15話 トラウマ
「カフェ………か」
ブラックコーヒーとジンジャーエールの判別が一時間の熟考の末辛うじて出来る程には舌馬鹿なアイツの口から、まさかそんな単語が飛びが出てくるとは……。
元から好きだったのか?それとも、井原と付き合うようになって、アイツの趣味が変わりつつある………?い、いやいややめようこれ以上考えるのは。脳が破壊されてしまう。
時が経ち、その週の日曜日。燦燦と照る太陽を背にしながら、街を練り歩く。
普段買い食いもしないし、休みの日も引きこもるだけか引きこもってトレーニングかのどちらかしか無い為……通り慣れたはずの景色が、顔を上げるだけでやけに新鮮に見える。
「こうしてみると、意外にあるもんだな」
レストラン、ファストフードに居酒屋。そしてその中に幾つかのカフェと思しき店を発見。チェーンもあれば、純喫茶?というのだろうか……レトロを感じさせるものも散見した。
……物は試しだ。入ってみるか。
外食も碌にしたことが無い状態で、いきなり本格的な純喫茶に入るのは勇気がいる為……とりあえず、数メートル先に見えた全国カフェチェーンの一つ、”ヨネダ珈琲”への入店を決意した。
◇
「……おやおや、こんなところで会うとは奇遇だね」
「お、お前は……!」
入店し、一人であることを店員さんに告げ席に案内されると……そのすぐ横に、同じく一人で来ていたらしい……紅咲恋が座って、漫画を読みながらコーヒーを口にしていた。俺の姿を見るなりわざとらしい笑顔で手を振っている。周囲の女性客は皆一様に奴をチラチラ見つつ、小声ながらも黄色い声を抑えられないでいた。大変気分が悪い。
「良かったら僕のとこに座りなよ。対面にさ。……あ、店員さーん!彼のお冷、ここの席に持ってきて頂けます?」
「な、なに勝手に決めてんだよ!」
よく考えたらあの勝負の時を含めて、こいつと碌に話した事など無い。向こうも同じ筈なのになぜこんなに距離感が近いのだろうか。もしや、これこそがコイツや井原のようにモテる宿命にある人種の片鱗なのだろうか。
……紅咲の提案を拒否して問答を起こし、店員さんを困らせる訳にもいかないので……不本意ながら、奴の対面にゆっくりと腰を下ろした。
「で?どうしたんだい?今日は」
「……要領得ない質問だなオイ。どういう意味だよ」
「僕は結構ここ来てるけど、君の姿なんて一度も見た事ないなぁと思って」
「別に……ただの気まぐれだよ」
こうして向き合って話すのは初めてだが……こいつ、纏う雰囲気はよくいるチャラついた陽キャと相違ないのに、少し目を見るとこう……こちらの奥底でも覗かれているような言い知れない不気味さがあるな……。
「ふーん。………なるほど、流石会長だ」
「ん?会長?」
「いや、何でもないよ。まぁ君のカフェデビューの動機は置いといて、せっかくだし少し世間話でもしようか」
「デ、デビューじゃねえし……」
思いっきりデビューだが、謎の意地で否定してしまった。
「……漫画、読むんだな」
入店直後から気にはなっていた。紅咲の読んでいる漫画。
デビュー当初から圧倒的な画力とストーリーの緻密さ、そして読者の心を抉り取るような鬱展開とグロ描写でコアなファンを増やしつつある気鋭の作家、辻松晋呉の最新作”遠隔殺人”。俺もミーハー魂で一話だけ読んだが、あまりにも受ける精神的ダメージが大きい為挫折してしまった。
少なくともライト層には受け入れられないであろう作品を、日々女子にキャーキャー言われている紅咲が好んで読んでいる事が意外だった。
「そりゃあ読むさ。相互理解の為にもね」
「相互理解?なんのことだ?」
「……いや、忘れてくれ」
そこから、暫し流れる沈黙。
ページを繰る紅咲の前で、俺は次の言葉を吐き出すのに躊躇し、つい身じろぎしてしまっていた。
