動を思い出す。
「え……あ………わっ……私っ……何言って………!あっ……い……弌茄君!!ご、ごめんね!今のはその……じ、冗談だから!!妹っていうのも全部冗談!!ね!?い、今のナシ!!」
「………」
「……い、弌茄君……?」
ガックリと項垂れる彼を、心配になり覗き込む。……しかし、微かに聞こえてきたのは嘆きや呻きではなく……
「ハァ………ハァ………」
「え………?」
そこはかとなく、”満更でもない”と言わんばかりの、甘い息遣いだった。
………え、興奮してる?
”間男の妹からの耳元告げ口寝取られ報告”で………この子もしかして興奮してる……?
「弌茄君……?」
「ハァ………ハ……………………ハァッッッ!!!な、何でもない!なんでもないです!!」
そう言いつつ顔を上げる弌茄君だったが、どことなく恍惚としたような表情を浮かべ、何なら口元からだらしなく唾液まで出ている始末だった。
……………何という事だ。私、もとい”井原ヒロ”という存在が、彼の積年の恋心と脳細胞を破壊した挙句、とんでもない性癖の扉をこじ開けようとしている。
……いや、もう開いちゃってるかもしれない。
◇
「本当に……お騒がせしてすみませんでした……」
「やめて頂戴!謝るのはアタシの方よ!………でも、迷いはもう無いみたいね」
「はい。………これからも変わらず、聖海に相応しい男になれるよう精進していくつもりです」
「………」
あれから数十分後。未知の性癖への扉を開きかけた弌茄君を何とか落ち着かせ、私と天井さんは帰路に着く彼を見送る為、一様に外に出た。
そして弌茄君は、深々とお辞儀をしながら我々に別れの挨拶を述べる。
……結局、幾度目の再開にも関わらず恋には何の進展もないどころか、彼の記憶の中から私という存在が跡形も無く消え去っているという事実が明らかになっただけだった。
これから……私はどうすれば……。
「あ、あの………ヒナタさん」
「………」
「ひ、ヒナタさん……?」
「え……?あ、あぁ私か。は……はい!!」
さっき出来たばかりのニつ目の偽名で呼ばれ、自意識と結びつけるのに数瞬を要してしまった。
「……本当に、色々と申し訳ありませんでした……!!」
今度は私に向き直り、先ほど以上の深々しさで頭を下げる。
「え……い……いや!!全然気にしてないから大丈夫だよ!!あ、頭上げて……!!」
「………お兄さんに、宜しくお伝えください。……俺から言われたところで余計なお世話でしょうけど……」
「直接言ってるんだけどね……」
「え?」
「なっ……なんでもない!わ、分かった。言っておくね!……あ、兄にも……」
その言葉を聞き微笑んだ弌茄君は、一歩下がってまたもや頭を下げる。
「コーヒー、とても美味しかったです!今度はちゃんと営業時間に伺いますので……。では、失礼します!!」
「えぇ。……気を付けてね」
「はい!!」
「………」
何度もペコペコとお辞儀をしながら、弌茄君は帰路を歩いていく。
………そうだよね、弌茄君は。
井原ヒロの妹だと思っているのなら、いくらでも私を通して二人の仲とか聖海ちゃんの趣味趣向とか聞き出して利用出来る……。そんな考えを持つ筈なのに。でも彼は一切口に出さなかった。……挙句の果てには「お兄さんによろしく」って。
「………楚ちゃん、行かせていいの?」
「はい?」
弌茄君に手を振りながら、天井さんが傍らから私を呼ぶ。
「たとえ彼がアナタの事を覚えていなくても、アナタの気持ちは変わらないでしょう……?」
「勿論です。……でも……」
もしかしたら、あの日の恐怖から逃れるために……二度と思い出さないように、彼自身が無意識下で記憶に鍵を掛けてしまっているのかもしれない。そうだとすれば、無理矢理その鍵を壊す事は……私には出来ない。
それに、あの時見られた私の姿を、彼の記憶から消してしまいたいのも事実だ。
だからこの突飛な嘘を、改めて明かすことが出来なかった。
