村を喰らう竜のこと
ホラーでは、科学的整合性よりもホラが優先されます。ご注意を。
「一番ヤバい恐竜ってなんだと思う?」
私は答えに窮した。
「やっぱ、ティラノサウルス・レックスとか?でも、たとえばメガラプトル類が本当にヤバいって話も聞いたけど・・・」
「ま、デカい肉食恐竜はヤバいわ。でも私が知ってる中でヤバい事件は寧ろ草食恐竜が起こしてるんだよ・・・ヤバい話を一つ紹介するけど、聞きたい?」
私は恐る恐る答えた。
「・・・聞きたいかも」
私は来月から、中生代に行くことになる。
そのまえに恐竜ウォッチャーである私の友人、ゼナにできるだけ色々聞いたのだが、これは怖い話をたくさん聞くことになって、後から振り返ると失敗だったかもしれない。
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太古の地球への植民が始まって、すぐのこと。まだその脅威は、ほとんど未知だった。
白亜紀末期、カナダ。
山には緑あふれ、空は天を衝くような青さだ。
家庭菜園には朝露が残り、一抱えはあろうかというキャベツの葉先が煌めいた。人参、玉ねぎ、トマト。みな素晴らしい出来だ。ほんのりと、完熟した堆肥の少し甘みのある香りが入った、よくできた土の香りがする。いい畑の証拠だ。
都会では培養野菜しか手に入らないというが、ほんものの土で愛情をかけて育てた野菜に勝るものはない。
この地は緯度が高い。夏は短いが、この世の天国だ。気温は25度ほどにしかならず、もう灼熱の現代地球に戻る気はさらさら起きない。澄んだ空気には、天然の二酸化炭素が多く溶け込んでいる。極地特有の長い日照が合わさると、奇跡が起こる。植物は普通の3倍速以上で成長し、収量は5倍にもなる。家庭菜園レベルであっても、一年食いつなぐことはたやすいし、余剰が出て仕方がないほどだ。
長い冬が来るが、凍結もしないし雪が降るほどではない。でも作物が育たないので、砂金を採ったり、魚を釣ったり、狩りをしたりと悠々自適な生活を送れる。そうして集めたいろいろなものを、村の皆と協力しながらこつこつと加工して、都会に売るのだ。ここではありふれたものでもたいそうなお値段が付く。はじめはこんなものが売れるのかと皆半信半疑だったが、いまではラプトルなどみたときにはもう、誰もが皮算用をして舌なめずりをするようになった。なんせ熱心なコレクターたちは羽一本ですら法外な値段で買っていくからである。
ここを皆で開拓し、集落を作ってから5年。かつては原野だったこの地を、集落の皆で開墾した。根を掘り起こし、岩を取り除き、道を切り拓く。共に汗を流し、笑い、時に苦労を分かち合いながら、新しい故郷を築き上げてきた。
ボブとその家族もまた、フロンティア・スピリットを胸に抱き、新天地を求めてこの未開の地に移住してきた一員だった。都市生活を捨て、電波もろくにつながらないこの未開の地において文明の便利さにとらわれない、自分らしい自由な生活を夢見た。そしてその選択は正しかった。
何もないって、いいよな。
最初に来た時の感想だ。しかし、今は違う。何もないのではない。ほしかった全て。素晴らしい自然、無限に広がる未知の大地。開拓者のなかまたち。そして愛しい家族。すべてがある。
家族の次に大切なもの、それがこの家だった。原野を開墾し、森の木々を伐り、日曜大工で自分たちの手で建てたログハウスだ。指導書には何度も目を通し、試行錯誤しながら家を形にしていった。最初は家族みんなで不安な顔を浮かべていたが、壁が立ち、屋根が載るにつれて笑顔が増えた。
壁は少し歪んでいるし、床は歩くと軋む。それでも、この家には木の香りと家族の思い出がしっかりと染み込んでいる。最初の冬には暖炉の煙突がうまく機能せず、一酸化炭素警報が鳴り響いたこともあった。雨漏りでバケツを並べた日々もあった。それでも、少しずつ補修を重ねてきた。
ボブはキャベツを摘みながら、そのログハウスを見上げた。緑に囲まれたその佇まいは、自然と調和しながら、家族の営みを静かに守ってくれているようだった。
「今日もいい天気だ。さあ、やることが山積みだぞ!」
ボブは摘み取ったキャベツを抱えながら、笑顔で家の中に呼びかけた。家族の声が明るく応え、その声は木々の間を抜けてどこまでも響いていった。
ブロロロロ…
耳慣れない音がして、ボブはいぶかしむ。
集落につながる山道には、見慣れない軽トラックの姿があった。
「おはようございます!」
トラックから降りてきたのは、派手な黄色い作業服を着た中年の男だった。笑顔を貼り付けたその顔は、どこか落ち着かない雰囲気を漂わせている。助手席からは、若い見習いらしき男がぎこちなく降りてきた。
「突然お邪魔して申し訳ない! 私、シロアリ駆除専門の『クレト・ターマイテック』の者でして、この地域を無料点検で回らせていただいております!」
男はそう言うと、手に持った大きな名刺を差し出した。名刺には、妙にチープなフォントで会社名と電話番号が書かれている。
ボブは手を止め、すこし困惑しながら名刺の名前を見た。ターマイテックなら聞いたことがあるが…
「この村ができたのはたったの5年で、シロアリなんて開墾中も見たこともない」
「いえいえ、目に見えない部分にこそ危険が潜んでいるんです!」
男はそう言うと、腰につけたタブレットを操作し始めた。
