3.夕日(中)
「王黎みたいに怪魔と戦う操言士か。皐月みたいに生活器を作る操言士か。それとも、別の操言士か」
「私は……」
紀更は返事に詰まった。
(まだ、わからない……)
自分がどんな操言士になりたいか。それはつまり、何をしたいのかということだ。
理由はわからないが、一年前の十六歳の時に、後天的に宿した操言の力。それを使って自分はどういう風に、人々の役に立つべきなのか。何ができるのか。どうなりたいのか。
「今は……」
声が渇く。
そんな紀更を急かすでも見限るでもなく、ユルゲンは黙って待った。
「わかり、ません……。でもわからないから知りたいと思う……知らなきゃ、って」
ローベルはもしかしたら、「操言士になるしかない」という宿命を恨んでいるのかもしれない。けれど自分は、彼と違ってきっとその宿命を受け入れた。
――決まりに従い、紀更殿には操言士になって、国と人々のために尽くしてもらう。
一年前、一方的に言われたその命令を、今は理不尽だとも勝手だとも思わない。操言士として生きることを、自発的に望んでいると思う。そう思えるようになったのは、師匠である王黎のおかげだ。
けれどももう一歩踏み込んで「どんな操言士になりたいか」と問われると、答えることはまだできない。今日、職人操言士について詳しく知ることができたが、ほかにどんな操言士がいるのか、まだほとんど知らない。操言士としての自分自身の特性についても、まだわからないのだから。
「あの……ごめんなさい」
紀更は下を向いた。せっかくユルゲンが訊いてくれたのに、答えられないことが申し訳なく、情けなくて恥ずかしい気がした。
「いや、謝らなくていい。そんな顔をさせたくて訊いたんじゃないんだ、すまん」
困ったような悔しそうな、苦虫を潰したような表情の紀更の目から明るさが失われてしまったので、ユルゲンは後悔の念を込めて一言謝った。
「自分でも不思議なんだが、君が何かを知るたびに驚いたり感心したり……そういう姿を見ているとな、退屈しないんだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
紀更がきょとんとした表情でユルゲンを見つめると、ユルゲンは深い声で頷いた。
王黎の講義をおとなしく聞いている姿や、わからないことを質問する姿。時々、なんと質問すればいいのかそれ自体がわからなくて、首をかしげるところ。驚きや疑問、感動や感心を、自然に表現できるところ。「知らなかった」、「すごい」と素直に言えるところ。
そうやって学び、日々成長しようとする紀更を傍で見ていることは飽きない。彼女が学びを受けるその道を、ずっと付いていったっていい。そんなことすら考える。
なぜそう思うのか、ユルゲンは自分でもわからない。故郷にいた頃は、こんなにも自然体で素直な少女が近くにいなかったから珍しいのだろうか。それとも、自分も紀更と同じように日々学び、成長している気持ちになれるからだろうか。
「『僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る』……俺の育ての親がよく口にしていた、なんとかって詩人の詩の一部だ。人生ってのは自分の前にすでにできている道を歩くことじゃない。悩んだり苦しんだり、失敗したり成功したり、そういう経験を重ねながら自分のうしろにできた道が、自分の人生なんだ」
「この先〝こうありたい〟と……まだ思えなくてもいいんでしょうか」
「ああ。自分がこれから歩く道を、いつでも目の前に描けなくていいんだ。これかもしれない、あれかもしれない。やってみて、やっぱり違うとわかって、また別のことをしてもいい。何かを目指して努力しても、叶わないことがある。逆に、無意識のうちにすっかり馴染んでしまっていることもある。自分の意志で進み、選び取ることをやめないかぎり自分のうしろに道はできる。大丈夫だ」
「はい」
紀更は涙がせり上がってきそうな目の奥に力を入れた。なんとか泣かないようにこらえながら、こくりと頷く。
目標を定められない、未熟な自分。でも、ユルゲンはそれを責めない。それでいいと、励ましてくれる。
操言士という存在は、きっと奥が深い。ほかになりたい職業があっても諦めなければならない不自由さ。今まで考えたこともなかったが、そんな悲しさもはらんでいる。その不自由さに涙した操言士は、きっとローベルのほかにもいることだろう。
それでも、決して覆らない宿命を受け入れて、皐月のように自分にできることを模索している操言士もいる。ユルゲンの言うとおり、自分の意志で進むことをやめなければ、いつかきっと、自分らしい操言士になれるかもしれない。
「ほら、初めて見る海だろ。陽が沈むところ、せっかくだから拝んどけ」
ユルゲンは腰を浮かせると、紀更の手を取って引っ張り上げた。そしてその動きに合わせて立ち上がった紀更と一緒に、西の果てに目を向ける。
