3.レイト東街道(中)
「あれが怪魔だよ。怪魔カルーテだ」
王黎は怪魔の唸り声にそわそわする馬をなでてなだめながら、冷静に解説した。
「この大陸に生きる人々……いや、すべての生物にとっての脅威。自分たち以外の生物を見かけたら、なりふり構わずに襲ってくる〝敵〟だ」
その敵に、ルーカスは威勢のいい声を張り上げながら長剣を振り下ろしている。
「あ、あの! ルーカスさんお一人で大丈夫なんでしょうか!?」
人が怪魔と戦うところを初めて目の当たりにした紀更はうろたえた。
怪魔もそうだが、そもそも騎士が剣を振るうところも見たことのない紀更にとっては、怪魔と戦っているルーカスの雄々しい声も何かが引き裂かれる音も、不安を煽るものでしかない。
「ギイィ!」
「っ……!」
戦っているのは自分ではなくルーカスだというのに、紀更はまるで自分が危険な目に遭っているような気がして激しく動揺し、反射的に目を閉じた。
弱ければ襲われる。勝たなければ殺される。いともたやすく揺らぎ、脅かされる生命の安全。
紀更は目を閉じたまま顔を横に背け、突如目の前で始まった戦闘を決して見ないようにした。そんな紀更に、エリックが落ち着いた低い声をかける。
「紀更殿、大丈夫です。我々騎士は、カルーテ三匹ぐらいなら一人で退治できます」
ルーカスは、噛み付こうとして飛びかかってくるカルーテを長剣ではじき飛ばした。そして手綱を引いて馬を旋回させるとカルーテに長剣を突き刺し、その身を引き裂こうと力を込める。
前方にいるルーカスが怪魔を見つけ、すぐに応戦する。一方で、後衛にいるエリックは紀更の傍から離れず、別の場所から怪魔が襲ってこないか、周囲を警戒する。それはエリックとルーカスが、王都を出発する前に密かに決めていた護衛のフォーメーションだった。
「紀更殿に危害が及ぶことはありません。安心してください」
紀更を見つめるエリックの瞳には騎士としての自信と、紀更に安心感を与えてやりたいという優しさが映っている。
「そうだよ、紀更。大丈夫だから、しっかりとルーカスくんを見ておくといい」
へらへらとした笑顔ではなく、王黎は真剣な表情を浮かべた。
「怪魔退治は操言士の仕事でもある。紀更も、怪魔と戦うことは避けて通れないんだよ」
(私も、あの怪魔と戦わなきゃいけないの?)
紀更は恐る恐る目を開けると、前方のルーカスへ視線をやった。
紀更が目を背けている間に、二匹のカルーテが横たわり動かなくなっている。そしてその二匹の身体は、やがて黒い霧となって空中にとけて消えた。残りの一匹は、馬を駆ってカルーテの背後に回り込んだルーカスが力強く振り下ろした長剣によって、胴体から首が切り落とされた。
「っ……」
残忍な場面をじかに見てしまった紀更は、ぎゅっと目をつぶった。
「怪魔は自分たち以外のすべての生き物を襲う。それが家畜でも人でも、躊躇も容赦もしない。だから、怪魔を見つけたら殲滅しなければならない。でないと殺されるのは自分だからね」
「殲滅……」
「皆殺し、ってことだ。そのために騎士も操言士も、己の力を磨くんだ」
いつの頃からか、この大陸に現れるようになった怪魔。出現の時期と起源は不明だが、普通の動物でないことはわかっている。普通の動物ならば、死をむかえることで肉体の活動が停止し、そこには肉塊だけが残る。だが、怪魔は死ぬと消える。肉塊は残らない。まるで最初から肉体など持っていなかったように、黒い霧と化して霧散するのだ。
「なぜこの世界に怪魔が生まれたのか、それはわからない。けれど、僕らの平穏を脅かす存在であることは確かだ。その怪魔から人々を守ることは、操言士の大切な役目のひとつなんだよ、紀更」
(操言士の役目……)
王黎の言葉はいつになく重く、紀更の中に残って根を張ろうとする。
「ふぅ」
一息吐いてから長剣を腰元に収めると、ルーカスは周囲に視線を配った。カルーテは複数で群れることが多く、一匹いたらほかにも何匹か近くにいるものだ。だがこちらに向けられる敵意はなく、馬も緊張していないことから、おそらく今の三匹でひとまず終了だろう。そう判断したルーカスは紀更たちの方を向き、右手を上げて軽く振った。
「大丈夫そうです。進みましょう」
最美が手綱を振って、馬に歩けと命令を送る。馬はゆっくりと歩き出し、そのうしろにエリックも続いた。
「ありがとう、ルーカスくん」
ルーカスの馬に近付くと、王黎は笑顔を向けた。
「いえ、これが自分の仕事ですから」
王黎のお礼を、ルーカスはさわやかに受け流す。
エリックの言うとおり、ルーカスは怪魔カルーテ三匹を一人で退治してしまった。特に疲れた様子はなく、今の戦闘が彼にとって朝飯前であることは一目瞭然だった。
そんなルーカスの背中を、紀更は最美の背中越しに呆然と見つめた。騎士ならば、あのように簡単に「戦い」をやってのけてしまうものなのだろうか。紀更は、今まで知らなかった世界を見た気がした。