「この最新機器で即座に調査できますよ。ほら、無料ですから!」
ボブは怪しいと思って断ろうとしたが、営業員は鋭かった。
「ほらあそこ、木くずが出ているでしょう?」
彼の指さしたところには、たしかに小さな木くずがさらさらと出ている。
「たて付けが悪くなったり、みょうに変なおがくずがあったりするところはありませんか?白亜紀のお野菜、本当によく育つでしょう?白アリもなんですよ、ここでの5年は向こうの50年なんですよ。うちはこの時代の専門ですからね、弱小なのは認めますが」
男は、いつの間にか取り出したカラー印刷のパンフレットを和也に差し出す。そこには、食い荒らされた木材の写真が大げさに並べられ、「あなたの家も危ない!」という文字が目立つ。
若い見習いの男が小声でぼそりと呟いた。
「あの……おじさん、あれ、シロアリかね? 先月のも……」
中年の男は、慌てて見習いの肩を叩いて黙らせる。ボブはその様子を見逃さなかった。
「お前さん、どこから来たんだ?」
ボブは静かな声で問うた。
「え、ええと……町の方からです。ええ、町の方です。」
男の声が一瞬震えた。
ボブはふっと笑い、玄関に立てかけてある斧の柄を握った。
「この家の木は、山の仲間と一緒に伐って作った。あんたの話が本当なら、きっと最初から駄目になってただろうな。悪いが、他を当たってくれ。」
その言葉に、中年の男は顔を引きつらせながらも、「まあ、また何かあれば!」とパンフレットを置いてそそくさとトラックに戻った。
去っていく軽トラックを見送りながら、ボブは小さく鼻で笑った。
「こんな山奥までよく来たもんだ。」
軽トラックの運転席。クレト・ターマイテックの営業員であるケニーはひどく苛立っていた。
この販売員、ナリは若干怪しいが本物である。会社もまた、PRは微妙だが本物の専門家だ。白亜紀の昆虫被害について真剣に時代と地域別に対応しているのはクレト・ターマイテックだけなのである。
彼の額には汗が滲み、口の端がひきつっている。助手席に座る新人営業員のジョンは、縮こまるようにして窓の外を眺めていた。
「なあジョン、社名がシロアリだし何とも言い難いけどよ、白亜紀にシロアリはあんまりいないんだ、新人研修中で、虫好きで入社したおまえがまた木を食うゴキブリだろ、と思うのはわかるし、そう思ったころも俺にもあった。開墾を散々してきたのにシロアリの一匹も見ずにきたというあのお客さんの疑念もまた本当だろう。事実、この時代のこの地域にシロアリなんて見つかったことねえんだからな。」
ケニーは一呼吸置きながら、指をジョンに向けた。
「でもよ?客にとっちゃな、木を食うゴキブリだろうがシロアリだろうが、そいつが何者かなんて関係ねぇんだよ。それにな・・・」
ジョンはケニーの怒りが、どうも本当は自分に向いていないのではないかということを薄々察していた。それは彼の、なにかひどくセンシティブなトラウマを掘り起こしてしまったようだったのだ。
ケニーは荒々しくアクセルを踏み込み、軽トラックが山道を勢いよく駆け下りていく。エンジンの唸りが車内の静寂を切り裂き、ジョンの心臓はその音に合わせて鼓動を早めた。ケニーの横顔には不穏な陰りがあり、普段の口八丁な営業マンの顔とはまるで別人のようだった。
「さっきのセールスが失敗した時点で、あの村がどうなるか、俺には想像がつく。お前にはわかんねぇだろうけどな……俺は見ちまったんだよ。」
ケニーは走り出した車を止め、エンジン迄止めてしまった。
車内に広がる静寂。
ケニーはちらりとジョンを見たが、答える代わりに目を前方に戻した。その視線には、険しい山道よりもはるかに遠い何かを見ているような虚ろさがあった。
「今のセールス失敗であの村が虫に食い荒らされるのはほぼ確定事項になったわけだけどよ、どうなるか、お前は知る由もないだろうけどな、俺はいろいろ、見ちまったからよ・・・」
ケニーは、さっき言ったこととほぼ全く同じ内容を2度繰り返した。明らかに不自然だ。
「……何を、見たんですか?」
ジョンは震える声で尋ねた。
ケニーは黙ったままエンジンを再びかけ、軽トラックを動かし始めた。その沈黙の中で、彼が口を開いたのはしばらく経ってからだった。
「木に巣食った虫は、ヤツらを呼び寄せるんだよ。」
ぽつりと呟いた言葉が車内に重く響いた。
「シロアリだのゴキブリだの、そんな話じゃねえ。次に訪れたときには、村の家が丸ごとなくなって、住んでた人間も野垂れ死にしてた。それだけだ。」
ジョンは身を乗り出して問い詰めた。
「だから、それって一体何が来るんです? ケニーさん、何か知ってるんですよね?」
ケニーは拳を握りしめたまま、ハンドルをぐっと握り直した。そして、声を荒げることなく、しかしどこか押し殺したような低い声で答えた。
「わかんねえよ!」
その言葉には苛立ちと、何か得体の知れない恐怖が滲んでいた。軽トラックは道のくぼみに揺れながら進み、車内は揺れとともにさらに不安定な空気に包まれた。
ケニーは続ける。
「ただ一つ言えるのは、奴らが来た後には何も残らねえってことだ。村が丸ごと一つ、地図から消えるように、な。」
ジョンはその言葉の重さに言葉を失った。ケニーの話が現実離れしているように感じつつも、その語り口には冗談や誇張とは違う、真実に根ざしたような説得力があった。
ケニーは再び口を開いた。
