狂える竜のこと(上)
ジュラ紀後期、モリソン層。
この世界は、残酷だ。
先日のゼナの話が、私の心に深い爪痕を残していた。それ以来、私は恐竜恐怖症のようになってしまっている。血にまみれたエドモントサウルスが大きな嘴で私をくわえ込み、そのデンタル・バッテリーと呼ばれる無数の歯で摺りつぶす悪夢を、何度も何度も見た。そんな恐怖の中、今日も目覚めは最悪だった。
それでも、知らなければ知らないまま喰われてしまう――その可能性もまた否定できない。怖いもの見たさと恐怖の間で揺れる私の心は、恐竜に対する知識を求めずにはいられなかった。だから今日もゼナに質問を投げかける。
「フィールドワーク中、どうやって寝てるの?寝てる間に恐竜に食べられちゃわない?」
ゼナは少し驚いたように眉を上げ、すぐにいつもの冷静な表情に戻ると、逆に問い返してきた。
「どうすればいいと思う?」
私は考え込む。原始的な恐怖に根差した答えが口をついて出た。
「うーん…木に登るとか?」
ゼナは懐かしいことを思い出したように、小さく笑みを浮かべた。
「昔はそうしてたかな…でも今は車中泊一択。」
「なんで?」私は思わず聞き返した。
ゼナの表情が一瞬、曇る。まるで記憶の中の何か重いものを引っ張り出すかのようだった。そして、彼女は静かに口を開いた。
「…聞きたい?」
その一言には、明らかに含みがあった。好奇心に駆られた私は、返事を迷った。しかし、ゼナの目が語るのは明白だった。知りたければ、その代償として覚悟が必要だと。
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澄み渡った湧き水が、雄大に広がる大地を潤す。空はどこまでも、高く高く、青く広がる。
見上げれば真っ白なグライダーのように、翼竜がゆったりと旋回していた。
この大地に、雨という概念はない。風向きという概念もない。
この大地において、風向きとはただ一つ、西から東に吹くものだけであり、晴れ以外の天気はない。
この異常な気候は、西部に遠くそびえる山脈と水はけのよい砂質土壌に原因がある。
古太平洋を通って西から湿った空気が流れ込むと、西部の山脈にあたって多量の雨を降らせ、空気から水分を軒並み搾り取ってしまう。山脈の西側では、年間を通じて豊富な雨が降り注ぎ、森林が発達している。しかし、風下側は全く違う世界だ。
緑にあふれてはいる。しかしその光景は、現在の地球のどこにも存在しない異質なものである。低く這うように育つ針葉樹が、砂礫の広がる大地をびっしりと覆い、その間に大木が点在している。くすんだ緑色は地平線のかなたまで広がっている。これらの針葉樹は、乾燥と高温に極めて強く、葉の表面は厚い蝋層で覆われており、水分の蒸発を防ぐ工夫がなされている。樹木の根は地下深くまで伸び、わずかな水分を吸い上げる。ところどころ色が違うのは、たがいに酷似した様々な樹種があるためである。
しかし、目に見える水はほとんどない。粗く水はけのいい砂が広がるこの大地は、降った雨水を地下へと隠し込んでしまうのだ。涸れ川の跡がかすかにその存在を示し、乾燥に適応した植物のくすんだ緑が、水が確かにこの地にあることを伝えている。この大地の表層は、多孔質の砂岩で覆われており、水分を迅速に地中へ運び去る一方で、表面の乾燥を加速させている。
恐竜たちは緑につられてこの平原にやってくる。カマラサウルスの亜成体の群れはこの荒れ野で最もよくみられる生き物で、観光局のホームページのトップ画面にもなっている。しかし、水場を見つけられず渇きに苦しみ、死んでいくものが何とも多い。そして死体は肉食恐竜をおびき寄せるが、それらもまた水場を見つけられず渇きに苦しみ、死んでいく。この地域では、生物の死骸が砂漠の地表に散らばり、風化しながら大地の一部となっていく。目には美しいが残酷な、緑の砂漠なのだ。
