22話 暗躍と思惑
◆◇◆
『会長、どうですか。二人の様子は』
スマホを通して、紅咲の声が聞こえる。
右頬と右肩でそれを挟みつつ、なけなしの原稿料で購入したそこそこ高性能な双眼鏡を用い、私は店内を凝視していた。……たった今、イツカが入っていった喫茶店を。
「あぁ、怖いくらいに順調だ。……よくやった紅咲」
まず一つ。楚が朝のホームルーム前に転けてイツカにお姫様抱っこをぶちかまされたあの日。彼女の机に置かれたスマホ上に一瞬表示されたメッセージを、私は一言一句として見逃さなかった。
送り主の名前表示は”姉”。その内容は、店名と思しき文字列と住所と日付、時刻。
勢いで単身上京してきた彼女の境遇を考えれば大体予想はつく。楚の姉は確か大手アパレルの女社長。楚の性格上、直接的な資金援助を請う事は無いだろうから、恐らくは生活費を稼ぐためのバイト先を斡旋してもらっていたのだろう。
二つ。その店Weich bis Hartのオーナーについて。……開店したばかりらしくオーナーの名を含め殆ど情報は無かったが、事前に下見に赴き、店内を掃除している彼女の姿を見て驚いた。
イツカ以外に興味が無く、俗世に疎い楚とテレビを殆ど見ないイツカは知らないだろうが……天井慶丞と言えば、アパレル・メイク双方の界隈でカリスマとして名を馳せ、一時期は様々なメディアで取り上げられていた人物だ。一、二年前から急に表舞台から消えてしまったが、それでも道行く人間にその名を出せば殆どが顔とキャラクターを瞬時に思い出すことだろう。
『にしても、まさか喫茶店を営んでいたとは………僕もテレビで度々見てましたよ。”美”に対する異常な探求心と、その強烈なキャラクター。……まぁ、本人は自分よりも自分の作品と技術を世に知らしめたかったみたいで、インパクト重視のメディアとの齟齬はかなりあったみたいですがね』
「随分と詳しいじゃないか」
『ネタになりそうなものは何でも調べてますからね。………で?なぜ彼女が、日々野さんと弌茄君の恋を進める鍵になると?』
「基本的に、楚の男装は完璧で……常人であれば見破れるものはまずいない。しかし天井氏はメイクアップアーディストとしても一流だった。………恐らく、一目見れば楚が女だと看破するだろう」
『ほう』
「そして同時に、彼女はアパレル業界の中でもデザイナーとして身を投じていたと聞く。なぜ第一線から離れて喫茶店を営んでるかは不明だが……楚ほどの美人を目の前にして、血が騒がないハズがない。恐らく強引にでも楚のベールを剥がし、自らの手で輝かせたいと考える筈だ」
『………なるほど』
「次にイツカだ。私の打った布石に影響され、腰を上げた奴は休日の朝から近隣のカフェを巡るだろう。地味に臆病なイツカはまず純喫茶などというガチの店ではなく、まずはチェーンのカフェに赴くはずと考えた。そして予め送り込んでいた紅咲と鉢合わせになり、取り敢えず奴のカフェデビューを煽って時間を稼ぐ。……”知り合いとエンカウントし兼ねない近隣の店はダメだ”となり、そこで紅咲からイツカ退店の知らせを受けた私が隣町、即ち天井氏の店がある地へ誘う文をスマホに送る」
『そして、この街はあまり飲食店が盛んではなく……いずれにせよ、最終的にはWeich bis Hartへ辿り着く………と』
「あぁ。イツカの方が行動し始めるのは早かったが……紅咲の足止めと、隣町に着いてから店に行きつくまでの紆余曲折を考れば、結果的に楚の足取りとの帳尻は合うだろう。そして実際に、現時点で全てが私の思い通りに進んでいる」
『……”closed”の看板がなぜか急に裏返ったという奇跡も、狙い通りですか?』
「まさか。だが、イツカと楚はある意味天才だ。イツカ持ち前の天然と、楚持ち前の絶妙な不幸体質によって、なんだかんだ私の狙い通り動いてくれるだろうと信じていた。信頼の上に成り立つ戦略だ」
『それは”信頼”と呼んで差し支えないのでしょうか……』
「……楚入店と、イツカ入店の差は約二十分程度まで縮まった。その間に楚はなんやかんやで女と見破られ、なんやかんやで女物の服を着させられている筈。そこでなんやかんや良いタイミングでイツカが扉を開いて入ってくれば、女モードの楚となんやかんやで邂逅し、恋の扉もなんやかんやでガッツリオープン・ザ・ドアーと相成る訳だ」
『”なんやかんや”でゲシュタルト崩壊起こしたの初めてですよ会長。……かなり強引というか、希望的観測しかない作戦に思いますが………。っていうか、流石に二回も鉢合わせになれば今度こそ正体がバレてしまうのでは……?』
「いいや、その点は……問題ない」
「問題ない……?いくら十年経ってると言っても…………………あっ………」
私は、無意識に目を閉じていた。これから楚が知る……いや、もう既に知ってしまったかもしれない事実を回顧して、ただ固く目を閉じていた。
「問題ないんだよ、紅咲。………何度も確認したんだ。何度も。でも、イツカは………」