「いいかジョン? 客にとっちゃ、木を食うゴキブリだろうがシロアリだろうが、そんなのどうでもいいんだ。お前がどれだけ虫の種類だとか生態だとかを説明しようがな、奴らには理解なんてできねえよ。肝心なのは、不安を煽って、行動させることだ。それが、あの村みたいなことを防ぐ唯一の方法なんだよ。」
ジョンは何かを言い返そうとしたが、口を閉じた。ケニーの言葉には不条理さが漂っていたが、何か得体の知れない現実が裏に隠れているようにも感じられた。
軽トラックは再び進み始め、山道を抜けて平野へと出る。遠くに次の村の屋根が見えた。その村も、どこかケニーの語った「消える村」と重なって見え、ジョンは軽く身震いした。
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一月ほどが経った。秋が訪れ、山々が鮮やかな紅葉に彩られる季節になった。イチョウの黄金色やニルソニア類の赤や橙が広がり、緑を保つヒノキ類とのコントラストが錦のようだ。山風が吹くたびに、葉がさらさらと音を立て、山全体が秋の訪れを祝う。
ボブの家庭菜園も収穫の時を迎えていた。畑の一角には摘み取られたキャベツが山積みになり、その傍らで妻のエレンと娘のメアリーがせっせとザワークラウト作りに勤しんでいる。手慣れた動きでキャベツを薄く刻むエレンの隣で、メアリーは小さな手で塩を振りかけ、漬け込み用の樽に詰めていく。
村中を覆うザワークラウトの甘酸っぱい香りは、家々の窓や扉の隙間から漂い、あたり一帯を秋らしい雰囲気で包み込んでいた。ボブは薪割りの手を止め、畑の方に目を向けた。エレンとメアリーが楽しそうに笑い合いながら作業を進めている姿を見て、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「今年もいい出来だな。」
ボブはぽつりと呟き、手にした薪を重ねると、一息ついた。ザワークラウト作りは、村の伝統的な秋の行事の一つだ。これを作り終えると、いよいよ冬支度が本格化する。
「お父さん、見て! 私の詰めた樽、すごくきれいでしょ?」
メアリーが樽を指差しながら、大きな声でボブに話しかける。その声に気づいたエレンも笑いながら言葉を添えた。
「ねえ、ボブ。私たちが頑張ってる間に、あなたも畑の片付けをお願いね。」
「おっと、それはごもっともだ。」
ボブは手をひらりと挙げて答えると、笑いながら鍬を手に取った。
収穫の喜びと家族の笑顔が交錯するこのひととき、村全体が秋の恵みへの感謝に包まれていた。しかし、遠くで風がざわつく音が聞こえるたび、ボブの胸には不安がよぎった。あの妙な訪問者たち――ケニーとジョンが村を訪れた日から一月が過ぎたが、彼らが何を言いたかったのか、ボブは未だに消化しきれていなかった。
確かに、彼らの物言いにはどこか不自然さがあった。営業トークとしても過剰で、半ば脅しのような言葉さえ交えていた。それでも、ケニーが最後に残した言葉が、妙に胸に引っかかっている。
「木の奥に巣食うヤツらが村を丸ごと飲み込む……」
非現実的な話だと一笑に付したいところだが、ボブはそれが完全な作り話ではないような気がしていた。何より、あの訪問の日に彼らが指摘した家の外壁の「おがくず」のことが気になっている。あの時は一時的な木屑のように思えたが、注意深く観察してみると、どうも他の場所からも似たようなおがくずが出ていることに気づいた。
「何かが、木の中で起きている……」
その可能性を認めたくないボブは、あくまで自然のせいだろうと自分に言い聞かせていた。風が吹き、枝が擦れ合ったり、木が自然に朽ちているだけかもしれない。しかし、どこかで耳にした「シロアリ」の被害の話が頭をよぎるたびに、胸の内でくすぶる不安が静まらない。
ケニーたちが残していったチラシを引き出しから取り出す。粗雑な紙に印刷された文字――「クレト・ターマイテック:シロアリ駆除のスペシャリスト」と大きく書かれた文字の下に、怪しげな電話番号が載っている。チラシにはシロアリが木を食い荒らす様子のイラストが描かれており、その周囲に「今すぐお電話を!」「村を守るのはあなた次第!」といった派手なコピーが踊っていた。
ボブはため息をついて、チラシを机に叩きつけた。この電話番号にかけるべきか、それとも別の方法を探るべきか。だが、この辺境ではインターネットも通じず、頼れる知識も限られている。村には古くからの知恵を持つ住人もいるが、虫の話となると頼れる人は少ない。
「どうする……?」
ボブは自問した。電話をかけるという行動は、ケニーたちの言葉を信じることを意味する。だが、もしも彼らの警告が本物だったとしたら……。ボブは迷いながら、チラシを見つめ続けた。机の上に置かれたチラシの文字が、秋の日差しの中で妙に浮かび上がって見えた。
ボブは迷いに迷った末、冬が訪れる前に電話をかける決心をした。目の前のチラシに記された番号に手を伸ばすと、受話器をしっかりと握りしめ、深呼吸してダイヤルを回した。電話が鳴る音が耳に響くたびに、胸が高鳴った。まるで自分の決断を試されているようだった。
数回の呼び出し音の後、電話口の向こうから声が聞こえてきた。
「こちら、クレト・ターマイテックです。どういったご用件でしょうか?」