死にゆく恐竜たちを尻目に、地下では、隠れ続けた水がゆっくりと岩や砂の層を浸透しながら浄化されていく。水分は地形の傾斜に沿って大地の奥深くを流れ、緑色をした砂漠を忍び足で通過し、ついに砂漠の中央に位置するこの低地に到達する。この広大な砂漠の終着点として湧き水を生み出し、水の楽園を作り出すのだ。湧き水の周囲には多種多様な生命が集まり、その場所だけがこの目には美しく、しかし残酷な世界の中で命を育むオアシスとして本当の輝きを放っている。
ジュラ紀後期、キンメリッジアン。北米、いまでいうところのニューメキシコ州。
ここは史上まれにみる、恐竜の楽園である。
この地において恐竜の姿は「見ない方が難しい」といっても過言ではない。
巨大な竜脚類は、もはや風景の一部である。たとえばディプロドクスの群れなしに、この湿地帯を描くことはとてもできないだろうし、カマラサウルスやカンプトサウルスもまた、どこにでもいるといって過言ではない。そして、アロサウルスもどこにでもいる。
「ようこそ、中生代で最も危険で、野蛮で、雄大な太古の王国へ。本物のサバイバルを応援します」
それが観光局のPR。危険性をむしろPRして観光資源にしているという、なんとも異常な状況だ。
観光省はふざけていると思うが、嘘ではない。
このオアシスは恐竜の名所として有名だが、中生代で最も危険な場所の一つでもある。
まだ通い慣れない私はその危険性の意味を、まだよく理解できていなかったのだ。
恐竜たち、とくにアロサウルスの接近を避けるために車中泊を選ぶこともあった。しかし、狭い車内での睡眠は、体の節々が痛む原因となり、どうにも好きになれなかった。
そのためこの頃の私は、ここを訪れる際木登りをして高さ15メートルほどのところに空中テントを立てるようにしていた。
この地に生育する針葉樹は低木が大多数と言えるが、川沿いなどには高さ20~30mはある高木が立ち並んでいる。こういうところで優占している針葉樹は色々あって、慣れるまでは見分けに大変苦労する。しかし一見似たような木であっても硬さが違っていて、間違った木を選ぶと落下死しかねない。
ナンヨウスギ科はいまも生き残っていて食用可能な実もとれる反面、下方に枝がまったくないことが多く登りにくく、枝の強度が弱い。スギ科はコウヨウザンに樹形だけは似ているエラチデスが多い。テントには比較的適している。ヒノキ科とケイロレピディア科は数が結構多いもののなかでは当たりだ。強度もあって登りやすい。でも種類が多い上にいまいちよくわからないので、本当にあたりなのかは判断が難しい。ほかに、微妙に松っぽいが何とも形容しがたいゼノキシロンがよくみられる。
どれも材はあまり丈夫ではなく、とくにゼノキシロンは折れやすい傾向があるので避ける。エラチデスが最もマシな部類で、枝の感覚も狭く登りやすい。ただヘスペロルニトイデスなどの先客がいることがあって、卵のある巣に近づいて怒らせたりすると結構怖い。
木は太いにこしたことはない。とくにここではどういうわけか、太い木は希少だ。
そして場所選び。できるだけ木が近接していると、なお良い。これらを見極めてから、安全に上り下りするための足場を組みつけていく。
まず、テントを支えるための丈夫なロープを巻きつける場所を探す。枝の間を慎重に歩きながら、目に留まった太い枝にロープをしっかりと固定する。自分の体重をかけても大丈夫なほどの強度を確認しながら、ロープをさらに複数の枝に絡めていく。この「しっかりとした枝」が本当に難しい。ナンヨウスギに至っては太ももより太いような枝であっても、ポキッと折れて落ちることがあるのだ。乾燥地に多いケイロレピディア科では2分岐し続ける幹が樹冠を形成するためそういうトラブルは少ないが、残念ながらここでは少なかった。低光量に弱いため他の木とともに密生することはないのである。