行き止まりの歩廊の向こう、遠く遠く。水平線に沈む太陽が眩しくて、二人は少し目を細める。空が海を抱いているのか、海が空を抱いているのか。夕日に赤く染められた西の空の茜色は、天上に近付くにつれて色彩が変わる。暗くなった東の空では、深い紺色が滲み始めていた。
「きれい……太陽って、海に沈むんですね」
「太陽はカオディリヒスの化身だと言われているが、あの海の下でカオディリヒスはどんな夜を過ごすんだろうな」
「光の神様なのに、夜も起きてるんでしょうか」
「そう言われると、俺らと同じように夜は寝てるかもしれねぇな。神様だって眠くはなるよな、きっと」
「そう、ですかね……ふふっ」
神様だって眠くなる、か。
紀更は口角を上げて笑った。
「ユルゲンさんは頭がやわらかいですね」
「いや、そんなコト生まれて初めて言われたぞ。どこをどう見てそう思うんだよ」
「ふふっ……いろいろです」
「そうか。まあ、固いよりはいいだろ」
暗かった表情から一転してくすくすと笑う紀更に安心し、ユルゲンの胸中はぬくもりで満たされた。
(明日も頑張ろう)
一方紀更は、晴れやかな心でそう思った。ユルゲンと話すと励まされるし笑えるし、心が穏やかになれる。一日の疲れがやさしくとけていくようだ。
夕日を見つめる二人を、沈みゆく太陽の最後の輝きが照らし出す。
光の神様カオディリヒスの化身が海の下に隠れてもまだしばらく、紀更とユルゲンは茜から紺碧にゆっくりと変わっていく西の空を二人きりで見つめていた。
その後、日没を知らせる肆の鐘が鳴ったのち、夕食前になってエリックとルーカスが合流した。騎士団での所用は一日がかりとなったようだ。
ゼルヴァイス城下町は広く、宿や食堂の数も多い。陽が沈んでから営業を開始する、未成年お断りの飲酒専門の店もあり、せっかくなので鬼女将食堂とは違う別の食堂で夕食にしようと王黎は提案した。
短時間とはいえ太陽がない夜の時間帯に店を営業するには、火を光源とするランプだけでなく多くの明灯器が必要になる。そこはさすが、職人操言士が多いゼルヴァイス城下町で、店内には大きくて高品質な明灯器がいくつもあり、昼間にたっぷりと蓄えた日光を長々と発して店内を照らし出していた。さすがに夜中まで輝き続けるのは無理だろうが、仕事終わりの人々が飲んで騒いで一日の労をねぎらう時間を彩るぐらいの間はしっかりと仕事をする明灯器が多かった。
紀更は成人しているので飲酒してもいいのだが、まだ飲み慣れていないこともあって酒は好まない。そんな紀更と違って、久しぶりにゆっくり酒が飲みたいと駄々をこねたのは師匠の王黎の方で、そしてそれを秒速で却下したのはエリックだった。
「エリックさんのけちんぼ」
「少しならわたしも嗜むし、あなたが飲むことも止めはしない。だがゆっくり飲みたいと言いつつしっかり酔う気でいるようなので却下だ。明日は城主に会う予定なのだろう?」
「けちんぼけちんぼ~」
「王黎師匠、やめてください、みっともない」
エリックは呆れて無言になり、そんな師匠が恥ずかしくてたまらない紀更が、王黎の袖を引っ張って制止する。そんな風に夕餉の時間は過ぎていった。
◆◇◆◇◆
[塔へ行きたがっとる操言士がおるんよ。力になったってな]
「っ……」
勢いよく目を開いたが、部屋の中はまだ暗かった。壱の鐘は鳴っていないので、日の出前だ。それでもこんな時間に起きてしまうのは仕事のためと、そして今日も見た夢のせいだろう。
(また……どうして)
ここしばらく、毎日同じ夢を見る。誰だかわからないが毎度同じことを告げるのだ。
(塔へ行きたがっている操言士?)
それは誰のことだ。ゼルヴァイス操言支部の操言士か。塔とは、北西に見えるあの塔のことか。操言士がなぜあんな場所へ行きたがるのだろう。あの建物に何かロマンでも抱いているのだろうか。誰かから行くように頼まれたのだろうか。
(だめ……だって、あの場所は……)
あれはなんだ、確かめてやる、誰よりも一番に。そう熱に浮かされて海に出ていったゼルヴァイスの男たち。本当にそこにあるのかどうか不確かなあの場所を目指して、無謀な船旅に出た者たち。
ヒルダの父もその一人だった。しかし父は塔にたどり着くことなく、最も大切なものを失った。そして海に消えた。
――ヒルダ、お前はあれに関わるんじゃないよ。気にしないにこしたことはない。
亡くなった両親に代わって育ててくれた祖母が、いつも言っていた。
あれは見えるだけで、誰もたどり着けない場所。空に浮かぶ雲と同じで、見える時は見えるしそこに存在しているのだろうが、決して人の手が届く場所にあるのではない。関わるんじゃないと。そうでないと、両親のような最期になってしまうと。
(関わりたくないのに……)
ヒルダは寝台から降りると、いつもより少し早めではあったが今日の担当である漁船の出港に遅れないように身支度を開始した。