その声は、以前会った見習いのジョンだった。ボブはすぐにわかったが、その声は以前とはまるで違っていた。どこか頼りなさげだった印象は消え去り、明瞭で自信に満ちた口調に変わっていた。
「ジョン……さんか?」とボブは半信半疑で尋ねた。
「はい、そうです。先日お邪魔した者です。ええと……村外れのログハウスにお住まいの、ボブさんでいらっしゃいますか?」
ジョンは、ボブの声を聞いてすぐに思い出したらしく、名前を挙げて確認してきた。その対応ぶりに、以前の頼りなさが嘘のようだった。
「ああ、そうだよ。あの時の件で、少し相談したくて電話したんだが……」
ボブがそう言うと、ジョンは丁寧に話を遮らず、話を聞く姿勢を見せた。
「ありがとうございます。何か問題がありましたか? 状況を詳しくお伺いしますので、お聞かせください。」
ジョンの声には、すでに一人前のプロとしての落ち着きと確信が感じられた。ボブは一瞬ためらったが、意を決して話し始めた。
「あの時、ケニーが言ってた『おがくず』の話だ。あれから気になって、家の周りを見てみたら、他の場所でも同じようなものが見つかった。特に、壁の下の方や軒下あたりだ。これが本当にシロアリの仕業なのか、確かめてもらいたいんだ。」
ジョンは一息置き、慎重に答えた。
「なるほど、確認いただいたのですね。おがくずが複数箇所に見つかったとのこと。まず、その状況は典型的なシロアリの初期被害に近いです。ただ、原因を特定するにはやはり現地調査が必要です。ケニーと私で、できるだけ早く伺いますが、いつがご都合よろしいですか?」
ジョンの言葉には迷いがなかった。その対応に、ボブの胸中にあった疑念が少しずつ薄れていくのを感じた。
「そっか……じゃあ、できるだけ早く頼むよ。冬が来る前になんとかしておきたい。」
「承知しました。本社からは3日かかりますので、明後日の朝一番でお伺いしますね。詳細はまた改めてご連絡します。それでは失礼いたします。」
電話が切れた後、ボブは受話器をゆっくりと置いた。彼の中には依然として不安が残っていたが、ジョンの落ち着いた対応に一筋の希望が見えた気がした。「あの時の見習い」と思っていた彼が、ここまで成長しているとは思わなかった。
「さて……本当に奴らが来る前に、何とかなるといいが。」
ボブは独り言をつぶやきながら、ザワザワと吹き抜ける秋風を背にして家の中に戻った。
クレト・ターマイテックは規模こそ大きいが、建物がぼろいことで業界でも有名である。
ひびが入ったコンクリうちっぱなしの壁を背にして電話対応しているのは、あの新人のジョンだ。
ジョンが電話を切るなり声をかける。
「ケニーさん? 仕事入りましたよ。先月の集落から、『やっぱり心配だ』って。」
ケニーは驚いたように顔を上げた。目をぱちくりさせながら、しばらく状況を飲み込めない様子だった。
「えっ、あの村から? 本当か?」
ジョンが頷くと、ケニーは椅子から立ち上がり、慌てたように背後に積んであった工具箱へと向かった。
「すぐ道具を取ってくる! あの村のログハウス、もう手遅れかもしれねえが……少しでも早く――」
ケニーの声にはどこか急き立てられるような焦燥感が滲んでいたが、その表情には何やら複雑な感情が入り混じっていた。喜びとも怒りともつかない、どこか矛盾した感情を抱えているように見えた。
ジョンは軽く肩をすくめながら、軽トラックを指さした。
「道具って、いつもの作業道具だけでしょう? それなら、もう全部荷台に積んでありますよ。」
その一言に、ケニーは一瞬立ち止まり、振り返ってジョンをじっと見つめた。
「おまえ、準備いいじゃねえか……」
「この一月、俺なりに勉強しましたから。『あの村』で何が起こるか、まだ全貌は掴めてませんけど、少なくとも必要なものは忘れないようにしてます。」
「でもな、これは俺の戦いなんだ」
ケニーは深く息を吐き、わずかに微笑んだように見えた。そして倉庫の奥の奥から何やら馬鹿でかい箱やタンクを次々に引っ張り出してから、担ぎ込んだ。
「よし、行くぞ。おまえも成長したな、ジョン。でもな、今回ばかりは――どんな準備をしてても足りねえかもしれねえぞ。明後日といったな?交代で運転して、明日の夕方には着くぞ」
ジョンは少し戸惑ったが、その意味を理解した。
「えっ明後日の朝で…、い、いや、でも、遅いよりはマシです。村の人たちだって、信じるしかないんですよ。俺たちを。で、本当に急ぐ必要があるんですよね」
「そうだな。」ケニーは力強く頷き、軽トラックの運転席に乗り込んだが、ジョンは意を決して止めた。「僕が運転しますから」
エンジンがかかり、軽トラックが静かな山道を進み始めると、二人の間に短い沈黙が落ちた。ケニーは運転席のジョンにちらりと視線を送ると言った。
「ジョン。村を救えるのは俺たちだけだ。それを忘れるなよ。」
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ボブはその穏やかな午後、ベッドで横になっていた。窓から差し込む柔らかな日差しが、部屋を温かく照らしている。彼は深く息を吸い、収穫を終えた後の充実感と安堵を感じていた。
「ああ、明後日には全部片付くんだな……」