しっかりとした基盤が整うと、次に空中テントを取り出す。
テントはコンパクトに収められており、広げると、すぐに風を受けて膨らむ。軽量で強靭な素材で作られたテントは、下に引くためのロープが付いており、それを下方の複数の木に固定しバランスを調節することで、空中に安定した寝床ができる。私の手が震えている。高所での作業に慣れていても、20メートル上に寝床を作るというのは、緊張を伴う仕事だ。
テントの一端を木の枝に掛け、ゆっくりと吊り下げる。ひと息つく間もなく、もう片方を引き寄せて、風にあおられながら形を整えていく。風は時折強く、テントを不安定にさせるが、私は冷静にロープを引き締め、さらにその先を確認して固定する。
手が届かない高所で、まるで空に浮かぶような感覚だ。下界が遠く、木々の枝が自分を包み込んでいるように感じる。下を覗き込めば、幾層にも重なる枝葉。
そこから見上げれば、空の広がりが一層広く感じられる。
テントが完成したとき、すべてのロープを確実に締めて、風が吹いても動かないことを確認した。空中の寝床は、まるで空飛ぶ小屋のようだ。地面から20メートルの高さで、動物たちや恐竜たちが歩き回る音が遠くから聞こえてくるが、私の寝床はその音から逃れ、静けさを保っている。
夜が来て、私はテントの中に入る。眠りに落ちる前、私はしばし窓のような開口部から外を見上げる。星々がまばたき、静かな空が広がっている。ここから見える夜空の景色は、地上では決して見られないものだ。明日が来るまで、この空の下で静かに息を潜め、私は眠りにつく。
空中テントの造設は骨が折れる作業で、また危険も伴う。しかし出来上がった時の感動もひとしおで、慣れてきたこのころには、半ばそれが趣味になっていた。
翌朝、心地よい目覚めとともに探検が始まる。
私の目的はオルニトレステスだ。この時期、地下水位が減り切り、繁殖行動が始まるタイミングを私は待ち焦がれていた。この恐竜には特有の婚姻色があり、普段はうっすらとした毛に覆われているだけなのに、繁殖期になると雄は急激に羽毛を生やし、まるで全く別の生き物のようになる。私はそれが見たくて仕方がなく、この危険なジュラ紀の森に野営することにしたのだ。
空から双眼鏡を覗けば、観察可能な区域はぐっと広がる。周囲の木々を見渡せる高さから、私はじっとその動きを追う。ちょうどよく樹冠がぽっかりと開けた場所がすぐそばにあり、テント設営の際に、枝を落としておいたおかげで、視界は思った以上に良好だ。目の前で、瑠璃色の美しい羽が広がる。オルニトレステスの雄は、必死に羽を広げ、ダンスをしながら雌にアピールしている。その動きは、じつに滑稽だが、絶対に笑ってはいけない。逃げられないよう、私は息を呑んでその姿を見守る。
私は枝の間を慎重に移動し、ときには木の間に張り巡らせたロープを使って、さらに高い位置に移動してその様子を観察する。テントを設営した場所からは、やや遠かったが、これで完璧に撮影できる角度を確保できた。求愛のダンスを繰り広げる雄の周囲で、雌は時折足を止めてその動きをじっと見つめているが、まだ決め手がないようだ。雄は必死に、滑稽なダンスを続けている。羽を広げ、腰を振りながら鼻の先についた奇妙な角を小刻みに揺らしている。体にはふわふわとした綿毛が伸びていて、体をゆするたびに乾燥した空気の中でふわふわと舞い上がる。
中生代は樹林が発達しながら、そこに生息する大型の肉食動物が出現しなかった時代でもある。そのため、樹上からの観察に対して恐竜は無防備な姿を見せてくれがちなのだ。
