16話 苦い経験
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「ナビではこのあたりの筈………。結構駅から歩くなぁ……」
日曜日の正午。私は自宅から三駅分は離れた或る街へと赴いていた。
周囲は閑散としているが、街路樹や洒落たデザインの電灯が等間隔で並んでいたり、思わず立ち止まってしまう程度には大きな噴水があったりと、人の気配が少なくとも寂しさを感じない、稚拙な感想だけど”なんかいい感じ”の街。……でも、お洒落な家が立ち並んでいるばかりで、あまり飲食店があるような雰囲気は……
始めはちょっと不安だったけど、取り敢えずナビに従い歩き出した。
そして、約十分後………スマホに表示された赤いピンの上へ、現在地の青矢印が重なる。
顔を上げると、そこに佇むのは一軒の喫茶店。見た限りではどこにも店名の書かれた看板は無いけど……。と、入り口に置いてある大きなスタンド黒板に目を移す。そこには弾けるような丸文字で”Weich bis Hart”と、色とりどりのチョークによってフリガナ付きで書かれていた。文字の主張具合からも、これが店名なのだろう。
店自体は大きくない。けど外壁は黄~赤褐色のチーク材がレンガ積みのように互い違いになって嵌め込まれている、強いて言うならログハウスの様な造りで……とても可愛らしく、同時に何処となく高級感も漂っていた。
「わぁ………!」
こういうものに目が無い私は、自分がバッチバチに男装している事実を一時的に忘れて、一人で目を輝かせつつ甲高い歓声を上げてしまう。
今日の私の目的は、姉が紹介してくれたアルバイト先の面接である。
先週月曜には詳しい日時や必要書類についての連絡が姉から来ていたようだったけど、あの事件の後で頭の処理能力が著しく落ちており、結局気付いたのはその日の就寝前だった。
「ママー。あの人、眉目秀麗なイケメンでありながら恋を覚えた乙女の様な輝きを目に宿しつつオシャレなカフェを眺めてるー」
「しっ。見ちゃだめよ、性癖が歪むから。……ママと一緒に目を閉じながら行くわよ」
後方から、よく意味の分からない母娘の会話が聞こえてくる。
人目も憚らずはしゃいでいる姿を見られた事に対する羞恥心で、少し体が熱くなるのを感じた。
……性別と名前を偽って働くなど言語道断、というのが私の見解で、当然男装を解いた日々野楚として働くつもりだった。このくらい生活圏から離れていれば、弌茄君含めた学校の生徒と鉢合わせる事もまず無いだろうし。
しかし姉は『女性客も増やしたいから、お前は男装して働け。オーナーには話を通しておく』と、独裁的な提案を投げかけてきた。
姉はアパレル事業を展開する傍らで喫茶店の経営も幾つかこなしており、この店も、赴くことは殆どないが実質のオーナーは彼女らしい。……利益の為に自分の肉親を客寄せパンダに使うとは、呆れるほどに打算的な人だ。そもそも私なぞの男装で淑女の食指が伸びるとは微塵も思えない。
「でも……入っちゃっていいのかな……?」
入り口の扉の中央に嵌めてあるガラス板を隔てて、"closed"と書かれた小看板が吊り下げられているのが見えた。……店を訪れる前に電話だけでも挨拶をと思っていたけど、姉はオーナーの連絡先を教えてくれないし、ネットで検索をかけても位置情報以外は何も記載されていなかった。建物の新しさから見て、出来たばかりの店なのだろうか。
「見た感じ、裏口とかはないよね……」
私が今日お店に行くことは姉からオーナーに伝わっている……筈。とりあえず、扉をノックしてみよう。
……三回。少し抑え気味にノックする。だが、いくら待っても応答はない。続けてノック音を上げてみるが……同じ。全く応答がない。
「え~~……?お姉ちゃん、本当に話通してくれたのかなぁ……」
と、暫し悩んだ末ゆっくりと扉のノブを握る。
恐る恐る右に回してみると……
「………開い……た……」
あっさりと、扉が開いてしまった。まだ開店前の筈なのに……閉め忘れ?それとも私の為に開けていた……?どちらにせよ、閑静な住宅街とはいえ物騒だ。