そう独りごちたボブの顔には、ほっとしたような笑みが浮かんでいた。先月から抱えていた懸念――家の外壁に見つかったおがくず――も、ケニーたちが調査に来ることで解決するだろうという期待がある。あの奇妙な営業マンたちが少々怪しかったのは事実だが、彼らの警告を無視することもできなかった。
その安心感が、ゆっくりとボブの意識を眠りへと引き込んでいった。窓の外からは、時折、鳥のさえずりや遠くで木々が風に揺れる音が聞こえる。静かな村の午後は、まるでこの瞬間を永遠に閉じ込めたかのようだった。
ボブの意識が深い眠りに落ちる直前、彼はふと、遠くの山の方から微かな音が聞こえた気がした。それは風の音とも、何かが折れるような低い音とも取れる、不思議な響きだった。しかし、安堵に包まれた彼の体はそれを気にすることなく、やがて完全に夢の中へと沈んでいった。
明後日、全てが解決する。そう信じて疑わない彼の心には、これ以上の不安など微塵も存在していなかった。
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もう日が暮れている。
ジョンは軽トラックのハンドルをしっかりと握りながら、山道を猛スピードで走らせていた。荒れた道路にタイヤが噛み、車体が揺れる。ケニーの顔はどこか冷徹にみえるが、それは表面だけだ。今のケニーに運転を任せたら、村を救うより前に我々が死んでしまうかもしれない。
本社からもう100㎞は離れている。通信が全部切れているのをチェックしてから、ジョンは口を開いた。「ケニーさん、本当は何が来るか、わかってるんですよね」
ケニーはようやく口を開いた。
「木を食う恐竜って、知ってるか?恐竜が家をみんな食い尽くしちまったんだ」
木を食う恐竜。そんなものがいるとは、全く聞いたことがない。それに、家をみんな食い尽くしてしまうとは、どういうことだ。木でできているもの以外も食うということか。そんな不条理が現実世界にありうるのか。
「ケニーさん、本当に言っています?そんな、全く聞いたことがないですよ」
ケニーはさらに続けた。
「俺が見たんだ。あの村は、家ごと食われてしまったんだ。木でできた家は全部、丸ごと。石造りの土台だけ残して、おがくずと血だまりだけが飛び散って、そこには……」
その瞬間、ジョンは無意識に息を呑み、ケニーの言葉を待った。
「そこにいたのは……ティラノサウルス・レックス...。」
「ティラノサウルス・レックス・・・本当にですか、だって…ティラノサウルスが肉を食べるなんて、誰でも知っているじゃないですか。車が襲われる話は聞きますけど、車ごと食べてしまったなんて聞いたことがないですよ。古典映画じゃないんですから」
「でも食っちまったんだよ、やつは!」
ケニーは声を荒げた。
「だから言ってるだろう、実際に見たんだよ!」
ケニーの声は怒鳴るように高くなった。
「あのティラノサウルスは、ただの恐竜じゃない。やつは進化して、何かが変わったんだ。どうやって木を食べるのか知らんが、やつはやったんだ。肉だけじゃ満足できなくなったんだよ。前々からあのぶっとい牙じゃ肉は切りにくいだろうって前から思ってたんだけどよ、あの歯の間にはしっかりと…しっかりと…」
「しっかりと何があったんですか」
「木片に紛れて、祭壇が挟まってたんだ」
ジョンは思わず後退りながら、半ば呆然とケニーを見つめた。
ケニーの言葉には、確かに何か信じられないものが含まれていたが、その声には確信が込められていた。ティラノサウルスが家を食ったとき、祭壇が挟まったんだとケニーは主張したそうだった。しかし確率的に言って、そんなものが挟まるだろうか?それはむしろ…恐ろしいけど合理的な理由で説明できそうだった。
「なんでまた祭壇なんかが…いや、祭壇の中に隠れようとしたんですよきっと。ちょうど中に一人くらい入る。それをティラノサウルスが鍵つけて祭壇ごと食ったんですよ、きっと。家ごと食うなんて、さすがに現実的な存在じゃないですよ。そんな怪獣なんて、実在しえないです」
「だからこえええんだよ!いいか、俺は奴を殺さにゃならない。多分だが奴は、家を食えば家に巣食う虫まで食えると学習したんだ、いやティラノサウルスという生き物がそうなんじゃないかという気もする。でもそんなケースが何件もあって、あのエリアに集中してるんだ」
ジョンはもう従うしかなかった。
「じゃあ、それはただの動物じゃないんですね。」
「そういうことだ。奴を3回見てる。右の頬に大きな傷跡があって、尾の先が欠けた雌だ」
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翌朝、夜明け前のこと。
「パパ! パパ! 起きて! たいへん! でっかい怪獣! みんな死んじゃう! 起きてよ!」
ボブは、娘メアリーの悲鳴に近い声と小さな手が体を揺さぶる感触で目を覚ました。彼女は半ば泣きながら、必死に父親を起こそうとしている。
「メアリー? どうしたんだ?」
寝ぼけ眼をこすりながらベッドから起き上がったボブの視線は、目の前で怯えた顔をしている娘に焦点を合わせた。メアリーの顔は真っ青で、頬には涙の跡が光っている。その小さな手は震え、指先は冷たい。
「外! おっきい怪獣が……木をバキバキ壊してるの! みんな怖がってる! パパ、早く見に来て!」
彼女の言葉に、ボブの胸に鋭い不安が走った。心臓が一瞬で跳ね上がり、全身に緊張が走る。怪獣? そんな馬鹿な、と頭では思いながらも、メアリーの必死な様子がただの子供の悪ふざけではないことを物語っていた。