カンプトサウルスがすぐそばを歩いてシダを食んでいる。巨大な恐竜が跋扈するジュラ紀後期においては控えめな大きさに見え、首は細く軽量な作りだった。しかしその大きさは牛をスケールそのままにワニの尾をつけたほどのサイズ感だ。牛と同じくこちらから危害を加えなければ、基本的に安全である。
オルニトレステスはそのことをよくわかっているようで、カンプトサウルスのことはまったく気にせず、奇妙なダンスが続く。
しかし、私の観察は唐突に終わった。
カンプトサウルスの首が突如として、吹き飛んだからである。
雄叫びをあげながら巨大な動物が突進し、長さ80㎝もある巨大な顎がカンプトサウルスの首をしっかりとくわえ込み、歯根を含めれば19㎝にもなる歯が肉をつらぬき、鮮血が飛び散った。急所を太さ5㎝の歯で貫かれた巨獣は一撃で擱座する。
私はあまりのことにその瞬間をシャッターに捕らえ損ね、わなわなと震えるしかなかった。
それがアロサウルスやケラトサウルスだったならば、こんなに私は怯えなかったかもしれない。トルボサウルスだったら、珍しいものを見たと狂喜乱舞していただろう。しかし私はその狂気におびえるしかなかった。
なぜならそれは…見慣れた”おとなしい””どこにでもいる”竜脚類、カマラサウルスだったからだ。
オルニトレステスもはっと我に返って全速力で逃げ出した。まもなくして首の主が現れる。それは筋骨隆々とした雄のカマラサウルスだった。腕には表面から見てわかるほどの強力な筋肉が詰まっており、その姿は体型が若干似たゾウよりも、むしろゴリラを思わせる。その柱のような前脚は、もう動かないカンプトサウルスを踏み貫く。草食動物にしては発達した、巨大なかぎ爪が血と贓物に染まる。
何をしているのか、私には全く想像がつかなかった。
しかし、雄のアフリカゾウがサイを襲うという話がふと頭によぎる。繁殖期の動物は狂うのだ。
ここにおいて私は次に起こることを理解し、絶句した。
狂竜は次の標的を見つけた。テントの下に止めてあった、私の車である。
10トン以上もある狂える竜は凄まじい雄叫びをあげながらサイドミラーを食いちぎり、通り過ぎざまに後ろ足がボンネットが貫通し、車体がひしゃげる音が響きわたるまでに、そう時間はかからなかった。救難信号を出したのはいうまでもないが、そこからが本当の地獄の始まりだった。
テントの中は、今のところ安全圏である。カマラサウルスの身長は8m近くあるが、立ち上がっても15mの空中テントには到底とどかないはずなので、樹上テントに避難した。
しかし、私は”彼”の習性とその目的を理解していなかったのだ。
しばらくして、メキメキと木が倒れる音が響き渡った。狂竜は破壊衝動を、今度は無情にも木々に向けて発散し始めた。その力強い体重がかけられた若木は、まるで細枝のように轟音を立てて倒れ、その後も立て続けに次々と木々が倒されていく。そして倒れた木の葉をむしゃむしゃと食べることなく、無心に次の木を倒す作業に取り掛かっていた。
その姿は暴力的で容赦ないというより、黙々と作業をしているようだった。
私は次の問題に気付いた。私が移動と固定のために張り巡らせたロープ群だ。
もし、テントにつながったロープがかけられている木が倒されてしまったら――その時、私はどうなるのか。もう一度、テント内での安全を確保するために、私は慎重に作業を始めた。
細い木に繋がっているロープを手に取り、動揺を抑えながら慎重に切断していく。静かな風がその音を運び、ロープが切れる度に心の中で一つずつ、重い石が落ちるような感覚が走った。時間が経つほどに、狂竜の存在が近づく恐怖は増し、背中に冷や汗が流れた。何かを間違って切ってしまったら、私は確実に死ぬ。即死しなくても、狂竜がくる。逆に、倒される木にまだロープがついていたら、テントが引っ張られてやはり地面にたたきつけられ、やはり狂竜がくる。