◆◇◆
「井原ヒロ君の………妹さんですか……!!?」
場外ホームラン並みのぶっ飛んだ返答を繰り出され、半ば放心状態になる私こと日々野楚。
「井原……ヒロ……?」
「は、はい!勘違いだったら申し訳ないんですが……言われてみればこう……雰囲気とか含めてかなり似てる気がして……」
雰囲気どころか生物学的に同一なんだけど……。
「それに……聖海とも友達って仰ってましたし、もしかしたらヒロ……君もそこから聖海と知り合って、とか………ゥッッッ」
自ら立てた仮説によりセルフ脳破壊してしまう弌茄君。
「ち、ちょっと待って弌茄君……。ほ、本当にそう思ってるの……?私を見て、何か……何かさ……思い出さない……!?」
覚束ない足取りで、一歩一歩彼の下へと近づいていく。
「ち、ちょっと楚ちゃん……!もうそれ以上は……」
「ねぇ、弌茄君。覚えて……ない……?」
真っ白になった脳内。微塵たりとも予期していなかった状況を前にして、私はただ縋るように問いかける事しか出来なかった。
しかし、彼の表情は依然として変わらない。そして、只々純朴に答える。
「……は、はい。初対面だと思いますけど……」
「っ………じ、十年前……!!十年前の、八月の事も……?」
十年前の八月二十一日。
私と弌茄君が……廃墟の中で火事に巻き込まれた日。そして私が、彼の前から姿を消そうと決意する契機となった日。
そう、元々は私が願っていた事。彼の中に私の……あの姿があるから、こうして性別も名も偽って全てを隠していた。
でも……
「す、すみません。……俺、実は、記憶喪失……なんです」
「………えっ?」
「十年前。その当時の八月……ほぼ一か月間の記憶が、無くなってるんです」
「………」
私が当時東京に滞在していたのは、八月一日から八月二十一日まで。………彼の言う期間と、合致している。
「記憶が……無い……?な、何で……?何があったの!?」
自分でも白々しいと、遅れて気付いた。
「……八月二十一日。俺は、勝手に忍び込んで遊んでた廃墟で、火事に巻き込まれたらしいんです。奇跡的に助かったみたいなんですけど……その時に頭でも打ったのか、目が覚めたら……火事が起きた日とそれ以前の一か月間の記憶が、無くなってました」
火事の日と、それを含む一か月間の記憶。
それらが全て抜け落ちているという事は当然……
私の存在も同時に、彼の中から消え去っているという事になる。
「そ……んな………」
矛盾している自覚はある。あれほど正体を悟られないよう、彼の記憶の一瞬にある私を避けてきたクセに……と。
でも、私にはその一瞬しかない。それだけで私は果てしない程の恋をして、彼だけを追って生きてきた。
それさえも、弌茄君は……
「あ、あの……十年前に、会ってるんですか?俺達……。それを俺が忘れて……」
「っ…………う、ううん。何でも……ない」
「いや、でも!”十年前の八月”って、さっき……」
「なんでも……ないの。私が勝手に……勘違いしてただけみたい。……忘れて」
「……そう、ですか……」
込みあげてくる全てを押し殺して、碌な思考もせずに口を動かし続ける。
その最中、幻聴ではない音が耳朶に触れていた。
私の中で燦燦と希望の光を映していた鏡が………粉々に砕け散る音を。
◆◇◆
「そうか。やはり聞いていたか、紅咲」
『はい。先ほどのカフェで彼から、過去の事件と、それ以前の記憶を失くしている事を……』
「………正確には十年前、私と彼女を含め三人で遊んでいた一か月間の記憶が、イツカの中から跡形も無く消え去っている」
事件の後、病室で目を覚ましたイツカに何度 楚の話をしても、彼はその一切を忘れていたのだ。
診断は一過性健忘。医者含め大人たちからは”火事のトラウマを呼び起こしてしまう”と言われ、以降あの日の話は出来ずにいたが……。
『そ、そんな事って……』
「恐らく火事から逃げる際、どこかに頭部をぶつけた事による影響か……」
自分で口走りながらも、心の奥底ではその仮説に一切身を委ねてはいない。
イツカに頭部の外傷は一切無かったのだ。軽い内出血でさえも。
かすり傷さえ残らない程度の衝撃、若しくは心因性で一か月間の記憶が丸ごと消えるなどあり得るのか?
しかし、彼が嘘を言っている様子は無かったし、第一”構って欲しい”などという理由でそんな事をする奴では決してない。
幾度となく自問したが、現場に居合わせなかった私に推測の余地はない。恐らく、楚にさえも……
「紅咲。……我々の使命とは何だ」
『こ、こんな時に!?……”純愛には手を、胸糞には死を”、でしょう』
「あぁ。そして私にはもう一つ使命がある。作家としてではなく極めて個人的な使命だ。………吉井弌茄の中から彼女の存在を、どんな手を使ってでも引き揚げる。だから、ここがスタートラインなんだよ」
比喩じゃない。楚はあの日、文字通り命を懸けたんだ。
そんな人間を忘れたまま、お前に恋などさせるものか。