ボブは急いでベッドから飛び起き、足を滑らせそうになりながら窓へと駆け寄った。カーテンを勢いよく開け放つと、目の前の景色に言葉を失った。
遠くの山裾が崩れるような音を立てて揺れている。その向こうには、家ほどもありそうな何かが何頭も迫ってきているのがぼんやりと見えた。それは木々の間からのっそりと動き、枝や幹をバリバリと砕き、木をなぎ倒す。色とりどりに紅葉が彩る山。舞い散るもみぢを煌めかせながら、怪物の軌跡が黒い線として残っていく。
その姿はまさに黙示録だった。
「嘘だろ……」
ボブは足が震えるのを感じながら視点を近くに移し、言葉を失った。信じられない光景が、現実として目の前に広がっている。彼の愛した家庭菜園は跡形もなく、夜中のうちに蹂躙されていた。頼みの車とトラクターは無残にも踏みつぶされ、庭木はニンジンでも収穫するかのようにすっぽり抜かれて横たわり、そこには一枚の葉も残っていなかった。
「メアリー、ママはどこだ?」
ボブは震える声で娘に問いかけた。
「ママは地下室にいる!そこだけ石造りだからって! でも、パパ、ママも怖がってた!」
ボブはすぐさま娘を抱き上げ、家の中を見回して防災用のバッグを探した。この事態をどうすればいいのか、全くわからなかったが、一つだけ確信していたことがあった――逃げなければならない。
「メアリー、大丈夫だ。パパが絶対守るからな。逃げよう」
しかし、それが何によって引き起こされたのかは、ボブの見ていた角度からはまったく見えなかった。
なにせ、それはもっと近くにいたのだから。
「パパ。逃げ・・・られない・・・あれ・・・」
メアリーが出窓を指さした。そこには、巨大なくちばしがあった。
その嘴は全く鋭さを感じず、前歯もみあたらない。むしろ柔和な表情をしているとすらいえた。
しかしその肉塊の重厚さは今まで見てきたどんな口・・・あのティラノサウルス・レックスを比較に入れてもだ…よりも、はるかに恐ろしいものだった。
ボブはその巨大な嘴が、出窓を越えて迫ってくる様子を目の当たりにし、まるで時間が止まったかのように息を呑んだ。その横幅は想像以上で、肩幅の1.5倍以上あることに気づく。
私はそれが何なのか、即座に理解した。草食で、ごく一般的なおとなしいカモノハシ竜。エドモントサウルスである。その一瞬、脳が理解を拒む。
しかしそれは今まで見て、狩って、食ってきたどんなエドモントサウルスよりもはるかに大きく、倍以上はありそうだった。まるで化け物だ。それに、エドモントサウルスが集団で人間を襲うなど、聞いたこともない。こんなにも狂気を孕んだエドモントサウルスが、目の前に迫ってくる事実に、彼は心のどこかで納得できなかった。
「これは……」
思考が混乱する中、彼は冷や汗をかきながらも、目の前に現れる巨大な影を見つめた。それが意味するところが彼なりに、分かったからだ。これまで狩って食料にしてきたエドモントサウルス、白亜紀という人類がいてはいけない土地に土足で踏み込み、好き勝手暴れてきた過去。それらだけではないだろう・・・私が人生のうちで関わった全ての行為が今、報いとして戻ってきたのだ。
わたしたちはすべての報いを受けねばならない。
この現実とは思えない光景はその代理人と、彼は理解した。
その時、家全体に衝撃が走った。
突然、家が揺れ、床が震えるような音が響き渡り、壁が軋む音が続けざまに鳴り響いた。ボブは何かが巨大な力で家を押しつぶしているような感覚を覚え、足元が崩れそうになるのを必死にこらえながら、メアリーを抱きしめた。
「だめだ……」
その一言が漏れた瞬間、再び轟音が家を包み込み、木材が裂けるような音が響いた。恐ろしい力が家全体を圧倒している。何がおきているのか、確信できないが、構造材が一本、また一本と破断していっていることだけはわかる。
家が断末魔を上げる中、ふたりは奇妙なまでの静寂をもって硬直するほかなかった。
メアリーは、最初の悲鳴や涙をすべて飲み込んでしまったのだろう。恐怖に固まったまま、目を見開いて動かなくなっていた。彼女の顔には恐怖と混乱が入り混じり、体が震えている。泣きじゃくることすらできず、ただただその場に硬直している。目の前の恐怖を捉えきれないように、無意識のうちに涙をこぼし、失禁していた。
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ジョンの目はすでに重く、まばたきをするたびに視界がぼやけていた。体は疲労で限界に近づいており、集中力も途切れがちだった。山道のアップダウンを越え、狭い道を走る中で、彼は何度もアクセルを踏み込む力が弱くなり、ハンドルを握る手もだんだんと鈍くなっていった。
「俺が変わる、お前は休め」
ケニーはそう主張したが、ジョンはそれを一番恐れていたのだった。残念ながら、それは的中した。
「ケニーさん、ちょっと速すぎませんか?」ジョンは恐る恐る言った。車が山道を曲がるたびに、タイヤがガタガタと音を立て、車体が揺れる。
「うるさいな、速さが足りねぇんだよ。」ケニーの返事は短く、冷徹なものだった。彼の目は前方に集中しており、その表情はどこか空気を読まず、ただ目の前の目的地に突き進んでいるようだった。