「なんだい?」
その様子に気付いたのか、彼は漫画をぱたりと閉じてテーブルの端に置く。
俺は観念して、情けない程に小さい声で口火を切った。
「…………あ、紅咲。………その………」
「ん?」
「あ………ありがとう、な。井原に勝負挑んだあの日……帰った後、皆に俺のフォローしてくれたって聞いてさ」
赤頭が言っていたことが本当なら、まずは彼に感謝の意を述べなければならない。なぜわざわざ庇ってくれたのかは全く以て謎だが……。
「はは、それもただの気まぐれさ」
「……そうか」
「それに……正直、あの勝負から僕は君に興味を持ち始めてね」
「興味?俺なんかに何の興味だ……?」
紅咲は、蓋を開けもしないガムシロを指の間で回しつつ、頬杖を突いてこちらを見た。
「君のスペックだよ」
「はぁ?なんだそれ」
「………あの日、僕が彼らに言った言葉を反復するけど、井原君……彼は転校して以来あらゆる部活動に勧誘されまくっていたし、一部の競技ではプロからのスカウトも来ている。まあ最早そんなレベルをも超えているけどね。……あの日の記録だってもし陸上関係者が見てたら泡を拭いて倒れていただろう」
「………それがどうしたんだよ」
「しかし、君はそんな彼に決して劣っていなかった。彼のカリスマに埋もれてしまっていたけど、君も十二分に異常だ。……どの競技をやらせても、余裕で全国クラスを超えているだろう」
「んなワケねえだろ……どんな過大評価だよ」
「これを見なよ」
懐からスマホを取り出す紅咲。数回画面をタップして、画面を俺の目線へと掲げる。
「これは二人分のタイムを測定できるんだけど……上が井原君の記録。そして下が君だ」
そこには、あの日の第一種目目……短距離走の測定で使っていたアプリが表示されていた。
「あれから消してなかったのかよ……!わざわざ負けた記録見せて何のつもりだ!?」
「別にからかうつもりじゃない。むしろ逆だ。……とりあえず、上の記録が”9秒87”と全国どころか世界最上位レベルなのは置いといて……」
「置いておくなよ世界レベルを」
「君の記録。……”10秒11”。このタイムも日本記録ペースだ」
「はぁ……そうなのか……?」
「………”はぁ”!!?………え、えぇ!?君……自分のタイムの凄さが分かってないのか!?」
「声デケぇって、客多いのに……!!いや、”負けた”っていう事実が重すぎてタイムどころじゃねえよ……!」
陸上も球技もその他無数のスポーツも、これまで聖海一筋で生きてきた俺にとっては全く通ってこなかった未知の領域。大事なのは”いざというときに守護れるか”……その一点のみだ。
少なくともこの使命の名のもとに記録は意味を持たない。全力を測定したのもあれが初めてだった。
「はぁ~~~~……これは予想以上だな……」
「な、何の予想だよ」
「………とりあえず……記録については置いておこう」
彼は、嘆息しつつスマホを仕舞った。
「興味深いのはここからだ。………彼と違い、君は一年からの在校生。井原君がいなければスポーツに関しては君がトップだった筈。でもあの日まで一切、君の噂なんて耳にしたことはなかった」
一層彼の瞳が黒くなる。視線を逸らしてしまいたくなるが、まるで本能がそうさせているかのように、目も首も動かない。
「なぜ、目立とうとしなかった?」
「目立つとか……そういう性分じゃねえよ俺は」
「じゃあ質問を変えよう。君は……"誰の為"に自分を鍛えているんだい?」
身を乗り出して、そう紅咲が問いかける。
質問の意図は分からない。でも、負けたとはいえ……日々自分自身を地獄のように追い込み鍛えているのは事実だった。
「もしかして……君の想い人、銀砂聖海の為かい?」
