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ヒオクダルスの二重螺旋  作者: 矢崎未紗
第03話 海の操言士と不思議な塔

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9.不思議な力(下)

「っ……あっ」


 目を開けると、幾何学模様の天上の梁が目に入った。細い木を組み合わせて作ったのか、見たことのない天上だ。

 紀更はしばらくその梁を見つめていたが、やがて上半身をゆっくりと起こした。身体に異常がないか心配だったが、両手も両足も、なんの違和感なく動く。

 首を前に傾けて自分の服装を確認すると、塔の中に入って湯浴みしたあとに着込んだ白い長袖のワンピースから変化はない。身体の上にはリネンの掛け布団がかけられており、今の今まで自分が気持ちよくすやすや寝ていたことを確信する。

 ゆっくり周囲に視線を向けて、室内を観察する。ここは水の村レイトの宿と同じ大きさの客室のようで、自分が寝ている寝台のほかには木製の鏡付きドレッサーがひとつあるだけの、とても質素な部屋だった。

 壁に向かって置かれたドレッサーの横には小さな窓があり、そこにはめられたガラスを通して、外から日光と思しき光が遠慮がちに差し込んでいる。どうやら時間帯的には、弐の鐘が鳴ったあとくらいのようだ。


「寝て、た……」


 どこまで憶えているか。記憶を手繰り寄せてみる。


――おみゃーさんらは疲れておろう。今日はもう休みんしゃい。

――うむ。すべて塔にお任せなされ。


 湯浴みを終えたユルゲンと一緒に真っ白なソファの空間から塔の一階に出て、老人と対面したところで記憶が途切れている。この部屋に来たことも寝台に横になって寝ついたことも、記憶にはない。


「どうして……」


 なぜ。どうして。何が起きているの。この場所は何なの。

 疑問が湧くが、目に入った木製のドレッサーを見て紀更はふと悟った。

 きっとあまたの疑問も疑念も、ここでは無意味だ。

 ここは不思議な塔――始海の塔。

 この塔の中で起きることやその仕組みについて、不思議に思っても詮無いことだ。浴場の空間やあの桶の仕組みなど、到底理解できるものではない。ならば理解しようとする必要などないのだ。


「昨日と同じなら……」


 紀更は掛け布団をのけて寝台から降りた。ドレッサーに近寄ってみると、予想したとおり着替えが用意されていた。白いブラウスに、茶色のアンダーバストタイプのコルセットベスト。紺青色のミディ丈フレアスカートに、長く歩いても足が痛くならない履き慣れたブーツ。すべてゼルヴァイスを発つ時に、紀更が着ていたものだ。

 海に投げ出されたためにぐっしょりと濡れ、砂浜から塔まで歩いた際に泥で汚れていたはずだが、まるで仕立てたばかりのようにきれいになっている。昨夜、立方体の空間で脱いだままにしたら消えてしまったはずだったが、()()洗濯でもしてくれたのだろう。


「ありがとうございます」


 あのフードの老人以外に誰がいるのかはわからないが、誰かが世話をしてくれている気がして、紀更はドレッサーに向かって礼を述べる。それから着替えて身支度を整えた。




「やあ、おはよう、紀更。よく眠れたかい?」


 信じられない――それが最初に思ったことだった。だが次に、この人ならこんなこともあり得るかもしれない、と妙に納得してしまった。


 着替えた紀更が狭い客室を出ると、目の前は階段の踊り場だった。

 向かって右には上へと続く階段。そして左には下へ伸びる階段。その途中にある、平坦な部分。昨夜一階から見上げていた、円柱の塔の壁に寄り添う螺旋階段の一部だった。

 なんとなく上に行く気にはなれず、紀更は左手の方向へ階段を下りた。黒く冷たい階段の手すりは、起きたばかりの身体にはひんやりとして気持ちがいい。

 円柱形の建物の中、円を描きながら下りていくと、壁の明灯器らしき照明器具に照らし出されている一階が見えてきた。昨日と変わらずに大きな絨毯が敷かれていたが、昨日と違ってその絨毯の中央には大きな丸テーブルと、それを囲むように十個ほどの椅子がセッティングされている。そしてその椅子のひとつに腰掛けて優雅にティーカップを口元に運んでいる見慣れた姿は、さわやかな笑顔を浮かべた王黎だった。


「いやあ、昨日ぶり。無事で安心したよ」


 ティーカップを皿に置いて立ち上がると、王黎は呆然としている紀更に近付き、そっと抱きしめた。


「よかったよ、本当に」

「王黎……師匠」


 その声はふざけてなどいなかった。本当に紀更の身を心配し、そして無事でいることを喜んでいるあたたかな声だった。

 紀更も王黎の身体に両腕を回し、ぎゅっと王黎に抱きついた。

 夢でも幻でもない、確かな感触。生きた王黎が間違いなくここにいる。そのことにとても安心した紀更は、自分が無事でいることも同時に実感した。


「王黎師匠、どうして……あの、ここは、ほかの皆さんは」


 紀更は王黎から離れると、不安な表情で王黎を見上げた。訊きたいこと、言いたいことが堰を切ったように出てくる。


「最美さん、エリックさんルーカスさん……ヒルダは……船にいた皆さんは!?」

「紀更、大丈夫だよ。落ち着いて。ひとつずついこう」


 王黎は紀更の両肩に手を置き、紀更を落ち着かせた。それから椅子に座るように紀更をうながす。


「まず最美とエリックさん、ルーカスくんは無事だよ。騎士の二人はこの塔の中にいる」

「よかった……皆さん無事にここへたどり着いたんですね」

「いや、僕らのパーティ以外の船に乗っていたみんなの安否はわからない。いま最美に、周辺を飛んで偵察してもらっているところだよ。可能なら海上まで飛んで、ジャンク船の行方を捜すように言ってある」