「このままで……いいのかも、しれません」
「……」
「私が歩き続けるせいで、結果的に弌茄君をこれ以上苦しめるなら……もう私は、自分の事を二度と好きになれない気がします」
あれほど追いかけていた彼の背中が、また私から離れていく。なのに今は、縛られているかの様に足も手も動かない。
「元々……出会う筈なかった私のせいで、彼の恋を……」
「……そんなの当たり前じゃない」
「えっ……?」
振り向くと、天井さんはただ黙って目を瞑っていた。
「”出会う筈なかった”?……当たり前じゃない。別に私たちは他人と関わり合う事を強制されてる訳じゃない。……ただそれだけの事で、諦められるの?」
「……」
「それなら、アナタにとっての弌茄君も同じじゃない!……じゃあアナタは、始めから彼と出会わずに手近な気の合う人間と恋愛していた方が良かったって言うの?」
「そっ……そんな訳ない!!私には、弌茄君しか……」
彼に聞こえてしまうという懸念を忘れて、私は無意識に声を荒げていた。
「弌茄君が居ない私の人生に、恋なんて絶対生まれない。……だから、今の出会いに後悔なんて……微塵もありません」
「じゃあ、アナタにはもう……見えてるじゃない」
「……見えてる……?」
「大体の人間は、死ぬまでに袖触れ合った中から、なんとなく気の合う人間を”運命の人”と決定づけて、そのまま絶対的な根拠のないまま愛を育んでいく。……漠然とした道を歩く中で、偶然見つけたベンチに腰掛け、そこをゴールとして歩みを止める。文句を言う訳じゃない。それも立派な恋愛で、尊いものに違いはないから」
「………」
「でも、アナタは違うんでしょう?……自分の人生を捻じ曲げてでも会いたい人がいる。自分自身を偽ってでも声が聴きたい人がいる。その人がいなければ、残りの人生に恋など無いとさえ断言できる……弌茄君という人がいる」
顔を上げる。彼はもう、こちらを振り返ってはいなかった。
「アナタには運命が見えてるじゃない。………なら、死ぬ気で辿り着くだけよ」
病的なまでの臆病さで、散々遠回りをしてしまった。たった一言を伝えるために、名前も性別も変えて……挙句の果てには勝手に弱腰になって言葉を呑んだ。
それでも……やっぱり私は、弌茄君を諦められない。たとえ全部忘れていても、私は全部覚えてるから。
「………」
どれだけ泥に塗れた道でも、呆れるほど逸れた道でも、誰かの背を借りた道でも。間違っていたかを決めるのは、辿り着いた先で、初めて後ろを振り返った自分だ。
「…………い」
小さくなっていく彼の姿に引き寄せられるように、私の指が、手が、足が、少しずつ感覚を取り戻していく。
綺麗事でも何でも良い。今はただ、君だけを目指して……
「弌茄君!!!」
どんな手を使っても……私は。絡みついてでも……
「………えっ?な、何ですか!?」
「…………わ、私と………!!」
懐から出したスマホを持つ手は、肌寒さとは別の理由で震えていた。
「とっ……友達に……なってくれませんか!!?」
………吹きすさぶ風が、流れる汗を乾かしていく。
脳を叩く程の動悸と息苦しさをそのままに、私はスマホを掲げながら深々と頭を下げていた。
「………」
永遠とも思える静寂が流れる。
……やっぱり臆病だ。”恋人”にとは……とても言えなかった。
でも今の私には、これが……
「………はは」
「っ!?い、弌茄……君?」
何故か、彼は少し笑っていた。
「あっ……す、すみません!えっとその……な、何故か……懐かしい感じがして……」
「懐かしい……?」
「えぇ。記憶は無いんですが……昔、僕も誰かに……。い、いえ。何でもありません」
そこで、弌茄君はポケットに手を入れる。
取り出した手には彼のスマホがあった。
……私は覚えてるよ弌茄君。あの日、君が掛けてくれた言葉を。
そして私は、そう言うんだ。
「こちらこそ、よろしく!……お願いします」
彼の手もまた、少しだけ。震えている様に見えた。