「………やっぱり、からかってるだろ……お前」
「そう聞こえたのなら謝るよ。ごめん、その通りだ」
「殴るぞ!!」
笑いながらコーヒーを口に運ぶ紅咲。恩があるとはいえ、本当いちいち腹立つなコイツ……。
「………分からないんだ」
「え?」
吐露した瞬間、紅咲は呆けた声を上げ、指の間からガムシロを落とす。
……これは、奴の思うつぼになるのが癪だったから……などという動機から出た嘘じゃない。これから話す内容は、紛れもない事実。
「当然、いざって時に聖海を守れるように……とは思ってる。けど、それとはまた別に……”強くなりたい”っていう、欲望っていうか使命っていうか……上手く言えないが、そういう原動力があるんだ」
「………その理由が……分からないと?」
「あぁ。理由と言うか、きっかけ……があったハズなんだ」
そして、右腕の袖を少しだけめくる。春とはいえ、今日は長袖で出歩くには汗ばむ程度に暑い。だが俺は、例え八月の真夏日だとしても同じ服装で歩いていただろう。
「っ………」
手首から肩までの皮膚を覆う火傷の痕。隠しているのは特にナイーブな理由ではなく、一方的に気を遣われて、必要なコミュニケーションさえ取りにくくなった幾つかの経験から生じた煩わしさからだった。
しかし、袖から覗いた一部の火傷を見た紅咲は顔色一つ変えずに、ただ言葉を呑んでいた。
「十年前、俺は廃墟で火事に巻き込まれたらしい。でも、その時の記憶……もっと言えば、その火事が起きるまでの一か月間の記憶も一緒に抜け落ちてる」
「記憶が……?」
「あぁ。逃げてる途中、どっかで頭でも打ったのかもな。……目が覚めたら病院にいて、事情を知って。………退院してからだ。心の底からこう……”強くなりたい”みたいな欲求が湧いてきて、以来十年間、ずっと明確な理由も分からないまま鍛え続けてる」
「愚直に考えれば、その火事によるトラウマから生じた防衛本能のようなものかと決めつけたくなるけど、そうではないのかい?」
「あぁ。俺も最初はそう思った。でも、その結論には違和感がある。………気味悪い事をいうが、この動機は明らかに”誰かの為”……って感じなんだ」
十年間変わらず湧き続けるこの欲望にも似た使命感は、少なくとも俺の記憶の中には存在しない誰かの為に生じたものだという確信がある。
しかし、その火事の現場には俺しかいなかった。聖海はその日、家族と買い物に出かけていて別行動。何故俺が廃墟に行ったのかという動機すら、記憶から消えている。
「………記憶にない誰かの為……か」
「自分でも変な話だとは思うが、そうとしか言えない」
生じる暫しの沈黙。紅咲は、相変わらず掴めない無表情のまま。だが何故かその瞳は ほんの少しだけ、輝きに近い何かを宿しているように見えた。
無意識に、見慣れた火傷痕に視線を落とす。
そこで、穴の開いた過去を回顧しかけた瞬間……我に返った。
「こ、この話は終わり!!!俺はもう出るからな!!」
不用意に火傷痕を見せてまで、自分語りをし過ぎた気恥ずかしさから、俺はそれらを搔き消すように立ち上がる。
周りの客達に見られる前に袖を伸ばし、痕を隠しつつ彼に背中を向けるが……
「コーヒー、まだ来てないけど?」
彼は意地悪な笑みと共に言う。そして俺の席を右手で指し示しながら”どうぞ”と言わんばかりに着席を促した。
「っ………良い性格だなお前………!」
観念して、自分でも分かるくらい顔を赤くしながら、再び俺は腰を下ろした。
「これ以上余計な話はしないからな。……一杯飲んだらすぐ帰る」
「おや、随分せわしないカフェデビューじゃないか」
「だからデビューじゃねぇって!!」
取り敢えず……近くのカフェはこういう知り合いがいる可能性があるので避けようと、心の中で誓うのだった。




