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ヒオクダルスの二重螺旋  作者: 矢崎未紗
第03話 海の操言士と不思議な塔

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8.嵐(下)


 するとユルゲンの無音の罵詈に恐れをなしたのか、ほんのわずかに風が弱まり、波山が小さくなる。そのささいな勝機をユルゲンは逃さず、波をかき分ける足と腕を奮い立たせ、ついに白い物体、意識のない紀更の身体を掴み取ることに成功した。


「紀更! おいっ!」


 呼びかけてみるが、返事はない。紀更は目を閉じてぐったりしている。

 ユルゲンは左腕を紀更の脇の下に回し、彼女の身体をしっかりと自分の身体に密着させた。これでもしまた波に彼女を攫われたら、今度は悪態だけではすませられないだろう。


(船は……っ)


 王黎たちのいるジャンク船まで戻らなければ。

 あたりを見回すが、ユルゲンの目に入ってきたのはどんどん遠くなっていく船と白い明かりだった。


(おい、嘘だろ)


 船へ帰還するための気力が、途端に減っていく。

 船は波と風に押されて、二人からどんどん離れていく。先ほど少し弱くなった風が、勢いを取り戻したようだ。


(どうする……)


 紀更の意識はない。呼吸があるか確かめたいが、相変わらず波が頻繁に襲ってくるので、自分が定期的に呼吸するだけで精一杯だ。とはいえ、諦めるという選択肢はない。紀更が海に落ちた瞬間に脳内をよぎった紀更の喪失という絶望は現実のものとならず、こうして彼女を腕の中に取り戻せたのだから。せっかく引き寄せたこの存在。このまま何もせずに、海の中に沈むつもりはない。

 ユルゲンは闇の中を見回した。

 何か、なんでもいい。掴まるための板切れ程度でいい。活路を開く何か――。


(――塔……)


 ふと、一行の目的地を思い出す。

 海の向こうの「塔」は、雨が降ろうが雲がかかろうが、見える時は見えるという。空を貫く高さで、確かな存在感で。遠目でもはっきりと。

 ゼルヴァイスにいた時、ユルゲンにはついぞ見えなかったが――。


(――っ!)


 ユルゲンは振り向いた。

 ジャンク船が流されていったのとは逆側の、灰色の分厚い雨雲の下。

 それ自体がうっすらとした光をまとっている、雲の上の空へ伸びる巨大な建造物。

 細長いそれは、確かに「塔」だった。


「紀更! 頑張れっ」


 ユルゲンは腕の中の紀更に声をかけると、彼女の顔が海中に沈まないように気を配りながら、再び足を動かし始めた。目指すはあの塔だ。

 なぜそこにあるのか。いつからそこにあったのか。もうこんなに近くに来ていたのか。いや、思ったよりもそこまでの距離はまだあるのか。疑問が次から次へと湧いて出る。

 嵐の夜の中、不気味にうっすらとした光をまとうその存在は希望の光というよりも、こちらをじらす悪人の誘いのように見えた。


(クソっ、服が……)


 海水を吸った服は重く、懸命にバタ足をしているが前に進んでいる気がしない。

 筋力も体力もあるユルゲンだったが、意識を失った人間一人を抱えながら荒波を超えていくのは、さすがにとてつもない負荷がかかる。だが紀更を――自分自身を含めて二人をいま助けられるのは己だけだ。

 ユルゲンはとにかく、無我夢中で水の中を進んだ。海水のしょっぱさも服の重さも気にしなくなった。とにかく塔へ近付けば、きっと陸地にたどり着けるはずだ。

 二十八年間の人生で最も長く感じる時間――それを超えて、ついにユルゲンの足は地に着いた。


「はあぁ……はぁっ」


 紀更を抱きかかえて、ユルゲンは砂浜に上がる。

 あたりは暗く、なんの明かりもない。月も星も、今は嵐の雲の上だ。空を貫く塔にまとわりついている光だけが、薄ぼんやりとその輪郭をこちらに伝えてくる。

 ユルゲンは荒く息をしながら波が来ないところまで上がり、紀更を地面に横たわらせた。そして彼女の口と鼻に耳を当てて呼吸を確認するが、残念なことに呼気の音も吸気の音も聞こえない。


「くっそ!」


 何度目になるかわからない悪態。

 ユルゲンは口の中にたまった海水を、唾液と混ぜてぺっと吐き出す。そして仰向けの紀更の顎を少し傾けて気道を確保すると、大きく息を吸って躊躇なく口付けた。


――ふぅ……。


 ユルゲンの吐く息が、ゆっくりと紀更の中に注ぎ込まれる。

 呼吸のない紀更が、もう一度自力で息を吸えるように。


――ふぅ……。


 一度口を離して自分が呼吸し、もう一度口付ける。


(紀更、逝くな!)