ロープを切断しながら耳を澄ます。狂竜が次に何をするのか、その動きを察知するためだ。倒された木々の轟音に混じって、私の心臓の音が響き渡るかのようだった。
その時、ようやく狂竜がその巨体を止めた。どうやら、狂竜は自らを中心にした“ミステリーサークル”を作っていたらしい。そのサークルがちょうど、彼の巨体が一周できるほどの大きさになった時、満足したようにその場を去っていった。破壊的な衝動は収まり、狂竜は何事もなかったかのようにその場を離れて行く。
私はその瞬間、息を吐き出し、ようやく緊張が解けるのを感じた。しかし、解放感の後に訪れたのは、猛烈な疲労感だった。まるで魂が抜けたように、空中テントの中で横たわり、しばらく動けなかった。深く息を吸い込んで、心臓の鼓動を感じながら、しばらくそのままでいることしかできなかった。まるで自分が悪い夢でも見ていたような錯覚に囚われながら。
ふと端末を見る。救難信号がちゃんと送信できていなかったことに気づいた。樹上での動揺で確認を怠っていたのだ。そして、どうやら同様の狂竜襲撃事件が近辺で多発しているらしいことも・・・
状況はどうやら、ますます悪化しているらしい。観光バスが襲撃を受けたというものもあり、いま私が救難信号を出したとしてもそうとう後回しにされてしまうだろう。しかしだからこそ救難信号をあらためて送信した。
どっと疲れが押し寄せてきた。命の危機を感じたことで、全身の力が抜けたようだった。
気付けば気を失っていて、
またあのメキメキという気をなぎ倒す音で目覚めたとき、もう翌朝だった。
外を見て事態の重大さを把握した。
テントの至近距離で、昨日とは別の個体の狂竜が木を倒し始めていたのだ。その巨体は朝の光を受けながら、のしのしと、巨体に見合わないフットワークの軽さで倒しやすそうな木を見計らい、ターゲットを見つけるとのしかかった。
だが、私は内心でほっと息をついていた。昨日のうちに、ロープをより安全そうな大木にのみ結び付け直していたからだ。それは樹齢何百年にもなるような太い木々で、狂竜が多少の力を振るった程度ではびくともしないと信じていた。自分の判断が正しかったことを確認するように、テントの張り具合をそっと確かめた。
全力を込めて木を押し倒す狂竜は、深く刺さるような咆哮をあげる。
この草食動物は、気分が昂ると叫ぶらしい。
肉食動物が襲い掛かる際に叫ぶのは映画的な演出に過ぎず、実際にはむしろ静かに行動することが多い。しかし、感情に任せて声を上げる動物は実際に存在する。例えば鳥だ。友人が飼っていた文鳥も、気分が高揚するとよく叫びながら噛みついてきたことを思い出す。それに近いものなのだろうか。
私は双眼鏡を手に取り、その巨大な姿をじっくりと観察する。狂竜は足元に転がる倒木に苛立ちをぶつけるように突進し、そのたびに地面が揺れる。
狂竜が倒した枝の一本が、テントに張ったロープに引っかかったのだ。その瞬間、ロープがずるずると引きずられ、強い摩擦がかかる音が聞こえた。ロープというものは引張強度は強いが、摩擦に弱い。摩擦がかかるとあっさり切れてしまうことを知っていた私は、すぐに限界が近いことを悟った。
「これはもうダメだ…」心の中で呟きながら、背負えるだけの最低限の荷物を手に取り、テントを放棄する決断をした。ひときわ太い、太さ2メートルほどもある巨木に命綱をかけ、幹にしっかりと体を固定した。テントに未練はなかった。生き延びることが最優先だ。
私が幹に体幹を固定し終わるか否かというタイミングで、ロープがついに破断した。鋭い「バチンッ!」という音が響き、テントは力を失ってだらんと垂れ下がった。その鮮やかな蛍光イエローの布が、狂竜の視界に入る。