「行方って……王黎師匠たちは船で上陸できたんじゃないんですか!?」


 安心したのも束の間、不穏な現状を聞かされて紀更の表情が陰った。


「うん、それは全員そろったら話すよ……と思ったけどもうそろうね」


 王黎の視線の先、塔の中にあるふたつの階段。右手からはユルゲンが、そして左手からはエリックとルーカスが下りてきた。

 階段の途中で互いの姿に気が付いた男三人は、それぞれ安堵の言葉を掛け合いながら中央の丸テーブルに向かって歩いてくる。


「おはようございます。雨も風もやんで、気持ちのいい朝ですよ」


 王黎は紀更にそうしたように、三人にも自然な笑顔を向けた。


「そのようだな」

「王黎殿のその清々しいまでに普段と変わらない笑顔……逆に安心しますね」

「度胸があるのかそれともにぶいのか、よくこの状況でのんきに茶なんか飲んでいられるな」

「いやあ、これでも僕なりに驚いているところだよ。でもこのお茶に罪はないからね」


 王黎はそう言いながら、ティーポットから二杯目のお茶をカップに注ぐ。いや、もしかしたら三杯目かもしれない。

 男三人はそれぞれ一人分ずつの席を空けて、椅子に座った。

 王黎の隣に座っていた紀更は、エリックに視線を向けた。


「あの……ご無事でよかったです」

「紀更殿こそ、無事で何よりだ」

「海に落ちたって聞いた時は本当に焦りましたよ!」


 エリックは硬い表情のままだったが、ルーカスはその時の焦りを思い出したのか高揚した。


「紀更殿が落ちて、追いかけるようにユルゲンさんも! 王黎殿やヒルダさんを中心に、船員の方が捜索、救助できるように懸命に動きましたが嵐は強くなる一方で!」

「それで……あの、皆さんはあの嵐の中、どうやってここに?」

「ふふっ、実はね……僕らも全員、海に落ちました~」

「へ……?」


 ティーカップを置き、テーブルの上で優雅に手を組んだ王黎は、にこにこと楽しそうに笑いながらとても軽い口調で告げた。


「船がどんどん流されて、マストを支えている柱が折れそうになってね。船内にいたエリックさんたち全員呼んで、みんなで甲板に上がって、柱が折れないようになんとか固定、強化しようと四苦八苦していたらね、風なのか雨なのか波なのか……とにかくものすごい力に押されて全員ぼちゃん!」

「ぼちゃん……」

「あ、全員っていうのは最美含めて僕ら四人のことね。いやあ、見事に落ちましたね」

「ああ……」


 落ちた瞬間を思い出して、エリックは足元がすくむ気がした。


「それでお互いどこにいるかもわからないんだけど、ふと見たら光ってる塔が見えてさ。みんな、塔をめがけて泳いだよね」

「泳いだというか……なんとか沈まないでいられたというか……奇跡ですね」


 王黎が同意を求めて視線を向けると、ルーカスがぽりぽりと頬をかいた。

 紀更と同じくらい船酔いが激しく、水辺に慣れていなかったルーカスのことだ。泳ぐ能力にも限界があり、陸地ほど機敏には動けなかったのだろう。


「なんとか浜辺に上がったら、幸運にも四人みんな合流できたんだ。それで見えてる塔を目指して歩いてこの一階に来たら――」

「――お爺さん! フードをかぶったお爺さんがいませんでしたか!?」


 小柄な老人と思われる人物の存在を思い出して、紀更は前のめりになった。性急な紀更の態度に王黎は少し戸惑いつつも、首を横に振る。


「いや? いたのは――」

「お爺さんもいるんじゃよ~」

「っ!」


 突如知らない声が聞こえてきて、エリックとルーカスは椅子を倒す勢いで立ち上がった。


「誰だっ!」

「安心せい、敵意はござらん。まったく、どいつもこいつも警戒心の強いことじゃ」


 向かい合うような階段から、声の主が近付いてくる。

 ユルゲンと同じく、船からしっかりと長剣を持ち出して腰に下げていた二人の騎士は、今にも抜剣しそうな勢いで声の主、フードを目深にかぶった背の低い老人を睨んだ。


「この状況なら当然でしょう、クォン」


 髪や肌の色素がやけに薄い女性が、老人の隣で肩をすくめる。

 紀更とユルゲンはフードの老人とは昨夜顔を合わせたが、その女性とは初対面だった。


「おはようございます。昨夜はどうもお世話になりました」

「え、王黎師匠、お知り合いの方ですか」


 そして逆に、王黎たちはその女性を知っているようだが、フードの老人とは初対面のようだった。


「昨夜僕らがここに来たら、あの女性がいたんだよ」


 王黎がそう答えると、紀更は女性に視線を移した。左右の襟を胸元で重ね合わせたようなその服は、あまりオリジーアでは見ないデザインだ。サーディアでは一般的な服装なのだろうか。


「それで、朝から早速で悪いんですけどそろそろ教えてください。あなた方はいったい、どこのどなたなんでしょうか」


 マイペースを崩さない王黎は優雅に立ち上がると、老人と女性を正面に見据えた。その口元に浮かぶ笑みはどこか挑発的で、グレーの瞳は笑っていない。


「ほぉ、ほぉ」


 フードの老人は王黎の威圧するようなその空気に呑まれることなく、間延びした声で返した。


「よくもまあ、そんな態度ができるもんじゃ。この初代操言士様にな」

「初代……初代操言士っ!?」


 仰天した紀更の声が、塔の一階に大きく響き渡った。

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