 戻ってこい。君が目指した塔に着いたぞ。こんなところで死ぬな。息をしろ。あの塔を見て驚く姿を見せてくれ。君の知りたいことが、学びたいことが、ここにあるんだろう。カタリーナのためにも、塔へ行くんだろう。


――ふぅ……。

「ぅっ……」


 幾度か繰り返された人工呼吸の末、紀更の肺はようやく役割を思い出したのか、活動を再開した。


「ごほっ……ぉほっ」


 酸素の届いた紀更の胸が、呼吸の妨げになっていた海水を押し上げる。紀更の首は自然と横を向き、込み上げてきた海水を吐き出した。そして何度か咳き込んだあと、紀更の目はゆっくりと開かれた。


「はぁ……ぁ……ユ、……ゲン……さん」

「ああ……おい、大丈夫か」


 声の返事はないが、紀更は非常にゆっくりと頷いた。


「はあぁ……」


 紀更の意識が戻った安心感で、ユルゲンは盛大に息を吐いた。深い安堵によって気がゆるむが、すぐにもう一度自分を奮い立たせる。


「立って歩けるか? どれくらい距離があるかわからねぇが、塔に行こう」

「と、ぅ……?」

「ああ、〝塔〟だ。見えるか? そこにあるんだ」


 紀更はうまく動かない両手を地面に突き、なんとか自力で身体を起こした。すると、荒波ただよう海とは反対の陸地側に、空へ伸びる塔が視界いっぱいに光り輝いて見えた。


「塔……これが」

「夜だし怪魔が出るかもしれねえ。外にいるのは危険だ。あそこがどんな場所かわからんが、せめて明るい場所にいた方がいい。行くぞ」


 早口でまくしたてると、ユルゲンは紀更の腰に左腕を回し、彼女を抱き寄せた。抱え上げたいところだが自分の体力もほとんど残っていないため、支え合いながら二人で歩くしかない。ユルゲンの力強さに押されるように、紀更は歩き出した。

 砂浜は雨水を吸って泥状になっており、二人の足にからみつく。海上と同じように横風も吹き続け、雨粒が頬を打ち付ける。とても歩きにくいが、ゆっくりと小股で進めばなんとか前に進むことはできた。

 そうして砂浜を超えると、密度の低い林の中に入った。あたりはいっそう暗くなったが、塔が近くなってきているからなのか、進行方向には絶えず薄ぼんやりとした光が見えている。


(塔に来られた……王黎師匠たちは?)


 自分の力ではなくほとんどユルゲンの力で歩く紀更は、まだはっきりとしない頭で考えた。

 ユルゲンはここにいる。塔のある陸地へ二人で上がれたようだ。だが王黎や最美、エリックやルーカス、ヒルダは――船にいた仲間はどうなったのだろう。この嵐の中、無事に上陸できただろうか。

 考えながらもとぼとぼと歩き続けると、林が切れて平坦な草地に出る。

 紀更とユルゲンの五十メイほど先には、確かに塔がそびえ立っていた。


 近付くにつれてわかったことだが、塔は円柱形だった。同じ形の石を重ねて建てられたようで、窓や彫刻のような装飾は一切なく、隙間のない石の壁が天高く、嵐をもたらしている分厚い雲の上へと伸びている。薄ぼんやりとした光を放っている外壁を観察するに、塔の直径は三十メイ程度はあるようだ。

 草地を歩いて塔に近寄ると、円柱の壁の一部に人が二人通れるほどの鉄の扉がはめ込まれているのが見えた。施錠されている可能性を心配したが、備え付けられている縦一直線に細長いドアノブに手をかけて押すと、鉄の扉は木製扉のような軽さで中に向かって開いた。紀更はぐったりとした足取りで、ユルゲンは警戒心を高めた慎重な足取りで、二人とも無言のまま塔内へ踏み入る。


 塔の中は真っ暗だったが、二人の身体が完全に屋内に入ると、途端に明るくなった。背の高いユルゲンよりも一回り上の高さの壁面に、ぐるりと円を描くように全部で十個ほどある照明器具が自動で点灯したようだった。

 円柱の壁の内側に等間隔で固定されている明灯器のようなその照明器具は、松明やランプのように炎を光源としているのではなく、自らが光を放つような不思議な部品を、火屋が覆っている。オリジーアでは見たことのない器具だ。サーディアでは標準的な照明なのだろうか。いっせいに点灯したそれらの灯りのおかげで、塔の内部はありありと見て取れた。


「ここが……」


 紀更は小さな声で呟いた。

 塔の中央には一辺が十メイほどの巨大な正方形の絨毯が敷かれており、二人が入ってきた鉄の扉から正面に向かって左右には、上へと続くふたつの階段がある。それらの階段は壁に沿うように塔の中でぐるりと二重螺旋を描き、照明器具の灯りが及ばないほどの高さまで伸びていた。しかも不思議なことに、螺旋階段を支える柱は一切ない。そしてよく見ればいま入ってきた扉以外にも、壁にはいくつかの鉄の扉がはめ込まれていた。外から塔の外壁を観察した際には、扉はひとつしか見えなかったはずなのだが。


「何なんだ、ここは」


 誰かサーディアの要人の居城か。それにしてはずいぶんと質素だ。というより、人が日々生活するために必要な調度品の類がない。それ以前に人の気配がない。居城だとしても、住人がいなくなって久しいのかもしれない。


「ここは始海(しかい)の塔。遥か昔、光の神様カオディリヒスと闇の神様ヤオディミスがこの世界を創る前から存在している塔じゃ」

「っ……!」

「誰だ!」


 頭上からしわがれた声が聞こえて、紀更は身をすくませた。ユルゲンは腰にぶら下げている両刀に右手をかける。紀更の腰に回した左腕は彼女から離さないまま、攻撃されてもすぐ反撃できるようにと臨戦態勢をとった。

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