狂竜は、激怒した。
その全身から湧き上がるような敵意と苛立ちが、空気を震わせたのだ。縄張りに侵入した見慣れぬ異物――蛍光色の”なにか”は、狂竜にとって許しがたい存在だったのだろう。彼の視線が布に釘付けになった。
身の毛もよだつような轟音とともに、狂竜は突進した。あっという間に垂れ下がったテントに歯を突き立て、激しく引きちぎる。生地が裂ける音は、耳をつんざくようだった。狂竜はさらに、前足で執拗に踏みつけた。その力強さは想像を絶し、布が地面に叩きつけられるたびに砂埃が舞い上がる。
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滑走路に響き渡るけたたましいサイレン音。薄暗い基地の敷地内では、連なった救急車がひっきりなしに到着し、負傷者を乗せた担架が次々と運び出されていく。負傷者の呻き声や救命士たちの怒号が飛び交う中、現場には誰もが感じる沈黙が漂っていた。
「大変気の毒だが、正直、そんなことを考えている余裕はない。」
パイロットのリサが呟くように言いながら、ぼろぼろになった操縦マニュアルを無造作にカバンへ押し込んだ。
格納庫では整備士のトムがの外板を指差し、苛立たしげに仲間へと怒鳴っている。
「整備が追いつかねぇ!こんなボロ機体で毎日飛べってのかよ。塗装は剥げて、ほら、これ見ろ、もう錆びてやがる。」
彼が指差す箇所には、赤茶けた錆がヘリの機体全体に滲み出していた。特に東部の乾燥地帯へ出撃した後はひどい。地下水が乾燥で塩分濃度を増し、それが機体に降り注ぎ、たちまち腐食を進行させる。信頼性を7割がけで見積もるのが当たり前になりつつある現状が、整備士たちをさらに疲弊させていた。
「また恐竜に襲われた、かよ…」
「どうせカマラサウルスだろ。今月だけで何件目だ?」
モリソン第七管区救難基地のブリーフィングルームは、疲労と苛立ちが渦巻いていた。この時期の恒例行事のように思えてくる繁殖期のカマラサウルス騒動。今日も例外なく通報が届き、その内容はもはや救助隊全員が予測していた通りのものだった。
「・・・20回目?」
「いや、もっとだろ。だって今日はもうこれで2回目だぜ。」
「あーあ、なんで運輸局は立ち入り禁止区域を設けないんだろうな。今月だけでも閉鎖してくれれば仕事が7割減るってのに。」
隊員の一人が書類を放り投げるように置きながらぼやく。
だが、その提案を聞いた隊員のひとりが苦笑交じりに反論した。
「そもそもカマラサウルスがどこにでもいるのが問題だろ。あんな害獣、いっそのこと一匹残らず駆除すべきじゃねぇか?」
「それでいて観光局のPRはアレだぞ。」救助隊員のリサが机に肘をついて毒づく。
「『カマラサウルスは草食だから安全です』、なんて検索すれば一番に出るんだからな。」
「まぁ、繁殖期以外なら安全だよ。実際、普段はのんびり草食ってるだけだし。」
「でも車を好き好んで襲う動物なんて、普通じゃねぇだろ。」
「顔はかわいいんだけどな。」リサがため息交じりに続ける。
「でも、やることがえげつなさすぎる。木を切り倒して直径20mの巣をつくるわ、巣に近づいたものはバスだろうが攻撃して踏みつぶすとか、ほんとマジイカれてるって。」
その時、格納庫に割れるような音が響き渡った。スピーカーからは指揮官の怒号が飛び込んでくる。
「おい、何をグズグズしてる!現場では3人が負傷、1人は即死だ!さらに2人が行方不明!残りの乗客は装甲区画に閉じこもっているが、いつやられるかわからん。すぐに発進準備を整えろ!」
「まただよ、大型観光バスだ」
「鈍重でデカいから的にされるんだよなあ、装甲区画があるから安全とか言ってるけど」
