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ヒオクダルスの二重螺旋  作者: 矢崎未紗
第03話 海の操言士と不思議な塔

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9.不思議な力(中)

 また別の空間になってしまったらどうしようかと少しばかり不安だったが、木製の扉を開けたそこは壁も天井も真っ白なソファの空間で、きっと自分と同じような理由でソファに座れない、汚れたままのユルゲンが仁王立ちで待っていた。


「あの……すみません、お待たせしました」

「ああ。大丈夫か? 何か危険なことや変なことはなかったか?」


 紀更が声をかけるなり、ユルゲンは早口に問いかけた。

 右側の空間を偵察したところ危険因子は何もなかったが、紀更が行った左側の空間も同じだとは言いきれない。紀更がこうして無事に戻ってくるまで、正直ユルゲンは気が気ではなかった。


「はい。不思議なことはたくさんありましたが、危ないことは何も」

「そうか」


 ユルゲンは無事を確かめるように紀更の頬をなでそうになったが、差し出しかけたその手は急いで引っ込めた。海水も泥も雨水も、すべてを流してきれいになった紀更に、今の自分の手は汚れすぎている。


「ユ、ユルゲンさんも……どうですか」


 何が、とは言わない。それを言うのはなぜか気恥ずかしかった。

 しかしユルゲンにはしっかり伝わったようで、彼は二度三度頭をかくと、低い声で短く言った。


「すぐ戻る。ここで待ってろ」

「はい」


 紀更が返事したのを確かめて、ユルゲンは意を決して右側の扉の奥に向かった。

 残された紀更は、誰も座らないソファを見下ろす。


(もう座っても……いいわよね)


 紀更はためらいがちに、おずおずとソファの端に腰を下ろしてユルゲンを待った。

 右側の扉の方も、不思議な現象は同じように起きたらしい。しばらくしてからソファの空間に戻ってきたユルゲンは、絹のようになめらかで木綿のように涼しそうな生地でできた黒い長袖のタートルネックと、黒いパンツスタイルだった。紀更と同じで、おそらく着ていた服はどこかへ消えてしまったのだろう。

 くるぶしが見えるアンクル丈に白いサンダルのその姿は、防具を身に着けた普段の傭兵姿と違って、なんだかユルゲンでないような印象を受ける。つんつんとした黒髪も、いつもより少しだけ寝ており、さわったらやわらかそうだ。

 白いサンダル以外全身真っ黒なユルゲンの、あまり見慣れない姿に紀更はパチパチと瞬きをした。


「ずいぶん雰囲気が違いますね」

「俺らが着てた服はどこに消えたんだ。こいつが消えなかったのはよかったが」


 ユルゲンは左手に持った両刀に視線を落とした。着ていた服と一緒にベルトも消えたからなのか、鞘をかける場所がなく手持ちになってしまったようだ。


「いったい何なんだ、ここは」


 ソファに座っている紀更の隣に腰を下ろしながら、ユルゲンは少し苛立ちを含んだ声で呟いた。

 外観は円柱形の塔。しかし中には豪華な大浴場。それも、自動で桶の中に湯が張られたり、着ていた服が消えたり、なかったはずのドレッサーと替えの服が現れたり、摩訶不思議なことが続く。

 ここが間違いなくサーディア国内だとして、このような建築物や設備が、サーディアでは一般的なのだろうか。大陸で一番栄えているのはオリジーアだと思っていたが、自分たちは井の中の蛙だっただけで、他国はこんなにも発展した技術を持っていたというのか。


「これからどうしましょう」

「そうだな」


 外はまだ嵐で、こんな贅沢な湯浴みをしている場合ではないはずだ。仲間たちを乗せたジャンク船は、どうなっただろうか。全員、同じようにこの場所へ上陸できていればいいのだが。


「さっきの爺さんに訊いてみるしかないな」


 紀更から判断を求められたユルゲンが出した結論は、それだった。

 この不思議な建物について、どうやら何かを知っているらしい、唯一の人物。あの老人と話をしないと、次の段階に進まないだろう。


「身体はどうだ。大丈夫か」

「はい。ちょっとふらふらしますけど……大丈夫です」


 先にソファから立ち上がったユルゲンは、おもむろに紀更へ右手を差し伸べた。

 紀更はその手を取るべきかどうか一瞬迷ったが、おとなしく自分も手を差し出した。そして、ユルゲンに引っ張られるようにしてソファから立ち上がる。

 思い返せば、砂浜からこの空間に来るまでずっと、ユルゲンに身体を抱き寄せられていた。緊急事態だったし意識もほとんどうつろだったので気にならなかったが、状況も自身も落ち着いたいま思い起こすと、なんて恥ずかしいことをされていたのだろう。