「す……すみませーーーん」
ほんの少しだけ扉を開けて、その隙間から声を飛ばす。だが、これも徒労に終わってしまった。
………連絡も出来ない。呼びかけには反応なし。でも、もし……これが閉め忘れだったら、放っといて何処かに行くのも憚られる。となると……
「やむを得ないよね……」
少しだけ開けていた隙間を、周囲の様子を見ながら広げていく。そして体が通る程扉を開けた時点で、ささっと中に入ってしまった。
「不法侵入かなぁこれ……あ、あのーーーー……!だ、誰か……いらっしゃいませんかぁ?」
何としてでも入店の同意を得たい私は、諦めずに声を出し続けた。
でもやはり応答はない。
……そこで、ふと店内に目を移す。
「わっ………」
本日二回目、思わず声が漏れてしまった。
青柳色……というのだろうか。明るすぎず暗すぎず、瞳が癒されるような優しい緑の壁紙で包まれた店内。天井にはステンドグラスを加工した様な照明カバーに覆われた電球が、少しランダムな間隔でぶら下がっており……夜になれば仄かな虹を含んだ暖かい橙色が加わって、一層心和らぐ空間が出来上がるだろうと容易に想像できる。
そしてテーブルと椅子。どちらもオーク材で作られているようで、前者は少し角が残る歪な楕円型。後者は脚と背もたれの部分が粗削りな感じで、座版には壁紙に合わせた同系統の緑色の布張り。あえて手作り感を隠そうとしていないように見える。……でもそれが、シックさの中に良い意味でのチープさというか、子供らしさの様なものを感じて、一目で”可愛い”と思えてしまう。
これらが演出する”ちぐはぐ感”が、最終的に認識の敷居を下げて……お洒落でありながらも親近感を抱かせてくれる。
「良いなぁこのお店……!ここで働けるんだ……私……」
面接も始まっていない上に入店の同意すら取れてない今、現在進行形で不法侵入罪な事も忘れ満面のニッコニコ顔で店内を見渡し続ける私。
……すると、店内の奥……カウンターの、更に奥に備わっている扉から。何やらもぞもぞと音が聞こえてくる。
「ん?」
その音は次第に大きくなっていき、やがて”もぞもぞ”などでは形容し得ない程の……”ドドドドド”という轟音へと変遷していった。しかも、徐々に近づいてるような……。
「ぃやだもぉおおおぉお~~~~!!!!!アタシったら寝坊しちゃっっったわあぁぁぁぁあああぁん!!!!」
……その様を形容するなら、”災害”。
二メートル近くはある身長と、大樹の生き写しが如き屈強な体躯。そして爆発的なアフロヘア―が、一層前述の印象を確固たるものにしていた。
そしてそんな巨体が、パッツパツのアロハシャツを身に纏い、扉をぶち壊す勢いでバァン!!!……と、前傾姿勢のまま飛び出して来たのだ。……この光景に驚愕しない人間がいるのならいっそのこと三親等まで顔を見てみたい。
「わあぁぁぁあっっ!!?」
故に私はその圧倒的サプライズに圧され、後方へ飛び退いて倒れる。……入ってきた玄関の扉に思い切り背中をぶつけて、そのまま情けなく床にへたりこんでしまった。
扉にぶら下がっていたopen-closeの小看板も、衝撃によりカラコロと音を立てているのが頭上から聞こえる。
……出来上がったのは、思いっきり胡坐をかくような体勢。
こんなアクシデント時にも、女の子らしく”きゃあ!”とか言って可愛く座り込めない自分を本能的に憎んだ。
「あら!?ア、アナタ……大丈夫!!?」
「ぅ……っ……大丈夫……です……」
「ご、ごめんなさぁい!!!今日お店に来てくれるって分かってたのに、アタシったらカンッッペキに寝坊しちゃって……!アナタ、春華から紹介のあった今日面接の子……でしょう!?」
お姉ちゃんの名前……。じ、じゃあこの人が……
「こんな格好で申し訳ないけど、さっそく自己紹介しちゃうわね!!アタシがこの喫茶店、Weich bis Hartのオーナー兼看板娘………天井慶丞よ!!!親しみと愛情を以て、ケイちゃんって呼んで!!!」
かくして、この台風を具現化したかのような人物と、ただ目を丸くすることしか出来ない私は……陽光降り注ぐこの店内にて、邂逅を果たした。