「で、その後始末をするのは俺たちってわけか。」
一瞬の静寂の後、隊員たちは一斉に動き出した。ヘルメットをかぶり、装備を手に取る。格納庫のローターが回り始める音が、疲弊しきった救助隊員たちに噴出し続ける抗議をかき消していった。
この終わりのないループが続く限り、彼らは飛び続けなければならない――たとえ、それがどれほど理不尽であろうとも。
整備士たちもいら立ちが極限まで達している。
「結局、犠牲者がいくら出ても何も変わらないんだよな。」
「むしろ、それが観光の売り文句になるんだから、たまったもんじゃねえよ。『ようこそ世界で最も野蛮で危険な恐竜王国へ』とか大げさなキャッチコピーつけてさ。犠牲者が出るのも太古のロマン、みたいな話にされるんだろ?」
救助隊たちも精神的疲労が限界に達している。
「怪我人を救出して、遺体を回収して、それでまた明日も同じだ。」
「人間ってのは、己を強いと思いすぎてるんだよな。」
「ここでは弱さを知ることこそが強さなのに、それを理解しようともしない。」
「まぁ、俺たちはそのツケを払うだけの存在だ。あいつらが自分の無力さを知る日は、来るんだろうか。」
眼下に広がる広大な平原。カマラサウルスによる”伐採”でできたミステリーサークルが、あちこちにできている。
「あんなの一日で作っちまう奴らに、人間が叶うもんかよ」
「どうせまた、『ロマン』とか『冒険』とか言うんだろ。遺体の一つ一つに、どれだけの重みがあるかも知らないくせにさ。」
ヘリのエンジン音が強まり、救助隊を乗せた機体は現場へと急いだ。彼らは怪我人を救い、遺体を回収し、また明日も同じ光景に挑むことになる。それは、この地を訪れる人々が、己の弱さを理解しない限り、終わることのないループだ。
人は己を強いと思いすぎている。このジュラ紀の日常において、弱さを理解することこそが真の強さであることを、人は思い知るべきなのだ――だが、その気づきが訪れるのはいつになるのか、それとも永遠に訪れないのか。隊員たちは、黙々とその業を背負い続けるだけだった。
「発信源を特定した。ヘッドアップディスプレイに座標を共有。確認できるか」
指揮官の冷徹な声が、無線を通じて救助隊に届く。
機体はすでに現場の直上に差し掛かり、下空の様子が確認できる。
その先に見えるのは、もはやバスの形すらかろうじて残った、破壊された観光バスの残骸。周囲には、繁殖期に入ったカマラサウルスの雄がバスを凝視し、動くものが一つでもないか警戒しながら周囲を周回している。
「確認した。乗員は全て装甲区画に入っているようで目視できない。降下を開始する」
狂える草食恐竜ほど恐ろしいものはない。
しかし、哀れな観光客と同じ結果にはならない。
元々は軍用のヘリコプター、Mn-26は、轟音をあげながら現場にアプローチを始めた。
圧倒的な収容力を誇るこの元軍用機が日常的に使われるのは、ここジュラ紀の北米くらいだろう。
この機体が日常的に用いられるのは、被害規模が大きいからではない。
圧倒的に巨大な恐竜を怖気づかせるには、圧倒的に巨大である必要があるからなのだ。
その8枚のローターは、一回転するごとに巨大な風を巻き起こし、地面を震わせ、木々が風圧になびき、弱い枝は吹き飛んでしまう。
その直径32メートルのローターは最大のディプロドクスと同等。全長はカマラサウルスの倍の40m。
その巨体が空中から降下すること自体が、救難活動となる。
大地にとどろくエンジン音が、まるで雨粒の落ちた水面のように地面を覆う低木に伝わる振動と風圧の嵐が、それがもつ「力」は見た誰もを圧倒する。そう、この巨体を前にすれば、あのカマラサウルスであろうが、すでに「遅かった」現場に山をなすようにたかるアロサウルスの大群だろうが、大慌てで逃げ出していくのだ。