「あ、あの……大丈夫ですっ」


 急にいたたまれない気持ちになった紀更は、不自然なほどにユルゲンの手を振り払った。ユルゲンの手にふれていると、先ほどまでの身体の密着を思い出して頬がカッと熱くなりそうだった。


「もう、一人で立てますから」

「無理はするなよ」


 振り払われた側のユルゲンはさして気にすることもなく、俯いて頷く紀更の頭をぽんぽんと軽くたたいた。

 それからユルゲンは、この空間の出入り口となっている鉄の扉を静かに開けた。この空間に入った直後、ユルゲンが開けようとしても開かなかったその扉は解錠されたらしく、今はなんなく開いた。前を行くユルゲンの一歩うしろに、紀更は付いていく。


「どうじゃ。さっぱりしたかぇ?」


 円形の床の中央に、正方形の絨毯。壁に寄り添う、高層まで伸びるふたつの螺旋階段。

 そこは先ほどと変わらない塔の一階だった。

 塔の中に入ってきた時と同じ光景が広がっていたので、紀更とユルゲンはひとまず胸をなでおろした。


「よし、よし」


 相変わらずフードを目深にかぶって表情を見せない老人は、満足げに頷く。


「ふむ……何か訊きたいことがあるようじゃが、おみゃーさんらは疲れておろう。今日はもう休みんしゃい」

「あの、でも……休むなんてどこで」


 紀更が困ったように言うと、老人は得意げな口調で言った。


「うむ。すべて()()お任せなされ」

「任せるって、何、を……」

「っ……」


 紀更とユルゲン、二人そろってそれぞれの視界がぐにゃりとゆがむ。

 発した言葉は途切れ、二人は意識を失った。



     ◆◇◆◇◆



 身体が軽い。ふわふわとしている。

 自分がここに居るという感覚はあるが、五感は少しばかりにぶい。


(私……寝てるの?)


 ぼんやりと、これは夢の中だと思う。

 穏やかな午後の日差しの中、やわらかい草の上に寝そべっているような、そんな夢だ。


――なーちゃん……なーちゃん。

(その声……俊?)


 俊だ。俊の声だ。


(俊がいる夢……そっかあ……夢の中だから、俊がいるのね)


 でも身体が動かない。俊の声は聞こえたのに。


(俊……いま、どうしてるの)


 年が離れていることもあってか、自分のうしろを必ず付いて歩く俊がかわいくて仕方がなくて、しょっちゅう抱き上げてはぎゅっと抱きしめていた。そのたびに、俊は嬉しそうに笑ったものだ。


――ひかりはね、だいじな、ことば!


 そうだ、あの頃の俊は時折操言院へ行って、見習い操言士の勉強をしていた。

 操言の力を持つ王都住まいの幼児は、日常生活の合間に操言院へ通う。本格的に操言院に通う前から、言葉というものを学んでいく。操言士にとって必要なことを、ゆっくりと憶えさせられるのだ。


――はっぱをね! はっぱうかせるの! しゅんくんできた!


 操言院へ行くたびに、俊の語彙は増えていく。普段は父に似て静かだが、ひとたびスイッチが入ると俊は途端におしゃべりになった。


――葉っぱを浮かせられるの?

――うん! みてて!


 そう言って俊が空中に浮かせた葉っぱを見て、紀更は驚いたものだ。

 地面に置いた葉っぱを易々と目の前の高さまで浮かせるそれは、間違いなく操言の力。俊が生まれながらに持つ力によるものだった。


――すごいねえ。すごいねえ、俊。


 紀更は笑顔を浮かべ、大げさなほどに俊を褒めた。

 だがすごいと言いながらも、俊がこうして歩いていく道の先は、自分とはまったく関係のない、縁のない未来だと思っていた。弟の俊に対して関心はあったが、俊がなろうとしている操言士に対してはそれほど関心がなかった。

 操言の力を持たない者が操言士について深く知る意義はない。必要もない。操言士のことをよく知らなくても、自分たちの生活は成り立つから。操言の力を持たない者からすれば、操言士は同じ人間でも何かが決定的に違う存在だから。そんな思いが、操言士という存在に対して紀更の中に隔たりを生んでいた。


(俊……もし今も生きていたら……あの時とは違う話をできたかな)


 まだ六歳だった。もし生きていれば、今は七歳。もっと言葉を憶えて、もっとおしゃべりになっていたかもしれない。姉弟そろって見習い操言士になっていたら、二人でどんな話ができただろうか。


(あれ、でも……)


 ああ、夢が覚めていく。

 でも待って。気付いたの。ねえ、おかしいの。


(俊……私のこと……なんて……呼ん……)


 寝そべっているような感覚が薄くなっていく。

 紀更の意識は真っ白な光の中へと急速に吸い込まれていった。

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