車がさらに速く進み、ジョンはシートにしがみつきながら、ケニーの運転に震えていた。道はどんどん狭くなり、道端の岩が迫ってきた。ケニーは全く気にせずに、荒れた道を猛スピードで突き進んでいる。
「ケニーさん!危ないですよ!」ジョンはもう耐えられず叫んだが、ケニーはその声に耳を貸さず、アクセルを踏み続けた。
「後ろを振り返る暇なんてないんだよ!」ケニーは冷たく言い放ち、道をさらに加速させた。車が振動し、タイヤがわだちに食い込んでいく。ジョンはもう恐怖しか感じられなかった。
「ケニーさん、ほんとうにこれで大丈夫なんですか…?」ジョンは声を震わせながらも、ぶじに到着すること、そして集落にまにあってくれと祈るのだった。
そして、集落が見えてきた・・・とともに、二人の旅は一旦停止せざるを得なくなった。道に向けて何本も木がなぎ倒されており、車両の交通を完全に遮断していた。
ケニーは直前に積み込んだ箱を開くと、チェーンソーを取り出した。
そんなものを持ち込んでいたとは。
「持ってきて正解だった。よしジョン、急いでばらしてどけるぞ。奴はもう、多分、来ている筈だ」
日が少しずつのぼってきている。焦る中、進路をふさぐ分の木をどけるとトラックは走り出す。
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バキバキと家が破壊されていく。何が起こっているのか、想像もつかなかった。しかし天井に穴があき、青空が見えたときようやくその非現実的な状況を理解した。
やつは…家を抱え込むようにもたれかかり、樹皮で葺いた屋根をバリバリと食い散らかしているのだ。
メアリーがようやく口を開いたが、もはや言語のていをなさなくなりつつあった。
「てんじょうから・・・おそら・・・」
親子は、もう何ということもできないほどの恐怖に押しつぶされながら目の前の黙示録を見つめるしかできなかった。窓の外には、もう何頭もの…家よりデカいかののようにすら見えるエドモントサウルスがたむろしている。
床が傾きかけた家を第二波が襲う。窓ガラスを貫通し、巨大な頭は書斎を貫き本棚を加え、何冊かの本をまとめて口へと運び込んだ。よほどうまかったのか、目つきを変えて書斎をかき回す。
愛した家は、もはや廃墟とすらいえない状況になっていた。
巨大な恐竜たちは家の外壁を、柱を、そのカモのような嘴で探り、くわえ込めないようであれば腕で殴ったり、体重をかけて押しつぶすようにして分解し、くわえ込める大きさにすると口に含んで咀嚼した。それがもう、十頭以上。どんなティラノサウルスよりも大きな、腰までが二階の窓くらいまである化け物が、たくさん、集落だったものを食い荒らしている。
うち一頭が、ついに抱き合う親子にむけてその巨大な頭を勧めた。親子はもはや、抵抗する気力も、逃走する気力すらも残していなかった。
巨大な嘴は、ガラスの破片であちこち切られ流血していた。しかしその表情は、なんとも温和そうな微笑を抱えている。その嘴が大きく開き、葉のない柔らかな口先で二人を抱擁した。
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「救難信号、出しますね」
惨劇だった。
ティラノサウルスよりもはるかに恐ろしい生き物がいることを、二人とも知らなかったのだ。まさか、あのおとなしいエドモントサウルスがこんなに大きくなり、村を丸ごと滅ぼすとは。
「ジョン、一番デカいのは何メートルある。これは、害虫駆除業者としてきわめて重要な写真になるぞ」
測距器の誤差もあるが、最も大きい個体は全長は17mを示した。ジョンはシャッターを切り、信じがたいほどの巨体が幻ではなく、確かにメモリに記録されたことを確認した。集落を食い尽くしていたのがまさか、「草食」の彼らだったとは、誰が思っただろうか。
「写真は記録したな、じゃ、始めるぞ」
ケニーは車を走らせたまま信号弾を撃った。もともと軍用の照明弾は、昼間でも真っ白い閃光と爆音をとどろかせる。恐竜の動きが止まり、ひょいと頭をあげて周囲を警戒し始めた。エドモントサウルスたちが破壊工作を止めたすきに、車は集落へと滑り込んだ。
エドモントサウルスたちは「新参者」の出現に一切気を留めず、食事を再開しようとした。しかしその緊迫した状況は、突如として終わりを迎えた。
崩れゆく家から、1人の女性が駆け出したのだ。それが何を起こすのか、その場を見ていたたった一頭の動物以外には想像もつかなかった。
茂みから、エドモントサウルスを上回るほどの巨大な顎が突き出す。ティラノサウルス・レックス。右ほおには大きな傷があり、尾は先端付近で折れ曲がってZ字になっている。それはのしのしと歩きながら、駆け出した女性を追いかけていった。
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エレンは一人、地下室に避難していた。しかし地下室のうえでは何やら大変なことが起きているし、基礎が歪んでいるせいか心なしか地下室自体が歪んできているような気すらする。
地下室は安全地帯だと思っていた。
この家を作るとき、一か所は安全地帯を作ろうといって最初に作ったのがここだったのだ。だからメアリーにも、なにかが起きたらここに逃げ込むように、と教えこんだものだった。