この恐竜の王国は、より大きく、より強い者が勝つ。
残酷だが、単純な世界だ。
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・・・
おかしい。救難信号がやはり届いていない。
端末の画面を睨みながら、電波状況を確認するが一向に改善する兆しはない。電波が悪いのか、それとも近隣で発生している同様の狂竜事件のせいで、救助隊がすでにキャパオーバーしているのか。いずれにせよ、この状況下で他人を頼ることはできないという現実がじわじわと胸に迫ってきた。
次に何をするべきか考えていた時、ふと気づけば日が傾き始めていた。
長い影が地面に伸び、周囲の森がゆっくりと静寂に包まれていく。だが、静寂は安心を与えるものではなかった。この中生代の地球で、生き延びるには、自力で道を切り開くしかない。
先ほどまでの狂乱の主――カマラサウルスは、どうやら自ら作った”ミステリーサークル”に満足したのか、姿を消していた。森の奥に消えたらしい。だが、それは一時的な平穏に過ぎない。次に彼がなすべきこと、それは彼の「作品」を死守することだろうから。
「テントの中身は…」
視線を落とし、無残に踏みつけられたテントの方向を見つめた。あの蛍光イエローの布は、すでにぼろぼろの残骸となり、地面に広がっている。中の荷物がどれくらい無事か――無理だろうな。
選択肢は二つに絞られた。
一つは、樹上に仮設の基地を作ること。残された命綱とロープを使えば、いくらか安全な位置に新しい拠点を構築できるだろう。だが、それには時間がかかる。そしてまた、夜に襲撃されれば、再び逃げる羽目になる可能性もある。
もう一つは、まだバッテリーが生きている車に引きこもることだ。
ボンネットは無残に踏み抜かれているが、エンジンをかけなければ電気系統はまだ使える。電気だけでも少しは走るかもしれないし、ライトをつければ夜間の安全も確保できるかもしれない。ただ、狂竜のターゲットは車そのものだった。大きなものが存在するだけで攻撃しにくるのだ。
なにか。なにかないのか…なにか、なにか、なにか。
焦燥感が心を圧し、思考がまとまらない。目の前に迫る危険に対して、冷静に判断するためには、もっと情報が必要だった。だが、観光局の資料には「繁殖期には気が荒くなるので身を隠して観察しましょう」などと書かれているばかりで、カマラサウルスに関する危険な情報はほとんど記載されていなかった。
クチコミにすら、彼が危険な存在であるという話はほとんど出ていなかった。それが何を意味するのか、私は深く考え込んだ。…検閲ってことはまさか…そんなことが、まさかこの時代にも存在するのか…。
私はふと、荷物の片隅に入れていたサバイバル・メモを取り出した。これは、おもに白亜紀前期を扱う恐竜ツアー会社が出している、サバイバル用の電子端末だ。しかしいかにもハンドメイドじみた専用端末で、堅牢さとバッテリーの長時間駆動を最重視した設計のため、絶妙に使いにくい。そのためあまり読み込んでいなかった。だが今、頼れるのはこの端末しかない。
「なにか、カマラサウルスについて…」
端末を起動し、必死で情報を探し始める。その指先が震えながらも、目の前の命を繋げるために、必死にページをめくった。
あった。
3つ目の選択肢。それは自力でこの事態を脱出し、徒歩で帰ることである。
(後編につづく)
前編です。カマラサウルスって首が短いので何となく小さな竜脚類のように思われがちですが、背はディプロドクスより高いし、頭に至ってはちょっとした大型肉食恐竜並みの大きさがあります。かむ力は竜脚類としては最大ですが、人間の3倍程度の1800Nです。(但し測られたのは亜成体である点に留意、成体はもっと強いだろう)