(王都の外では、こういうのが当たり前なのかしら)
騎士と操言士の努力によって、人が住まう都市部の中に怪魔が侵入することはない。都市部の中にいれば、怪魔に襲われることやそれと戦い殲滅することとは、基本的に無縁でいられる。
だが、一歩都市部の外に出れば、そこは危険が隣り合わせのフィールドだ。身を護る術と力を身に付けていなければ、次の瞬間はどうなるかわからない。
ルーカスやエリックにとって、いま出現したカルーテ三匹は取るに足らない存在なのだろう。だが、紀更には怖かった。離れた場所にいても身の危険を感じた。カルーテが発していた殺気は、自分のことも狙っていた気がする。相乗りしている最美の体温が近くになかったなら、背筋はもっと冷えていたことだろう。
「紀更、大丈夫かい?」
王黎が紀更の顔色をうかがう。震えそうな紀更の緑色の瞳に、王黎のやわらかい微笑が映った。
「大丈夫……です」
「そう? 水の村レイトは一日で着けるけど、あまりゆっくりしていたら夜になっちゃうし、怪魔がいないうちにどんどん進むよ」
王黎はそう言うと、紀更たちの馬とは距離をとり、後方のエリックの馬と並んだ。
「あれだけでいいのですか」
前方の紀更には聞こえないように、エリックは声量に注意して王黎に声をかけた。
「エリックさん、楽な話し方でいいですよ」
「そうか。ではそうさせてもらおう」
「うん。その方が話しやすいですね。で、紀更のフォローですが」
エリックの視線を左側に感じつつも、王黎はエリックの方は見ずに紀更の背中を見つめた。
「彼女はいま、見習い操言士業をお休み中ですから」
「紀更殿が休暇中でも、あなたは紀更殿の師匠だろう?」
「じゃあ、次に怪魔が現れたら僕が戦いますよ。師匠らしくお手本を見せるために」
「そういう話ではない」
「あれ、違いました? まあ、気が向けば指導しますよ。エリックさんたちはどうぞ気にせず見張り……じゃなかった、護衛をしててくださいね」
操言士団が騎士団に出した依頼の内容を、王黎は知らないはずだ。それなのに、王黎はさも知っている風に、冗談めかして笑う。
「最初からそのつもりだ」
王黎を食えない奴だと思いつつも、エリックは平静をよそおった。
「〝特別な操言士〟である紀更殿をお守りするのが、我々の任務だ」
「紀更は〝見習い操言士〟ですよ。まだ修了試験に合格していませんからね」
エリックが口にした呼称が気に入らなかったのか、王黎は少しだけ不機嫌さを滲ませた声で訂正した。
だが、その肩書きを使っているのはエリックだけではない。むしろ操言士団の操言士たちこそが、こぞって紀更のことをそう呼んでいるのだ。侮蔑ややっかみを込めながら。
(後天的に操言の力を宿したという特別な操言士……彼女に与えられたこの休暇は、本当に休暇だろうか)
文字通り、暇をもらって休むだけ。それだけで終わるはずがないという予感が、エリックの中に生まれ始めていた。
◆◇◆◇◆
「ギィィィイイイ!」
複数の怪魔カルーテが、威嚇の雄叫びを上げながら男を取り囲んでいた。外見はネズミのようだが、犬のような四本足をしているせいで、印象以上にカルーテの足は速い。
しかし、男にとって速さは問題ではなかった。速く来ようが遅く来ようが、こちらに近付けば迎え撃つ。特別短くもないが、一般的な長剣ほど長くもない二振りの愛刀は、すでに鞘から抜いてある。カルーテが飛びかかってきて牙を向けようものなら、この両刀で切り裂くまでだ。
「来いよ」
男は挑発するようにカルーテを睨みつけた。すると、男の敵意を感じ取った一匹のカルーテがジャンプして、鋭い爪先を向けながら男の頭上に飛びかかった。別の一匹は男の足に噛み付こうと、地を蹴って走り込んでくる。
多勢に無勢だが、男にひるむ様子はない。
「うらぁっ!」
「ギィイイィイ!」
こちらの攻撃範囲内に侵入した順に、男はカルーテを斬り斃していく。一匹は頭から、一匹は胴体を腹から上に向けて、真っ二つにする。一匹は霧散したがもう一匹はまだ息があったため、心臓があるあたりに片方の刀を突き刺して、止めの一撃を与えた。残ったカルーテも、攻撃をかわしたり受け止めたりしながら、男は鮮やかに葬っていく。
(これで全部か)
――ガサ。
「っ……!」
一息ついて警戒心が解けそうになるが、それも束の間、次の怪魔の気配を背中に感じ、男は急いで振り向いた。
「ギィイイイ!」
「カルーテが三匹にクフヴェが一匹、か。今日はやけに多いな」
新たなカルーテのほかに、くねくねと不自然に揺れ動く木の枝が見えた。樹木と同じで地面から動くことはできないが、枝や蔦、葉など多彩な得物で攻撃してくる植物状の怪魔クフヴェだ。
「操言の加護がなくなる前に、全部相手してやるよ」
今度は待たない。自分から行く。
男は両刀を握る手に力を込めて、怪魔たちとの距離を詰めた。
◆◇◆◇◆