この事態に最初に気づいたのはメアリーだ。メアリーはまずエレンを起こしに行った。エレンは自分が夫を起こしに行くといったが、メアリーは毅然として、ママはここに残ってて、絶対つれて戻るから、といって、必死に止めたのだった。私はそれに従ったことを後悔していた。
音しか聞くことができないが、破壊に次ぐ破壊の末に建物の地上部はもうほとんどが倒壊したようだ。地下室の様子も何やら怪しい。石造りだが、ひとつ不安材料がある。それはDIYの最初にここを作ったことだ。強度は、石組みは、本当に大丈夫なのだろうか・・・?石組みの間から、砂がさらさらこぼれてきた。もう時間はないかもしれない。そんなとき、パンという音とともに、すべての破壊音が止まった。エレンは意を決して、”安全地帯”から脱出することを決意した。
暗い穴蔵から出たとき、あたり一帯は黙示録のような恐竜の群れによって破壊されつくされていた。地上には誰一人として歩いていない。ただ一台、なぜかシロアリ駆除業者の車だけが動いていた。私は必死の力を込めて、助けを求めて走った・・・そのときだった。開拓者が最も恐れる生き物が、最悪のタイミングで出現した。私も何度も遠くでは見たことがある、ティラノサウルス・レックス。大きすぎてふつうは襲撃する前に気づかなければいけないものである。一瞬ちらりと見えただけでも、エレンにハンターだったころの記憶を振り返らせるには十分だった。年老いた雌で、大きさも最大級に近い。右頬におおきな欠損があり、おそらく右側はよく見えていない。なので、その方向に逃げれば逃げ切れる可能性が・・・少しはあるかもしれない。ただ現状だとティラノサウルス・レックスがいる方角に走っていってしまっているので進路修正して、今回の破壊の原因でもあるエドモントサウルスと、ティラノサウルス・レックスをぶつける・・・そこまでが瞬時に思い起こされた。あとは、実行するのみ。
もし地下室におらず破壊を目の当たりにしていたら、こんなことはとてもできなかっただろう・・・とエレンは思った。
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ティラノサウルス・レックスは足が速くない。体が重すぎるのだ。しかしながら、歩幅自体が非常に広く人間の全速力に近いスピードをのしのし歩けばついていける。しかし年老い傷ついた”彼女”は、小さく仕留めやすそうな獲物に気をとられてまんまと作戦に乗り、その場において最も恐ろしい生き物に接触してしまったのだ。大地をとどろかせるような雄たけびが上がる。てんでバラバラに破壊工作を続けていたエドモントサウルスたちが、一斉にそちらを向き、突進を始めた。ティラノサウルス・レックスは状況のまずさを悟り逃げ出そうとしたが、もう遅かった。体重10トン近い史上最大の二足歩行生物は、ティラノサウルス・レックスではない。カモノハシ竜の質量はそれをはるかに上回る。史上最重量の二足歩行草食動物は、史上最重量の肉食動物へと突進し、激突した。その巨大な平手打ちがティラノサウルス・レックスの貧弱な腕をへし折り、巨体がそのまま慣性に従ってティラノサウルス・レックスの巨体を轢き殺すまでにはコンマ数秒の時間しか要さなかった。
エドモントサウルスの群れは怒りが収まらなかったのか、地団駄を踏みながら周囲をうろついていたが、用が済んだかのように、一斉に歩き出した…
誰もがこの、一瞬に終わった大怪獣戦争を固唾をのんで見守っていたが、群れが去るのを見てほっと一息ついた。バラバラとヘリコプターの音がやってくる。
すべてが、終わったのだ。
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ゼナは静かに一息つき、目をすうっと細めて、話を続けた。
「ってのが多分一番有名なエドモントサウルス襲撃事件。こわいっしょ?」
私の顔色がすぐに変わったのを見て、ゼナはニヤリと笑みを浮かべた。彼女の目には、どこか冷ややかな輝きが宿っている。
「こ、、、こわすぎでしょ、さすがに脚色されてるよね?」
私は言葉を詰まらせながら、心の中で言い訳を探すように呟いた。しかし、ゼナはまるでそんな私の反応を予想していたかのように、肩をすくめてから答えた。
「だといいんだけどね…」ゼナの声は、どこか遠くの記憶を辿るように低く響いた。
「恐竜の世界に植民するってのは、そういう世界に住むってこと。どんな生き物が、どんな行動をとるかなんて、実際目にするまで予想できないの。だから、心して臨まないとなんだよね。」
私はおそるおそる、聞いた。私は来月から、そんな世界にいくことになっているのだ。
「本当に、避ける方法はない・・・?」
ゼナは少し黙り込んだ。しばらくの間、私をじっと見つめながら、彼女は考え込んでいるようだった。その後、ようやく静かな声で答えてくれた。
「過去の記録と推測をできるだけ広く深く根拠まで知ること、かな…たとえばハドロサウルス類が朽ち木を好き好んで食べるって話は20世紀から知られているし、朽ち木と一緒に無脊椎動物を食べていたらしいって話も21世紀からある。そういう危険を予知している人が少しでもいてよかったかもしれないと思わなくはないよね。でもそれにしても結局。大抵の場合、後出しじゃんけんってわけなのよ」
私は勉強しようと誓った。過去を知り、今を生きるために。